四、
勝之丞からどぶりと溢れた黒の汚泥は、そのまがまがしさから見たことがない者でも何かをわからせた。
「
茂松の恐怖に震える声が、背後から聞こえた。
見る間にどろどろとしたものが膨張してゆくのを前に、平蔵は一歩踏み出しながら、立ち尽くす梅彦に怒鳴る。
「梅彦、走れ!」
呆然としていた梅彦が、雷に打たれたように足を動かしだす。
しかし、もつれて遅い上、背後から黒いよどみが執拗に追いすがってくる。
このままでは逃れられないのは明白だ。
平蔵は走りながら、黒革の柄に右手をかけた。
まるで吸い付くような握りに、様々な記憶と想いが去来するが、無理やりねじ伏せる。
そして羽のように紅塗りの鞘へと寄り添う童女に向けて、平蔵は声をかけた。
文言は、事前に聞いていた。
「”我が魂を刃となせ”」
「あい」
闇夜に響いた幼い声は、不思議と嬉し気に思えた。
とたん、さやの姿が溶け消え、平蔵が左手で握る紅塗りの鞘が熱く脈動した。
平蔵は全身に力が満ちていくのを感じながら、さらに加速する。
勝之丞の虚からあふれた虚神は、いまは道をふさがんばかりの巨大な人の掌となっていた。
人一人、ねじりつぶすのも容易と思われるその手は、のろのろと逃げる梅彦の頭上へと迫っている。
しかし梅彦は足をもつれさせてその場に転んだ。
『アハハッハハハ、潰レロォオ!』
哄笑と共に、振り下ろされようとする巨大な手を前に、梅彦はなすすべがない。
平蔵は鯉口をきり、刃を抜いた。
斬。
ぼとり、とその場に落ちた虚神の手のひらは、力を失って霧散した。
『アヒャ、ヒャ?』
何が起きたのかわからないとでも言うように、虚神に呑まれた男は首をかしげ、次いで手首から吹き出す瘴気の靄に絶叫する。
一刀のもとに、巨大な手を切り落とした平蔵は、己の持つ刃を初めて見た。
区分は打刀だろう。大柄な部類に入る平蔵にちょうどいい先反りの豪壮な剣は、月明かりに鈍く輝いている。
『へーぞーのたましいをやいばにした』
頭の中に響いてきたさやの声に、平蔵は皮肉げに唇をゆがめた。
「そりゃまた、がわだけは剛毅だな」
これが己の魂の形だというのなら、きっと中身はすっからかんであろう。
しかし平蔵は、他にも、変化が起きていることを感じていた。
妙に体が軽く、あたりが真昼のように明るくはっきりと見える。
明らかに、刃を抜いた影響だ。
妙によく見える視界に戸惑いつつ、平蔵は反射的に刃をかざす。
復活していた虚神の巨大な手の爪が刃とぶつかった。
あたりに硬質な音が響いた。
平蔵は腕がしびれるような衝撃とは別に、体の芯が軋むような感覚を覚える。
わずかに動揺したが、腕を復活させた虚神は待ってはくれない。
それを皮切りに、次々に振り下ろされる虚神の爪を防ぎながら、平蔵はさやに怒鳴った。
「なんだこりゃあっ!」
『やいばは、へーぞーのたましいだから。いたみがひびくの』
「折れたらやべえ奴じゃねえのかそれっ」
『へーぞーはおれない』
言いよどむかと思ったが、さやは意外なほど強い口調で返してきた。
『こころがおれないかぎり、やいばもおれない。さやがおらせないもん』
一瞬、虚を突かれた平蔵だったが、刀の柄を握りなおして応じた。
「ずいぶん、信頼されたもんだなあ!」
裂帛の気合いと共に、横薙ぎに振り抜く。
すくい上げるように腹を狙ってきていた虚神の指が、鮮やかに切り落とされた。
地面に落ちる前に、溶け消える。
虚神がひるんだところで、平蔵は強く地を蹴り、掌の脇を抜けようとした。
何度も再生するのであれば、本体を狙うしかない。
そう算段をつけたのだ。
しかし、切り落とした指先から、今度は枝葉のように無数の手が現われた。
