平蔵、ひとまず幼女をそばに置くこと。
一、
芸者殺しの
まもなく虚神に害され、意識を失っていた芸者たちも無事目覚めたのだから、置屋も料理茶屋も、何より不安な夜を過ごしていた芸者たちも胸をなで下ろした。
お祭り騒ぎは三日続き、粋な客は快気祝いだと被害者と同じ置屋の芸者たちに祝儀をはずんだほど。
その虚神憑きを捕まえた虚神狩りが出入りしているという巴屋には、その顔を一目見ようと、付け届けを持った楼主たちが入れ替わり立ち替わり現れた。
そして、倒したことになっている当の虚神狩りは、居心地が悪そうにそれらの応対をしていたのだった。
昼頃、平蔵がさや連れて巴屋の裏口から入り込めば、ちょうど客を送った所らしい、巴と
「おや、平さん。早い出勤だね。飯でもたかりに来たかい」
「おう、さやに食わせないといけねえからな」
「ったくろくでなしな父ちゃんだねえ」
あきれて罵る巴だったが、言葉の割に声に険はない。
「じゃあ玖珂様、座敷で休んでいってくださいな。台所で昼食を用意してるからね」
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑だなんて、鎬様のおかげで、育松殺しの下手人が捕まって、深河に平和が戻ったんだからね。これくらいなんてことはないさ」
上機嫌の巴が去って行った所で息をついた鎬は、座敷へは行かずに平蔵を見た。
「あの、本当に良いんですか」
「何がだよ」
「今回の虚神を退治したのは平蔵さんなのに」
少々恨めしげながらも、困惑の表情を浮かべる鎬に平蔵は腰から鞘を抜きつつ肩をすくめた。
「虚神狩りじゃねえ俺が、虚神を倒したらおかしいだろうが」
「でも、虚神憑きを殺さず、虚神だけを斬るなんてこと、長年鞘神と契りを交わした抜き手でも困難なことなんですよ。あれだけのことをできれば、平蔵さんならすぐ」
「てめえに功績を譲る代わりに見なかった振りをするって話で納得しただろ。今さら蒸し返すつもりか」
平蔵は鎬の言葉を遮って告げた。
あの夜、平蔵はあらかじめ巻き込んでいた鎬に、勝之丞を捕縛した功績を譲る代わりに、事後処理を頼んだ。
梅彦の罪状を勝之丞に押し付け、彼女がこれ以上苦境に立たされぬよう配慮を願ったのだ。
鎬を丸め込み、体よく面倒ごとを押しつけたとも言えるのだが、鎬はそう思えないらしい。
「いえ、そういうつもりはないですけど、でも」
鎬が伺うのは、上がりかまちに腰掛ける黒髪の童女だ。
我関せずといった様子で、ふらふらと足を揺らしていたが、視線を感じたのか振り返った。
「しのぎ、どうしたの」
「い、いえ」
鎬はなんとも言いがたい表情をしていたが、それ以上は言わないことにしたようだ。
「あれからどうなった」
上がりかまちに腰掛けて、平蔵が問えば鎬は表情を引き締めた。
「勝之丞は目覚め次第、取り調べを始めます。その、彼の周りでは他にも不審な女性の殺しがありましたので、余罪も追及するつもりです」
「芸者だけじゃなかったか」
「はい、遊ぶ金もなにやら怪しい方法で稼いでいる様子もありましたので、取り調べには時間がかかりそうです」
平蔵が漏らせば、こくりとうなずいた鎬は困惑した調子でさらに言った。
「ただ、少し気になるのは、心に虚が空くほど恨みや恐怖を持った理由が見当たらないことなんです」
「ぐれた野郎なんざ、いくらでも魍魎をこびりつかせているもんだぜ」
平蔵が今まで見た経験からすれば、後ろ暗いところがあれば、多かれ少なかれ必ず魍魎を引き連れているものだった。
だが鎬は首を横に振る。
「魍魎を張り付かせていたとしても、入り込まれさえしなければ、害はありません。心に虚が空く、ほうが問題なんです。心に隙が出来ていたとしても、健やかに過ごしていれば、自然と閉じます。人の心はとても現金に出来ているので、単純な不満ならすぐに忘れて、心の隙も閉じるものなんです。ですが、あの勝之丞という方の周辺を調べても、短期間で魍魎に呑まれたとしか思えないほど急すぎて、わからないんです」
