現代詩の定義はよくわからんが詩は好きよ

 詩のことはよくわからない。でも読むのは好きだ。ねりりしたりはららしたり、ゆあーんやよーんとか、去年キタハラさんに教えてもらった田村隆一とかすごいよかった。夜中のできごとだったとはいえ、号泣しながら読んでしまった。

 最近の人だと最果タヒさんとか。ほかにはカクヨムではまなすなぎささんの詩とか好きで読んでる。個人のビビッドな視点とかあたらしい言語感覚に触れるとこころがおどる。


 小説もいいけど詩はもっと端的で無駄がなくて、いや、わからん。語れば語るほど分からなくなる気がする。詩。小説の描写よりもより直接に、心象風景、がダイレクトに伝わってくる感じがして、好きだ。わたしもときどき書いてみている。あまりうまくできない。たんなる言葉の連なりという感じで、なかなか統一した物語を語るということができないことをずっと気に病んでいる。

 しかし詩は好きだ。音の連なりを楽しむという面では、あまり自分のことを卑下せずに楽しめる。私は音楽の素養がない。でも詩を書いているうちに音楽に近づくことがあるような気がして、楽しいのである。


 詩を専門に扱っている投稿サイトもあるという。しらなかった。たまたまみつけたところは批評も同時に行われていた。カクヨムのレビューはレコメンドが目的だが批評文はそうではない。


批評 出典:デジタル大辞泉(小学館)

[名](スル)物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。


 是非、善悪、正邪。なんとむつかしいことか。わたしはときどき自分の作品を読み返して冷静に読み解こうとすることがあるのだけれども、これがなかなかうまく行かない。批評はめちゃくそむずかしい。


 詩の投稿サイトにある批評文を見ていると、批評とは名ばかりの感想がつづられていて、コメント欄が荒れていた。利用しようか、と思っていた気持ちがひゅっとしぼむ瞬間であった。


 批評に個人の体験や感情を持ち込んだらあかんのではないか。しかも、自分が詩を好きになったきっかけが青春時代の淡い思い出、女子から勧められたことがあったからだ。という経験を持ち出して女流作家の詩を語る。女性の詩を読むときそのときの思い出が鎌首をもたげてくる、という導入であった。これはあかん。感想ポエムである。批評文とは言えないだろう。


 実際作者の方に迷惑であると突っぱねられていた。


 その批評文を書いた人は、批評対象の詩にも、謎のダメ出しを行っていた。美しい詩を美しく味わいたい、という気持ちをぶつけていた。批評、とは? 詩とは女性とはかくあるべしという個人の思い入れを作品にぶつけることを批評とは呼ばない。


 なんかやだなぁと思った。怖いなと思って。だって批評の顔をした「俺好みの詩はこれだ」みたいな自分語りをもらうのも、自分で書いちゃうのも怖いし。自分の書いた文章がなぜ人々から拒絶されるかわからない、人間同士の不理解も怖かった。


 とか思ってると気づいたんだけど感想もこれと紙一重のとこあるよね。衝撃を受けたりはしゃいだりすると、重い感想書いちゃうじゃん。私はすぐにテンションが上がってしまう簡単なところがあるから、いろんな人に鬱陶しい圧で感想を送ったりコメントを送りつけたりしているわけですけども。感想だから、「こういうことを思う人もいるよなー」って感じで受け取ってもらえたらよいなと思ってるんだけど、批評はそうもいかないよね。もらう方も書く方も真面目だもんね。命のやり取りをしている。


 憧れる気持ちはあるんだよね、批評。いつか頑張って訓練をして、書けるようになりたい。かっこいい批評。ああそうだな、相手の作品も自身の作品観も、丸裸にして書かないといけないから、怖いんだな。


 

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