rest art
そこはもう彼女の道だった。大袈裟な荷物を背負い月影射す森の中を歩く女は、名をスルーラという。まだ「無名」の画家だった。木々の隙間から瞬く星が覗いていた。スルーラは光を避けるように木陰を縫って進んだ。
森の奥、ぽっかり空いた夜空の真下に、一軒の小屋があった。壁には蔦が茂り、窓のガラスは割れている。倒壊寸前の廃屋にも見える小屋。そこがスルーラの棲家だった。
玄関の前まで気怠そうにやって来た彼女は、まるで蹴り飛ばすかのような勢いで、小屋の扉を開けた。
――もう、やめてしまおうか……。
そう心の内で呟きながら。
昼間、スルーラは近くの街に出掛ける。そこで露店を開いて絵を売る。だが訳あってそれらの絵は、彼女がかなり前に描いたものばかりだった。ただでさえ売れ残った作品だ。今更買おうとする者も少ない。特にこの一週間、スルーラの収入はほぼ皆無。夢を追って始めた仕事なのに、次第に嫌気が差していた。
スルーラは背もたれの無い椅子に腰掛ける。彼女の溜め息とシンクロするようなフクロウの鳴き声が、近くの木から聞こえた。彼女の傍にあるテーブルの上には、朝食の残りのハム、絵筆がしまってある木箱、そしてたった今灯された蝋燭。淡い光の中にあるハムには、よく見るといくつかの小さい歯形が付いていた。スルーラはそれを見つけて力無く笑う。
「主の居ない間につまみ食いとは、随分と無礼なネズミじゃないか」
もちろん返事は無い。物音もしない。彼女にもそんなことは分かっている。たまに声を出してみたくなっただけだ。
スルーラはハムを手で千切ると、小さい方の塊を持って外に出た。
「さあ、お食べ」
ハムを顔の高さまで揚げてスルーラは言った。掠れた声が森の闇に吸い込まれていく。一瞬だけ大気が音を失った。そして、木霊のように夜の海の中から流れ着いた、風を切るフクロウの羽音。スルーラの細く白い腕を、月と小屋の中からの光が照らしている。
淡く金色に光る目。低く長い鳴き声。翼を大きく広げた生き物が森の中から現れた。スルーラの手に乗ったハムを鷲掴みにし、フクロウはそのまま近くの地面に降り立つ。
「うまいか?」
彼女はハムをついばむフクロウに尋ねた。森の広間を抜ける風が、スルーラのしおれた髪の毛を横へ流す。返事のような低い声がひとつ、星空の下に転がった。
フクロウが食事に夢中になっているのを確認して、スルーラは一度小屋へ戻った。スケッチブックと鉛筆、それと照明を持って来るために。
たくさんのキャンバスが部屋の隅に転がっていた。それらはほとんどの部分が白いまま。全てスルーラの描きかけの作品だった。最近、彼女は自分が納得できるようなものを描けていなかった。
――どうしても、上手く描けないんだ。
誰かへの言い訳のような言葉。スルーラはずっと同じフレーズを頭の中で繰り返していた。
フクロウはスルーラの好きな鳥だった。はっきりとした理由は本人にも分からなかったが、彼女はその鳥が好きだった。
短い草の生えた地面に座り込む。フクロウは蝋燭のちらつきなど気にせずに、ひたすらハムの欠片をつついていた。
「いい顔だ」
スルーラが開いたスケッチブックには、何匹ものフクロウが描かれていた。まだ真っ白なページを見つけると、彼女は鉛筆を走らせる。フクロウの絵を描くことが、スルーラの毎晩の楽しみだった。
ハムがなくなっても蝋燭が消えても、フクロウはそこにい続けた。まるで自分が被写体であることを分かっているかのように。そしてフクロウが逃げない限り、スルーラもまた、何枚も彼の絵を描き続けた。
次にフクロウが鳴いたとき、夜は通り過ぎていた。
「ありがとう」
スルーラはフクロウに微笑み、立ち上がる。