「どんなことが根深い恨みになるか、わからないもんだ。端から見ると些細なことでも忘れられねえで引きずる野郎は居るさ」
悩む鎬に平蔵がいえば、彼女は息を詰めてうつむいた。
「すみません、決めつけるのはよくありませんでした」
「あやまるんじゃねえよ」
鎬にはそう言った平蔵だったが、確かにあの勝之丞という男の享楽的な質を伝え聞くに腑に落ちない部分は多い。
どうにも収まりが悪い気分を味わうが、平蔵の腹がぐうと鳴った。
「とりあえず昼飯だ。ただ飯食いっぱぐれるのは勘弁だしな」
「ごはんー」
「待ってください、わたしにはまだ聞きたいことが」
さやが、とてとてと炊事場へ歩いて行くのに平蔵が続けば、鎬が追いかけてくる。
しかし、巴屋の表玄関へ慌ただしく駆け込んでくる音がした。
「玖珂様、玖珂様はいらっしゃいますかね!」
鎬が表へ回れば、汗だくで走り込んできたのは、中年がらみの男だった。
遅れて続いた平蔵は、その男が育松の改め時にいた寺社奉行の岡っ引きだと思い出す。
「六兵衛さん、どうしましたか」
ただ事ではない形相の岡っ引きに、鎬が問いかければ、彼は必死の形相で言いつのった。
「門前町の医者のところで療養させてた勝之丞を、こちらで取り調べるってお役人がつれていこうとしてるんだ!」
「この件は、わたしがいる以上、寺社奉行預かりとなっているはず。そのような横暴、許されるはずが」
「それが火付け盗賊改め方の
「
鎬が驚愕に声を失った。
思わぬ大物に、なんとなくついてきていた平蔵は目を見張っていれば、くんと、袖を引っ張られた。
「ひつけとーぞくあらためがたって、なに」
「極悪人を召し捕らえるためなら、江渡中どこへ行っても何をしても許される奴らのことだよ」
火付け盗賊改め方は、江渡で重罪となる火付け、盗賊、賭博などの凶悪犯罪を取り締まるためにある部署だ。
凶悪犯を相手取ることから、武官の中から選ばれる武装集団であり、武士や僧侶であっても検挙することのできる捜査権を有していた。
「しのぎよりえらい?」
「さすがにそこまでは知らねえよ」
ただ芝居小屋の題材として火付け盗賊改め方が正義の味方として扱われることが多いことから、たまたま知っていただけだ。
さやの問いに応えられるような知識はないし興味もない。
「確かに
ぶつぶつとつぶやいていた鎬は、ぱっと顔を上げた。
「平蔵さん、行きましょうっ。すぐに止めなければ!」
「おい鎬! 俺は関係ねえだろ!?」
すぐさま大太刀の下げ緒を肩に引っかけて飛び出す鎬に、なぜか腕を取られた平蔵は、なし崩し的に医師の元へと向かうこととなったのだ。
*
門前町にある医院の前は、物々しい戦支度をした与力と同心たちが帰らんとしている所だった。
平蔵に、寺社奉行と火盗の区別はつかないが、鎬のしかめられた顔からするに、おそらく火付け盗賊改めの人間なのだろう。
「待ちなさい、わたしは虚神狩りの玖珂鎬! こちらで預かっていた下手人をどうしました!」
一〇代の娘とは思えぬ鎬の剣幕に、取り囲んでいた手先たちが動揺する。
だがいくらもせず、人垣が開き、陣笠をかぶった男が現れた。
男は大太刀を背負う鎬を認めると泰然と名乗った。
「かの虚神狩り方にお目にかかれるとは、光栄にござる。それがしは先手頭、
平蔵は、男、砥部の丁寧な応対に、鎬の勢いがそがれたのを感じた。
砥部は年は平蔵よりもいくばくか上、四十を超えたほどだろう。火付け盗賊改め方という過酷な役目をこなしているとは思えないほど、柔和な面立ちだった。
しかしながら平蔵はその砥部の様子に違和を覚え、かすかに眉をひそめる。
少し勢いをそがれたとはいえ、鎬は二回り年上でもおかしくない砥部へ、もう一度問いを繰り返した。
「わたしは虚神狩り方、玖珂鎬です。こちらにいた下手人をどうなさりました」
「ああ、それがしが追っていた案件の下手人だった故、移送させ申した。虚神狩り殿には手数をかけたが、後はそれがしらに任せていただこう」
