夏樫の園へ

 少し離れたどこかでクマゼミが鳴いている。視界の隅に映りこんだガラスの風鈴が澄んだ音を奏で、夏の熱を帯びた風が体の上を通り過ぎていった。

 無意識に上半身を起こして、そこで初めて眠りに落ちていたことに気がついた。左にはキュウリの植えられた広くない庭。右には円卓が鎮座する畳の部屋。ここは間違いなく実家の縁側だった。

 日光から少しでも遠ざかろうと部屋の中へ避難する。卓上には細い煙を吹かす蚊取り線香の豚がいて、そのすぐ横に麦茶が置いてあった。縁から底へ、コップの透明な壁を伝って流れた水滴が、足元に小さな池を作っている。きっと母さんが用意してくれたものだろうと思い、僕は麦茶を流し込んだ。渇いた喉にはそれが世界一の飲み物であるかのように感じられた。


 空になったコップを手に台所へ行くと、そこに母さんがいた。昼食の準備をしていたのだろう。手にはそうめんの袋が握られている。

 僕に気づいた母さんが見下ろして微笑む。

「起きたの、おはよう」

「おはよう。麦茶飲んだ、ありがと」

 僕はお礼を言ってコップを手渡す。

「ソウマが食器持ってくるなんて珍しいね」

「そうだっけ?」

「良い子になったついでに、ちゃっちゃと宿題もやってしまい」

「あん、そうする」


 自分の部屋に戻りいざ机に向かってみたものの、まだ頭が寝ているからなのか、驚くほどにやる気が起きない。ランドセルからドリルを出すのも面倒臭い。本棚のマンガ本も大抵読みつくしてしまった気がするし、今さら夢中になれる玩具も置いていない。

 結局ただぼんやりと空を眺め、浮かぶ雲を食べ物に見立てて暇を潰し、昼食の時間が来るのを待った。



 そうめんで膨れたお腹を確かめるように二、三度叩いて、皿の無くなった円卓に腕を投げ出す。

 そのまま潰れるように顎まで乗せると、陶器の豚の口の中に緑色の渦巻きがあるのが見えた。もう大部分が灰になっていて、火が芯まで近づいてきている。

「なにだらしない恰好してるの。背筋伸ばしとかんと姿勢悪くなるよ」

 食器を片づけて台所から戻ってきた母さんが嗜める。

「蚊取り線香ってさー」

「うん?」

「蚊取り線香って、時間経つとぐるぐるがどんどん小さくなっていって、燃えるのがどんどん速くなるね」

「そうなの?」

「たぶん」

 僕がそう言うと、母さんも頭の位置を下げ、豚の中を覗く。


 夏休みの時間は不思議な流れ方をする。

 日常の忙しさから解放されたせいなのか、何もすることがない時間の一分一秒が実に長く感じられ、何か大切なことを忘れているかのように思えてくる。けれど暑さにやられた脳でいくら考えを巡らせても、記憶から浮遊したものが何であるのか思い当たらない。つまるところ、それは一種の錯覚なのではないかと気づき、また何もしない時間の中に溶けていく。

 数分間、僕と母さんは煙の出る蚊取り線香を見続けた。

 やがて渦巻きの中心まで灰色に染まると、かすかに音をこぼして最後の一欠片が線香立てから落ちた。まだ糸のような煙が昇っている。

 それを見つめたままで母さんが口を開いた。

「そう言えばソウマ、あんた午後から日向さんに会うって言ってなかったっけ?」

「そうだっけ?」

「まだ寝ぼけてるの? 日向さんの家がもうすぐ引っ越すから最後に会いに行くって、今朝言ってたじゃない」

「あ、そうだった! 忘れてた!」

「出かけるんなら早く仕度しい」

 母さんに急かされて僕は約束を思い出す。相手は同じ組の女の子の日向ユイちゃん。待ち合わせの場所は学校近くのひまわり公園。たくさんのヒマワリと大きな樫の木で有名な公園だ。

 幸い約束の時刻まではまだ余裕がある。家を出る準備をするため立ち上がり、一秒ほど豚を見下ろし、僕は部屋へ戻った。



 夏休みの時間は不思議な流れ方をする。

 まるで蚊取り線香の渦のように、初めはゆっくりと流れていたはずが、気づいたときには大部分が過ぎ去っていて、燃え尽きるその瞬間に向かって加速し続ける。

 終業式の帰り、ユイちゃんが夏休みの終わりに引っ越すと聞いた僕は、彼女がそのうちいなくなるという実感が湧かなかった。長い夏休み、彼女と会おうと思えばまだ何度でも会えると思って疑わなかった。