「待ってな。今、朝ごはんを持って来るから」
そう言って腰を上げた時、偶然スルーラの目にネズミが映った。ちょうど、小屋の窓から逃げ出そうとしているところだった。
「ほら、あれが朝ごはんだ」
冗談混じりに彼女が指を差すと、フクロウは二、三歩助走して小さく飛ぶ。本体から遊離した長い影が森の広間に落ちて、静かに小屋へと寄っていく。そしてフクロウはスルーラの目の前でネズミを、見事に取り逃がした。
「ははっ。何やってるんだ」
そのあまりの滑稽さに、スルーラは思わず笑ってしまった。
フクロウは一度窓枠に下り、首を傾げるような動きで逃げたネズミを探す。近くの草むらが揺れたのを見つけると、彼は再び舞い上がった。だがまたしてもスルーラの期待は外れ、ネズミは走り去って行く。
「つくづく狩りが下手くそなやつだ……」
からかう口調でスルーラは言う。
「ハムを取ってくる。それを一緒に食べよう」
小屋の奥に消えるスルーラの背中に、フクロウはとぼけた低い声で返した。
彼女が戻って来てもまだ、彼はネズミを追い続けていた。森の奥から細く差し込む朝日に照らされて、少しだけ彼の体は小さく見える。すでに羽を広げることも忘れたフクロウは、ただネズミを追いかけることに夢中になって走っていた。スルーラには、そんな彼がどこか楽しそうに見えた。
「はは……。獲物に遊ばれてるじゃないか」
スルーラは地面に腰を下ろす。彼女の指先にスケッチブックがぶつかった。表になったページには、横顔のフクロウ。
――遊ばれているのは、私も同じかもしれない。
スルーラはふと、そう思った。同時に、フクロウに対する愛しさと憎しみが彼女の中で沸き上がる。スルーラは彼に自分を見ていたのだ。彼女はその親近感に、脳天気に地上を駆け回る彼に、言い知れない怒りを覚えた。
「お前はネズミを捕まえなければ飢え死にするだろうな」
掠れていたが強い声だった。スルーラは持って来たハムを頬張り、急いで飲み込む。その様子を見ていたのか、フクロウは低く鳴いて走るのを止めた。
「良いのか? 逃げられるぞ?」
彼女が忠告した時にはもう遅い。ネズミは隙をついて茂みの奥に消えてしまった。フクロウはついに餌を捕り損ねたのだ。もう一度だけ、低い声が転がった。
スルーラはフクロウから目を背ける。そして力無い笑みを浮かべながら、小屋に戻り、散らかったキャンバスの上で静かに眠りについた。
既に日は高く昇っている。目覚めたスルーラの額には汗が滲んでいた。彼女はすぐに、マッチ箱を持って外へ出た。
スルーラは小屋の周りを見渡す。森の中とは明るさがまるで違う、寂しく開けた場所。草の地面に無造作に置かれたスケッチブック。彼女の予想通り、フクロウの姿はもうどこにも無い。
スケッチブックを拾い上げたスルーラの目には、フクロウを描いている時の光が灯されていた。
――残りは……、無かったことにしよう。
彼女はマッチ箱を開け、たった一本入っていたマッチを擦った。太陽の真下で炎が弱々しく揺れている。スルーラはそれを小屋の中に放り投げた。
スルーラはいつもの道を通って街の方向へ歩く。それがこの道に遺す最後の足跡になることは、彼女にとって些細なことだった。背負ったリュックサックに入っているのは、一冊のスケッチブックと一本の鉛筆のみ。
――もう一度、初めからやり直そう。初めから……。
森を抜けて振り向くと、スルーラの瞳に黒い煙の柱が映った。彼女の表情は憂いを帯びて見える。けれども彼女の心は、今日の空のように晴々と乾いていた。
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