「なっ。勝之丞は、虚神憑きでございました。虚神が関わる事件は、町方寺社方を超えて虚神狩り方が担当する取り決めのはず。これは越権行為です」
一瞬言葉を無くしかけた鎬だったがそれでもまっすぐ主張する。しかし、砥部はやんわりと応じた。
「あやつは虚神を身の内に飼っただけでなく、いくつもの余罪を持っておる。それらは虚神狩り殿が吟味するわけにもいかなかろう」
「それは、ですが」
「虚神狩り殿のお役目は、こやつの虚神を斬ったことですんでおる。後のことはそれがしに任せ、心置きなく次のお役目に精進されよ」
穏やかに鎬の言い分を封殺した砥部は、あくまで慇懃に一礼すると、手先を引き連れて去って行く。
はなからこちらの言い分をまったく聞く気がないと悟った鎬が、怒りと理不尽さに固く拳をにぎった。
「つまりは手柄を横取りするんだな。それともなにか、不都合なことでもあったかね」
平蔵の独り言が、意外に大きく響いた。
すう、と砥部の視線が初めて平蔵へと向いた。
しかし平蔵はは涼しい顔で合せに腕を突っ込んで、腹をかいていた。
「お堅い役人連中かと思えば、なかなか生臭えことをするもんだ。見直したぜ」
「虚神狩り殿、手先のしつけはしておくものだ」
平蔵の皮肉に砥部は反応せず、鎬へと苦言を呈すると、手先を促して去って行く。
手先たちの殺気にも似た視線が遠のいた後で、鎬は平蔵を振り返る。
「へ、平蔵さん! なんてことをおっしゃるんですか! 言い返してくださって、わ、わたしは嬉しかったですけど」
「てめえのためじゃねえよ。俺がいけ好かなかっただけだ」
さらに言いつのりかけた鎬だったが、先ほどまでにやにやと笑みを浮かべていた平蔵のまなざしが鋭くすがめられていることに息を呑む。
「あいつ、人を殺しているな」
「そ、それは当然です。お役目がお役目ですし。致し方なく、というのはあるかと思います」
鎬が意図がわからないと困惑していたが、思い出したように怒りをあらわにした。
「にしても、あの人失礼でしたねっ」
「お前、反応鈍いって言われねえか」
「それは平蔵さんに言われたくないですっ。あの物言いなんですか! 平蔵さんを物みたいに言って! 平蔵さんは抜き手にも匹敵する剣士ですし、わたしのお手伝いをしてくださった立派な仲間なんですぅ! ……てどうしたんですか。鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔ですよ」
罵詈雑言とも言えない言葉で怒り散らした鎬は、きょとんと平蔵を見上げた。
自失していた平蔵は、我に返ると、鎬を見おろした。
「いや、なんでもねえ。医者たちを見てやらなくていいのか」
「そうですか。すみませんちょっと待っててくださいねっ」
ぎこちなくごまかす平蔵を、気にしなかった鎬は、己の役目を思い出したらしく、医院へ駆け込んでいった。
おそらく医者たちから話を聞き出すつもりだろう。
平蔵は無性に煙草を吸いたい気がしつつ、ぼんやりと立ち尽くしていれば、さやが平蔵の衣を握りしめていた。
視線は砥部が去って行った方を見つめ、整った顔を能面のようにこわばらせている。
「どうした」
「こわい」
ぽつり、と呟いたさやの頭を、平蔵は無造作にかき回してやった。
ぐらぐらと頭が揺らぎ、恨めしげに見上げてくるさやへ言った。
「腹、減ってんだろ。そういうときは余計怖く見えるもんだ」
「そうなの」
「そうだよ。もう会うこともねえ野郎だ。気にすんな」
そう、ただ袖をすり合っただけの縁なのだ。
納得したような顔をしたさやだったが、平蔵へ向けて腕を伸ばしてくる。
抱き上げろ、という意図が明白なそれに、平蔵はため息をつく。
「今だけだからな」
「ん」
仕方なく抱き上げて片腕に乗せてやれば、さやは満足そうにふんす、と息をつく。
幼子であるとはいえ、腕に乗る彼女はひどく軽い。ちょうど、中身のない鞘を乗せているかのように。
「さやは、うまくできた」