 山を駆けて虫を捕り、自転車を漕いで隣町まで遊びに行き、友人たちとプールではしゃぎ、母に叱られたまに勉強もした。そんなことをしているうちに、あんなに長いはずだった夏休みは終わりを迎えようとしていて、ユイちゃんと会えなくなる日も近づいてきた。

 始業式まで一週間を切った昨日、僕自身の愚かさにようやく気がついた。そして、このままでは一生彼女と会えなくなる気がして、僕は昨晩彼女の家に電話をかけた。


 車庫の傍に置いてあった自転車に跨り、ひまわり公園を目指して漕ぎ始める。蝉の声と陽炎に包まれた街並みが、徐々に速度を上げていく。学校までの緩やかな坂道がなんだかとても懐かしい。

 額に照りつける日差し、風と汗で張りつくシャツ、太腿の痛み。坂の向こうで彼女が待っているという事実が、普段は不快なはずのことでさえ綺麗に忘れさせてくれた。

 やがて学校が見えてくる。つい一か月前まで通っていた場所なのに、とても久しぶりに目にした気がした。開放された校庭には野球やサッカーを楽しむ子供たちがいる。知り合いも何人かいたが、今は声をかけている場合じゃない。

 学校を通り過ぎ少しすると、長かった坂が終わる。そして左手に、ヒマワリの柵で囲まれた公園が現れた。きっとこの場所は、この街でいちばん夏の光に溢れている。輝くような黄色を見てそう直感した。そして僕は入り口で自転車を乗り捨てると、夏色の空間へ駆け込んだ。


 昼下がりの暑さのためか、いつも賑やかなひまわり公園も今は蝉の声しか聞こえない。時計台の針ははちょうど約束の時刻を指しているが、砂場、ブランコ、ベンチ、大きな樫の木の根本、彼女の姿はどこにも見当たらない。

 それだけのことであるのに、僕の心臓は冷たい不安の鎖で瞬時に縛りつけられた。

 僕は約束の時間を間違えてしまったのではないか。ユイちゃんはもう帰ってしまったのではないか。それとも最初から来ないつもりだったのではないか。もしかすると、とっくに別の街へ行ってしまったのではないか。だったらもう彼女に会うことは――。

 そのとき、後悔とやるせなさに包まれかけていた僕の背中に、強い衝撃が走った。

「どーん!」

 底抜けに明るい声とともに、僕の体が前方に投げ出される。驚いて振り返ると、そこに白いワンピースに身を包んだ彼女が立っていた。汗を吸った前髪が額に張りついている。

「おまたせ。何してんの?」

「立ってたら突き飛ばされた。しかもいきなり」

「あははは、ごめんね! なんか元気無さそうだったからさー」

 僕は土埃を払って立ち上がる。ユイちゃんの澄んだ大きな瞳がまっすぐ僕に向けられている。心の鎖はその奥へ吸い込まれ、同時に鼓動が激しくなるのを感じた。

「いいよ。来てくれてありがとう」

「ソウマも呼んでくれてありがとう。涼しそうだからあっち行こうか!」

 彼女が指差したのは、ひまわり公園のシンボルとも言える大きな樫の木。樹齢が百年を超えているという話を聞いたことがある。枝は近所に建ち並ぶ一軒家よりも高く伸び、幹は二人がかりでも抱えきれないほど太い。僕たちは太陽の放つ熱から逃れようと、青空に広がる葉の陰に隠れて座り込んだ。


「私さー、もうすぐ東京に引っ越しするんだ。ソウマも知ってるよね?」

「知ってる。それで今日会いたかったんだ。もうすぐ会えなくなるのにちゃんとさよなら言ってなかった気がしたから」

「そっかー」

 何かが可笑しかったのか、それともやって来る寂しさを紛らわすためなのか、ユイちゃんはくすりと小さく笑った。

 二人が何も喋らなければ、耳に届くのは頭上から降ってくるアブラゼミの鳴き声ばかり。誰もいない公園での二人きりの時間は、とても嬉しいはずなのに、胸の奥は悲しさで満ちていた。