不意を突かれた平蔵は、いくつかを斬り損ねて吹っ飛んだ。
店の壁に叩きつけられ、衝撃に息を詰まらせる。
刀は手放さなかったものの、とっさの反応は遅れ、たちまち無数の手が殺到する。
しかし、よどんだ闇を押し流すような一陣の風が吹き、虚神の手は消滅した。
「平蔵さんっ、無事ですかっ!」
凛とした娘の声に振り仰げば、抜き身の
大太刀を構えて、身軽に屋根の上から降りてきた鎬は、虚神をけん制しながら平蔵を振り返った。
「虚神憑きがいると教えてくださったのは感謝しますが、遭遇したら逃げてくださいって言ったじゃないですかっ」
「うっせえ。てめえだって取り逃がしたんだから、お互い様だろうが」
平蔵は事前に鎬に勝之丞について教え、注意をそらしていたのだが、予想以上に勝之丞の執着のほうが強かったようだ。
鎬は勝之丞を追いかけてきて、この場にかち合ったのだろう。
平蔵の言葉に、鎬はむっとした顔で言い返そうとしたが、虚神が咆哮したことで表情を引き締めた。
「平蔵さんっさがって……ってえ!?」
虚神へと踏み出しかけた鎬だったが、その前に平蔵が先んじていた。
「平蔵さん!?」
「うるせぇ、これは俺の喧嘩だ!」
言い捨てた平蔵は、再び刀を構えて走り出す。
無数の手の塊と化した虚神は、再び無数の手を伸ばして襲いかかってきた。
相手の動きはわかった、人と同じと思ってはいけない。
ならばどうするか。
「今覚えるしかねえよなぁ!」
『オノレ、オノレェエエエ、潰シテヤルゥゥゥ!』
勝之丞の虚の原因が何かはわからないが、あの料理茶屋での一件がきっかけとなっているのは明白だ。
ならば、平蔵にも憎悪があるはずと考えていれば、案の定、勝之丞の腕は執拗に平蔵を潰そうと襲いかかってくる。
しかし、平蔵は一寸もためらわず、その無数の手の海に飛び込んだ。
上から叩き潰さんとする手を切り落とし、左右からつかみかかってくれば返す刀で両断し、足下をすくわんとするものは突き刺しまた走る。
月明かりに鈍く光る刃がひらめくたび、虚神の腕は消えていく。
荒々しくも無駄のない剣線は、さながら決められた殺陣の筋を見ているようであった。
「すごい……」
手出しをする時期を逸してしまった鎬は、一般人である茂松たちをかばいながら感嘆の声を漏らした。
「刀を使わない」という割に、刀を差し慣れた様子や、歩き方は見慣れた剣士のそれ。構える姿はやや独特であるものの道場で修業を積んだ経験が見て取れた。
だからこそ、恐ろしかった。
普通の剣術家が相手取るのは、人である。
しかし人を殺すための剣と、ありとあらゆる理不尽を体現する虚神を倒すための剣は全く違うのだ。
故に、鎬は平蔵のためを思い忠告したのだ。
その懸念どおり、平蔵もはじめは虚神の不規則な変化に対応し切れず窮地に陥っていた。
にもかかわらず、一合切り結ぶごとに、圧倒的な速度で虚神の動きに順応し、今では圧倒すらしている。
乾いた砂が水を吸い込むかのような、劇的な対応力は天分の才だけでは片づけられない。
間違いなく、幾多の修羅場をくぐり抜けてきたからこその技量であった。
平蔵によって次々に斬られ、数を減らしていく腕に、虚神とつながった勝之丞は徐々におびえを宿してゆく。
しかし片時も足を止めない平蔵もまた、己の体力の限界を感じていた。
片時も足を止めないということは、それだけ体力を削られていくということだ。
いつもよりはましになっているようだとはいえ、足に疲労を覚えていた。
年は取りたくない、と思いつつ平蔵は立ち回りながら目をこらす。
必要なのは、見えることなのだ。
この手はただの蜥蜴の尾。元を絶たねば意味がない。
どこだ、まだか。どこにある。
『みえた』
