第一章 後悔と航海

第1話 長雨 〜マツの話①〜

 雲から逃げ出した雨粒が、細い顎をなめて手の甲に落ちる。ショウは、一粒の雨と少しの泥のパレットと化した手の甲で額の汗を拭い、まだ明るい乳白色の空を見上げた。いくつもの雨粒がぽつぽつ、ぽつぽつと、未だ端麗な彼の顔を叩く。

 長雨になるな。ショウの直感はそう言っていた。顔を戻し、あたりにいる仲間のほうへ向ける。彼らも雲からの逃亡者たちに気づいたらしく、農作業をする手を止め、空を見上げていた。

 今日はこの辺にして休みにしよう。どうせ時間ならいくらでもある、今のままなら。そう思い立つとショウは仲間に声をかけた。

「こいつは長いこと降りそうだ。せっかく天が農作業をやってくれるっていうんだ。みんな今日はもう休むといい。あとは雨のやつらに任せよう」

 それに賛同してくれたのか、みんな口々に、「リーダーがいうんだから、今日は家族とゆったり過ごそう」とか「久々の雨だからな、しっかり働いてもらわないと」とか「変なものさえ降らせなきゃ何したっていいぜ」などと言いながらそれぞれの家へ戻っていった。だが異口同音に「また明日もよろしくな、リーダー」と言って。

 さて、自分も帰るか。今日のミズバの料理はなんだろうか。たまにはシチューを食べたいものだ。そんなことを考えながら農具を片付けていると、鐘がなった。

 カぁん

 カぁん

 カぁん。

 カぁん

 カぁん

 カぁん。

 三回、三回だ。それが何を意味するかはこの場にいる誰の耳にも明白だった。それは、時報の一回でもなく、祝い事の二回でもない。

 その三回の鐘が意味するのもの。すなわち、敵襲。

 ショウは焦り視線を足元に落とした。そこには肥沃な土があり、いくつかそこから芽を出している。だが……。

 なぜバレた?何も火が出るようなものは使ってない。監視塔が特定されたか?それとも奴ら、ついに空から見つけたのか?まさかそんなはずはない。奴らにそんな知恵はない。仮にあったとしても奴らの志がそれをさせないはずだ。しかしだ。森の中を開いて畑をつくったのは間違いだったか。今度は一年しか保たなかった、畜生!

 ……いや、後悔なら後回しだ。原因なら生き延びてからでも考えられる。そう、生き延びたなら、だ。今回の襲撃で何人残れる?とにかくまずは……。

「女子供は逃げる用意をしろ!男は武器を持って少しでも奴らの足を止めろ!時間を稼ぐぞ!各隊長のもとに集え!」そう叫んだ後に、ショウはポケットから通信装置を取り出した。「監視塔、敵の位置はわかるか」

 そう言っている間にも森のいたるところで火の手が上がり始めていた。

『……敵は北西、西、南西の三方向から進行中。一番近い集団は、あなたのいるエリアF3から九百メートルの地点、エリアC2に展開しています。その集団だけでの数は四十以上。すでに警戒システムの多くが無力化されておりそれ以上のことはわかりません』

 そう報告する監視員の声は震えていた。それもそのはずだ。前回の襲撃よりはるかに大規模な軍勢が防衛施設もままならない新天地に迫っている。恐らく、この襲撃を生き残れるものはそう多くないだろう。しかし、そうだとしても我々は諦めない。

 だから、ショウは通信装置を駆使して各隊隊長に担当場所を告げる。少しでも多くの仲間を、守るために。少しでも多くの仲間に、死に場所を与えるために。

 その想いに呼応するように彼のもとに弓や銃、槍や剣などを持った男たちが続々と集う。その数ショウの直属一番隊の三十と加えて二番隊の三十、合わせて六十。数でこそ相手の一集団より多いが奴らトリカブトの一族と戦うには不十分である。しかし、撤退準備が整うまで引くことは許されない。そして整ったら殿として敵を食い止める。

 果てしない戦いだ。だが、我々はそれを何度も乗り越えてきた。数多くの屍とともに。

 ショウは通信装置の周波数を変え、生活区域のある方を見る。そして、装置を顔に寄せる。

「ミズバ、準備が終わったらみんなを連れて東へ落ち延びてくれ。死ぬなよ。……夕飯?そうだな、シチューがいい。身も心も温まるやつだ。じゃ、またあとで」

 一度装置を顔から離し、周波数を監視塔に戻す。体を反転させ、敵がいるであろう方向へ向ける。再び装置を顔に寄せる。

「生活区域外のトラップを全て強制作動させろ。対人用対獣用問わず全てだ。敵の数を減らす。やれ」

『了解しました』

 次の瞬間、爆音と断末魔とが森に鳴り響いた。

 ショウはそれを聞き届けると装置の電源を切り、ポケットにしまった。

「一番隊、二番隊、総員準備完了しました」

 一番隊副長がそう告げる。

 ショウは体を仲間のほうへ向けた。百二十の瞳が彼を見つめる。彼は、すぅと息を一つ吸った。

「諸君、集まってくれてありがとう。こうして、お互い顔を合わせられるのも最後かもしれない。と、何度も同じセリフを言って申し訳ないと思う。しかし、やはりこれだけは言わせてくれ。マツの一族の誇りにかけて、などとは言わぬ。自分のために、そして家族のために戦い、そして生き延びてくれ、頼む」

 ショウは頭を深々と下げた。

 一番隊副長が彼の濡れた肩を叩いた。ショウが頭をあげ、彼の顔を見る。副長が微笑みながら、しかし、覚悟を決めた顔で言う。

「ミズバさんのシチュー、食べさせてくださいよ」

 ショウの口角が上がった。彼は姿勢を正して答える。

「ああ、みんなに食わせてやるさ」彼は右の拳を高らかに掲げた。「いくぞ!」

「「おう‼︎」」

 副長から武器を受け取り、剣を腰にさし、銃を両手に構える。

 雨降りしきる、乳白色の雲に包まれたある日の午後の出来事だった。

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