「引っ越したらしばらく戻ってこないんだよね」

「うん、お母さんがそう言ってた。お父さんの会社が東京になるから、もうずっと向こうで暮らすんだって」

「そうなんだ」

「私ね、新しい友達、ちゃんとできるか不安なんだ」

 ふと見ると、彼女は俯いて泣きそうな表情を浮かべていた。

「ユイちゃんなら大丈夫だよ! 優しいし、今だって友達たくさんいるんだし! 別の学校に行ってもきっと」

 僕が慌ててそう言うと、彼女はもう一度微笑んだ。けれど地面を見つめるその目は、心なしか潤んでいるように見えた。

「ソウマの方が優しいよ。私なんかよりずっと」

「そ、そんなことないよ」

「私はさ、知ってる人の前でははしゃいでるけど、実は人見知りなんだよね」

「そうなの?」

「うん。だから一年生の最初は誰とも話せなかったんだ。今みたく遊びに混ぜてっても言い出せなかった」

 その話を聞いて僕は心底驚いていた。僕にとっての彼女のイメージは、明るく無邪気に輝いている、ヒマワリのような女の子だったから。

 けれど彼女の口調は嘘を吐いているようには思えなかった。

「ねえソウマ、覚えてる?」

「何を?」

「一人ぼっちだった私に初めて声をかけてくれたの、ソウマなんだよ」

 正直に言うと僕は覚えていなかった。もう何年も前のことかもはっきりしない。

 けれど、もしかすると教室で一人だったあの子、一緒に話でもしようかと気まぐれに誘ったあの子がユイちゃんだったのかもしれない。

「そんなの、たまたまだよ」

「それでもいいんだ。だって私、嬉しかったよ。私と仲良くしてくれる子がいるんだ、って分かって。今私が元気なのは全部ソウマのおかげ」

「そんな」

「ううん、ありがとう」

 彼女が僕に見せてくれた表情は、この公園に咲くどのヒマワリよりも輝く笑顔だった。

 通り過ぎた風が、樫の木の枝を揺らし、ヒマワリの花を優しく撫でていった。



 夏休みの時間は不思議な流れ方をする。

 宿題をやっているときはあんなに長かった午後も、彼女との会話だけで風のように過ぎ去ってしまう。

 気づかぬうちに空は茜色に染まり始め、真上から降り注いでいたアブラゼミの声は、哀愁漂うヒグラシの声に変わっていた。

 やがて時計台のスピーカーから流れる音楽。どこか物悲しいメロディは、僕たちが別れを告げなければならない時刻を示していた。


「今日は本当にありがとう。最後にソウマと話せて楽しかったよ」

「僕の方こそありがとう。今日来てくれたことも、今まで仲良くしてくれたことも」

 感謝の思いがあったのは紛れもない事実。けれど、本当に伝えたい気持ちはまだ口に出せずにいた。


 二人は並んで公園の出口へ向かう。

 あと十歩。僕は恋をしていた。日向ユイが好きだった。

 あと五歩。好意を告げることも、手を繋ぐことさえもできない僕自身が、とても情けなく感じた。

 あと三歩。僕はまだ、大切な何かを忘れている気がしていた。

 あと二歩。一分一秒がこんなに短くなった今でさえ、まだ僕は何を思い出せないでいるのか分からなかった。

 あと一歩。でもこれだけは分かった。今日を過ぎればもう何年も彼女に会う機会はないということを。

「ユイちゃん」

「うん?」

 この時の僕はいったいどんな顔をしていただろう。緊張のあまり滑稽な表情を浮かべていたかもしれない。けれど僕はまっすぐ彼女を見て言った。

「僕、君のことが好きです! いっつも明るくて元気で、本当は人見知りなのかもしれないけど、そんな君が憧れでした!」

 僕を見つめる瞳を見つめ、その輝きに鼓動が高まった。

「ユイちゃんは新しい学校が不安って言ってたけど、僕は大丈夫だと思う。だってユイちゃんならきっと、ちゃんと友達できてちゃんと元気に過ごせると思うから」

「ソウマ」

「でももし、それでも不安になったら思い出してほしいんだ。君を好きだった人がいたこと、きっと向こうでも君を好きになってくれる人たちがいること。だから大丈夫」

 彼女はもう一度、あの笑顔を見せた。でも今度はその頬に大粒の涙が流れていた。

 お互いに何度も感謝を口にする僕たちを、夕日の光が包んでいった。






 少し離れたどこかで夕方五時のサイレンが鳴っている。視界の隅に映り込んだクーラーが低い機械音で唸り、そこから放たれた冷気が体の上を通り過ぎていった。少し肌寒い。

 無意識に上半身を起こして、そこで初めて眠りに落ちていたことに気がついた。左にはソファの背もたれ、右には机と本棚。ここは間違いなく自宅の書斎だった。

 随分と懐かしい夢を見てしまったものだと、自嘲気味に笑ってしまう。そして、いまだ鮮明に思い出せるあの夏の日に、我ながら感動を覚えてしまった。もう二十年も前だというのに。