いとけない声が響くとほぼ同時に、じれた虚神の腕が収束し、網のように広がった。
その腕の一部は、平蔵を飛び越えて、茂松らへと襲いかからんとしていた。
しかし、手に守られていた勝之丞もあらわになっている。
「鎬、後ろは任せたぞ!」
平蔵はまっすぐ、眼前の勝之丞を目指した。
後ろで鎬が騒ぐ声を無視し、己にまとわりつく手をすべて蹴りつぶし、斬り刻み、歩を進める。
この男は自分の欲のために、虚神にのまれ、育松を殺した。
理不尽は山のように転がっている。見て見ぬふりをしたほうが楽だと知っている。
だが平蔵は、己の関わったものが、害されて黙っていられるほど、利口でもないのだ。
とうとうたどりついた平蔵は、真っ黒に染まった顔をゆがめる勝之丞へ、口角を上げて見せた。
「てめえの虚、見えたぜ」
虚神の手が届くよりも先に、腹部に空いた虚を、刃で薙ぎ払った。
まるで、紙風船を潰したような感触だった。
しかし、ぱちん、と虚が消えたとたん、身の毛もよだつ様な絶叫と共に、無数の手が煙となって溶け消えてゆく。
幻のように崩れ去ったあとには、もとどおり唐桟縞の男、勝之丞が倒れ伏していた。
平蔵が注意深く、足で仰向けにしてみれば、勝之丞の胴にはちょうど平蔵が切りつけた痕が残っている。
しかしその傷跡はわずかに血が滲む程度で、勝之丞も弱々しく呼吸を繰り返していた。
死んでは居ない。
息をついた平蔵は、重い疲労を感じていたが、刀は鞘に戻さず鎬たちの方を振り返った。
とたん、ぱん、と軽い音が響く。
茂松が梅彦の頬を張った音だった。
「これはあんたが理不尽なことをした芸者たちの、怒りと悲しみの分だよ」
「し、茂松さん、そんなことしたら……」
すでに梅彦が虚神憑きだと気づいている様子の鎬が、動揺しつつも刀を収めないのはさすがと言うべきか。
だが鎬がかばおうとする腕をはねのけた茂松は、梅彦の両肩に手を置いて、さらに言いつのる。
「今の置屋が不満なら巴屋に抜け出してくればいい、あんたのその三味の腕なら、巴姉さんも買ってくれるっ」
「私、を?」
呆然と茂松を見上げる梅彦に、揺らめいたはずの邪気は薄くなり、胸にあった虚もわずかに小さくなっていた。
平蔵がその傍らに立てば、梅彦はのろのろと顔を上げる。
「用心棒、さん」
「梅彦、どうする」
困惑に瞬く梅彦に、平蔵は淡々と言いつのる。
「あれで試してみたが、俺の刃は虚神と虚だけを斬れるらしい。このまま死んで楽になるか、虚だけ斬って罪を抱えて苦界を生きるか。てめえで選べ」
平蔵の望むものだけを斬れるのであれば、人の命も奪うことができる。
刀は本来人殺しの道具なのだから当然だ。
気色ばみかける茂松を視線で黙らせた平蔵は、梅彦を待つ。
うろうろと視線をさまよわせていた梅彦だったが、ぽつりと言葉を落とす。
「どうして、そこまでしてくださるんですか」
梅彦の問い返しに、平蔵は肩をすくめて見せた。
「お前は臆病だとか、言うけどな。他の芸者を襲うなんて大それたことができんだ。その熱意を別の方向へ行かせればなんか変わるんじゃねえかと思ったんだよ」
お節介とも言えないひとりよがりだ、と告げられ、梅彦は暗がりでもわかるほど頬を赤く染める。
「あとな、三味線がまた聞きてえっていうガキがいるんだよ。それだけだ」
どうする、と平蔵が刃を突きつければ、梅彦はこくりとつばを飲み込んだ。
1拍、2拍と沈黙した彼女は、震えながらも強い意志を宿したまなざしで平蔵を見上げた。
「お、お願いします。私は、まだ三味線が弾きたい」
「おう」
わずかに笑んだ平蔵は、ゆっくりと刀を彼女の虚へと振り下ろした。
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