ふいに問いかけられて、平蔵は面食らった。
なんのことかと問いかけようとして、あの夜のことだと思い至る。
「あんなのは二度とやりたかねえよ。そもそも刀を握るなんざ懲り懲りだ」
寂しそうに視線をうつむかせるさやに、だが平蔵は付け足した。
「ただ、切れ味は一級だったよ」
「だって、へーぞーのやいばだもん」
そこだけは嬉しげに胸を張るさやに、平蔵は胸中に名状しがたいものを覚える。
平蔵は、彼女がもたらしたものを覚えている。
熱く四肢にみなぎる力と、冴えきった感覚は、鍛錬をおろそかにしていたはずの平蔵の体を全盛期のように動かした。
あれは、間違いなく鞘神の力であるはず。
しかし、さやはこのように、己の功績ではなく、さも平蔵の力のように誇ることが不思議だった。
とはいえ、こうして自慢げに胸を張る姿は、平蔵にはただの幼子と変わらないようにしか思えなかった。
これからどうするかは、わからない。
「おなかすいた」
「戻ろうぜ。昼飯まだ残ってるといいな」
だから平蔵は、さやを引き連れて巴屋へ戻ったのだった。
*
去り際に皮肉を言っていた巴だったが、まかないには平蔵とさやの分も用意されていた。
平蔵がなすのぬか漬けに、大根の煮付け、青菜の煮浸しで飯を食べていれば、隣でぶつぶつと文句を言う鎬が居る。
「平蔵さん……おいてくなんてひどいです……。わたしだっておなかすいてたのに……」
「さやがおなかすいたって言ったもんだからよ」
「都合の良いときだけだしに使わないでください!」
さらりと流す平蔵に、肩を落とした鎬は、飯をもそもそと口に運んだが、心配そうに聞いてきた。
「あのう、梅彦さんは大丈夫なのでしょうか」
「気になるのか」
「あたりまえです。虚はなくなったとはいえ、そのう、あれですし」
ごにょごにょと言いよどむ鎬の反応も、もっともかもしれないと、平蔵はおもった。
あれから数日。お留屋からの音沙汰はない。
芸者殺しが捕まった話題で持ちきりであったというのもあるだろうが、あの夜に別れて以降、平蔵は梅彦を見ていなかった。
それでも、平蔵は強いて伺うことはしなかった。
己が関わるべき分を過ぎているというのもあったが。
「さあな。あいつ次第だよ」
わずかに口角を上げて告げる平蔵に、鎬は不満そうに言いかけた。
しかしその前に食べ終えていたさやが、ぴょんと立ち上がって部屋を出る。
「どうしたんですか、蘇芳さん?」
唐突な行動に戸惑う鎬の隣で、最後のぬか漬けを咀嚼し終えた平蔵も、さやに続いた。
さやの赤い着物の裾が翻るのを追えば、玄関口には、三人の女がいた。
巴は上がり口に険しい顔で座り、外からやって来た風の茂松は静かに見守っている。
そして、布にくるまれた三味線を一丁抱えただけの梅彦が、緊張の面持ちで立っていた。
平蔵はさやと共に、柱の陰から覗く形になる。
重い空気の中、巴が口を開いた。
「話はわかった。だがね、巴屋は一流の芸者しか子とは認めない。技だけじゃないよ。心意気までいっぱしの辰巳芸者じゃなければ巴屋の看板を背負わせることはできないさね。あんたにはそれがあるかい?」
海千山千の猛者である巴に、梅彦はひっと息を呑んだ。しかし、抱える三味線の包みを握りしめると、うつむきかけた顔を必死に上げる。
「わ、私は、心は、まだ、全然だめ、だと想います。踊りもだめだし、歌も苦手だし。でも三味線なら、誰よりも楽しんでもらえる自信があります」
震えながらもまっすぐ見つめる梅彦を、にらむように見据えていた巴は、ふいに表情を緩める。
「よく言った! あとはこの巴に任しておき。今日からあんたはうちの子だよ」
「よかったねえ、梅彦。じゃああたしがあんたの姉さんだ」
「……は、はひ」
茂松に祝福された梅彦は、へなへなとその場に崩れ落ちる。
その胸には虚はなく。魍魎すら寄せ付けない明るさがあったのだった。
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