 机の上にあるのは私用のパソコン、付属のキーボード、飲みかけのコーヒー、読み終わっていない小説の山。渇いた喉を潤そうと、立ち上がってコーヒーを口にする。氷が全部溶けてしまったがために、その味は薄く、そして温い。お世辞にも美味しい飲み物ではない。


 書斎を出てリビングへ向かう。そこには誰もいない。

 部屋に微かな音が漂っている。きっと普段ならば気にしないのだろうが、寝起きの耳にはなぜかはっきりと届いた。

 導かれるように音の出どころを探ると、窓際の棚にたどり着いた。置かれていたのは電池式の蚊取り器。音の正体はこのファンによるものだったようだ。不意に夢の中の蚊取り線香が思い出された。

「最近、見なくなっちまったな」

 独り言が、蚊取り器から噴出される薬剤のように、静かな空気の中に溶け込んでいく。


 人生は不思議な流れ方をする。

 日常の忙しさの中で必死にもがいているうちに限りある時間は次第に消費され、何もなすことができないまま一年また一年と過ぎていく。何もかもが充実していた少年時代は幻のように消え去り、自分が何のために生きているかを忘れ、むしろ考えないようにしながら、淡々とした日々を送るようになる。

 蚊取り線香のように燃え、煙のような存在の証を残すわけでもない。機械のように無色透明な仕事をこなし、人生はいつの間にか終わる。


 そんなことを考え、えも言われぬやるせなさに包まれかけていた僕の背中に、懐かしい衝撃が走った。

「どーん!」

 底抜けに明るい声。驚いて振り返ると、そこに白い買い物袋を手にした彼女が立っていた。

「そんなところで何してんの?」

「ちょっと人生について考えてた」

「あーまた! すぐ暗いこと考え始めるんだから! 駄目だよ、私たちにはまだ明るい未来が待ってるんだから」

「そうだね。大切なことを忘れるとこだったよ」



 僕と彼女、そう、日向ユイは四年前、思わぬ形で再会をした。

 勤め先の親会社主催のパーティ。開かれるのは一年に一回程度の不定期で、参加する会社もその時によって多種多様。取引先の会社が招待されることもあれば、傘下の会社抜きでやることもしばしば。

 程よく酔いが回った頃、入り口近くの椅子に一人で座っている女性を見つけ、なんとなく声をかけてしまったのだ。まさかその人が、僕の初恋相手である日向ユイであるとも知らずに。

 何かの縁と言うべきか運命の巡り合わせと言うべきか、当時互いに恋人のいなかった僕たちは不思議と意気投合し、そして三年の付き合いを経て、去年僕たちは結婚した。

 まだ子供はいないけれど、きっと今までで一番幸せな日々を過ごしている。



「実は今日、昔の夢を見たんだ」

 彼女が作ってくれた夕飯を口にしながら、僕は見た夢の話をした。ユイは大昔の話だと笑いながらも、その澄んだ瞳が潤んだ瞬間もあった。

「あの頃は分かんなかったよ。東京から新幹線で三時間もあれば行ける場所なんだって。だから僕はもう君に会えないと思ってた。本当だよ」

「私だってそうだよ? でもあの夜、またソウマが話しかけてくれた」

「よしてくれよ、恥ずかしい。たまたまだよ」

「それでもいいんだ。だって私、幸せだもん。全部ソウマのおかげ。ありがとう」

「こちらこそ。君がいないと僕の人生はつまらないまま終わってたよ」

「あはは、大げさだなー!」

 僕はふと、あることを思いついた。

「そうだ。夏が終わる前にもう一度ひまわり公園に行ってみない? あの樫の木のある公園にさ」

「うん、賛成! どうせ三時間で行ける距離だからね。それに、お義母さんたちにも改めて挨拶したいし」

「きっと、庭で採れたキュウリをごちそうしてくれるよ。母さんの自慢だから」

「なんか楽しみだなあ」

 彼女の笑顔は相変わらずヒマワリのように輝いていた。



 人生は不思議な流れ方をする。

 愛しい人と過ごす時間は永遠に感じられるのだから。

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