3話 物事を二択でしか見れない

 前に立っているのは確かにいつもの家庭教師のウェルなのに、私には今の状況を含めて、何もかもが異常に見えた。


「なんで、ここに」

「それは私の質問のはずですが…まあいいでしょう」


 物覚えの悪い生徒に対してウェルは吐息を漏らす。


「あなたを隣国へ行かせるためにはコネが必要だと伝えたでしょう?今日は、明日のあなたとの顔見せのための打ち合わせです」


 私は思わず鼻で笑ってしまった。

顔見せであんな行為をするのか?


「学術都市に行ける方法は一つではありませんが、ツグミにとっての一番の早道は教会の推薦枠をとることです。

そのために私は前もって何度かこの教会に挨拶に来ているのです。

その成果は実り、教会の皆さまは私を気に入ってくれました。

これからも礼拝に訪れれば、あなたを推薦してくれると」


 淡々と話すウェルの表情は、喜びもなければ悲しみもなく、まるで今晩の夕飯のメニューを告げているようだった。

歪み切っている。

私が何を見たのか知っているくせに、それをただの挨拶だとほざくのか。


「あとは明日あなたと顔合わせするだけです。

安心してください、あなたの価値観は理解しています。

あなたの嫌がることはしないと誓います」

「なにが…」


 いつの間にか握りしめられた拳が震えていた。


「何が私の嫌がることなんだ、ウェル!

私はあなたにだってそんな行為をしてほしくない!

わかっているのならどうして、あんな行為を繰り返す?!」

「あなたの思想を周囲に押し付けるのはやめなさい」


 押し付けているのはこの国ではないか!!

この国が私に堕ちろと言っているのだ!!

正気の私を堕落させようとしている!!

正しい人間として生きようとしている私が悪いわけがない!!

悪事を悪と理解できない、その無知が罪だとどうしてわからない?

いや、違う。

ウェルは、ウェルだけは理解している。

私が嫌がると、なのに、どうして?

悪だと理解しているのになぜ罪を重ねる?


「ツグミ、あなたの思い通りに世界は動かない。それを強制しようとするから、あなた自身が苦しむことになるのです」


 ウェルの真剣な口ぶりに、私は声をだして笑ってしまった。

そんなことはとうの昔に、知っている。

世界が私の思い通りに動くのだったら、私はこんな世界にいないのだから。

そして、私にこの世界を、その全てを教えてくれたのはあなただ、ウェル。

この世界に生まれ落ちて、あなたと出会って、壊れきった私を一から作り上げたのは、確かにあなたなんだ。

つぎはぎだらけのピースを整えて、パズルを完成させたのはウェル。

あなたが今の私を作り上げた。

だとしたら、あなたの教えが悪かったのだ!


 そうだ、あなたが間違っている!!


「すべての物事を二元論で解決しようとする、その頑なな姿勢が間違っていると言っているのです」


 興奮を抑えきれない私とは対照的に、どこまでもウェルは冷静だった。

だからこそ、ウェルはたった一言。

一言で私を黙らせた。


「さて、ツグミ、そろそろその子どもについても説明をしてもらえますか」


 一気に頭が冷えた。

さっきまでの怒りもどこへやら、私は咄嗟に後ろを振り返り、固まったままのパリスの肩を掴み、「裏から逃げろ!」とパリスの体を反転させて、背中を押した。

混乱したままのパリスはそれでも私の言うことを聞いて、そのまま教会の裏手へと駆けていく。


「見逃していましたが、あの子どもはいつも屋敷をうろついていますね」


 無慈悲にウェルは続けた。


「私はあなたに教えたはずですが、どうやら教え方が悪かったようですね。

あなたはどうも身分制度について甘く考えがちですから、屋敷に戻ったら一から復習しなおしましょう」


 そう、ここからウェルの気が済むまで、生活を四六時中見張られ、暇さえあれば勉強をさせられる地獄が始まるのである。

と、まあここまでであれば、なぜ私が必死になって、パリス少年を逃がそうとしたのか、その理由が勉強漬けが嫌だからというオチに納得できない方も多いかもしれない。


 理由はもう一つあるのだ。

私と関わりを持ち、ウェルに見つかってしまった子どもたちはその後姿を一度も見せなくなる。

いや、もちろん、私は寂しくなんて思っていない。

生意気だし、将来が心配になるストーカー気質のパリスになんて会えなくたって別になんともない。

確かに、予想以上に必死な声で逃げるように伝えたのには自分でも驚いた。

だけれど、子どもは好きだが、それはあの少年でなくてもいいのだ。

パリスがいなければ、別の子どもに声をかけ、仲良くなるだけのこと。

別に、抱きしめてくれたあの子の体温が忘れられないとかそんなことはない。

これから先出会うことができなくてもいい。


 ただ、私は心配なのだ。

考えすぎなのかもしれない。

皆ウェルを恐れて、身分を諭されて、私を徹底的に避けているだけなのかもしれない。


 あの子どもたちは今どこにいる?


「ウェル~?もう、急にいなくならないで…」


 突然教会の扉が開いたことに驚き、反射的に体が逃げようとした。

だが、私の右手はいつの間にかウェルに握られていたため、逃走することもできず、その場にたたらを踏むだけであった。

扉から出てきたのは、大柄な男性であった。

額には汗をかき、仄かに上気した頬と、乱れた服装からも赤らんだ肌が覗いている。瞳がどこかぼんやりとしていて、その上掠れた声ときたら、先ほどの現場を見なくてもわかる。

完全に事後である。

その男が、ウェルの手に繋がれた私を一目見た瞬間、叫び声を上げた。

かと思うと、その場で嘔吐した。


「聖者様?!」


 突然の狂乱に、扉からどたどたと次々に老若男女、十数人が出てくる。

あまりの人々の多さに私も再び吐き気を催してきた。

ウェルは、青ざめて口元をおさえる私を背中に隠した。

先ほどまでの諍いを忘れ、私はウェルに必死にしがみつこうとする。

だがウェルの足が長すぎて、具合の良い位置を確保できない私に、ウェルが気をきかせてしゃがみこみ、私はその背中にしがみついた。


「…なんなのよ」


 ウェルにおんぶされながら、周囲を見ないように目を瞑る。

それでも、その男の声が、先ほど吐いていた男のものだとわかった。


「腐った下水を更に煮詰めて虫の死骸をミンチにしたようなおぞましい化け物!!

死者よ!!!死者が甦ったの!!!!

そいつを今すぐ埋めるか焼いて!!早く!!」


 いや、待てよ、聖者?

私はおんぶされている状況で、シリアス顔を決めて考え込む。

乙女ゲーの主人公は聖女と呼ばれていた、その男バージョン。

これは何かの手掛かりになるのでは?

考え込む私を後目に、男のつんざくような金切り声と発狂は続き、周囲の人々のざわめきもやまない。

このままだと私は中世の魔女裁判のように殺されてしまうのではなかろうかと思考が飛んだ時、ウェルが口を開いた。


「アシンヌ様、彼女が私の生徒です」

「ウェル…?」

 

 ひび割れた声で男は笑った。


「冗談はやめて。あなたのような聡明な方がそれの正体に気付かないわけがないわ。それは私たち生者の天敵なのよ?

愛と命の敵対者。子どもの形をした歪な老人。

あなたは十分承知しているのでしょう?」

「アシンヌ様」


 おぶわれている私にはウェルの表情がわからなかった。


「アシュテレト神を信仰する者の一人として、私の答えは言わずともあなたはご存知でしょう」

「嘘!!

聖者としての資格を失ったとしても、あなたは、稀代の天才と称されたあなたが」

「アシュテレト神の聖者であるアシンヌ様、あなたが一番理解し得るでしょう」


 アシンヌと呼ばれた男はその言葉にぎこちなく笑い声を上げた。


「不毛だわ」

「愛が何も育まないというのは、アシンヌ様にふさわしくない言動ですね」

「そうね。だけどウェル、あなたはいつだって賢い選択をするのね。

災厄を世界に解き放てと言われて、ええ、そんな馬鹿な真似をするのは確かにアシュテレト派しかいないわ。

愛のためなら世界をも敵に回す馬鹿の集まりだもの」


 賢い選択といいつつ、次には馬鹿な真似というのは、矛盾していないか?

そうは思うが、口に出せる雰囲気ではないし、アシンヌという輩と言葉を交わしたくない。

穢れは移るものだからだ。

汚物は消毒、という名言もあるように、汚れ、穢れは人間には害毒なのだから、徹底的に排除するしかない。


「いいわ。その化け物をこのままこの国に留めていくのも嫌だし、当初の予定通り、推薦してあげる。

だから明日の顔見せもいらないし、お前は二度とこの教会に足を踏み入れるな…!!」


 もちろん、ウェルは別よ、と媚びた口調の男に、ウェルは静かに頭を下げた。

私も、二度とこの教会に近付きたくないので、全く異論はない。

私たちを取り囲むように、遠巻きに見ていた人々をかき分け、ウェルは私を背負ったまま歩き出す。

私はウェルの背中の上で目を閉じる。

二人の会話を完全に理解したわけではない。

だけれど…いや、だから何だって言うんだ。

男も言ったじゃないか。

愛していたって、いなくったって、答えが何であれ、不毛だ。

私にはウェルに返せるものが何もない。

ウェルが私を、手のかかる子どもとして、もしかすると疑似的家族として、愛していたとしたって、私にはどうにもできない。


 世界も自分もぼんやりとしか認識できていなかった幼少期。

息をすることと、食欲と睡眠欲が混在し、しかし、それでいて生きるのに必死だったわけでもなく、ただそこに存在していただけの、床の埃と同質化していた頃。

蹴られれば反応するし、叩かれれば怯えはするが、その瞬間の条件反射にすぎず、ただぼんやりとあるだけだった。

だから、最初は気付かなかった。

誰かが私の体を起こし、口元に何かを運ぶ。

夜になれば、柔らかなベッドに横たえ、朝になれば顔を拭いてくれる。

無意識のうちに唸り声を出す唇に触れ、服を自分で着替えればいい子だと頭を撫でてくれる。

あの頃、世界は二人だけだった。

記憶のないままであれば、私の認識する私たちは、幸せだった。


 私はウェルを愛したままでいたかった。


 くだらない感傷。

そう吐き捨てるには、思い切りが足りず、私の頭も壊れきれていない。

私が現状を認識した時には既に手遅れで、愛したい欲求は募るのに、実際胸の内は焦がれて、焼けただれそうなのに、愛してしまえば、私という存在が壊れてしまう。

知識が人間にとっての罪の果実だというのは正しかった。


 道は二択しかなかった。

 愛するか、愛されるか。

 どちらかが、愛のために、犠牲とならなければならない。


だけれど、答えはもう出ているのだ!!

だからこそ、私は躊躇っていた。

いずれくる終焉は、必ず悲劇と決まっている。


 そしてその終焉は、私が思っているよりも、もっとずっと早く訪れた。

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