三、
どうして、こうなったのだろう。
ぼんやりと歩きながら梅彦は思う。
空はすでに宵闇の黒に塗りつぶされていた。
いつ、夜が更けたのだろう。時の流れが曖昧でよく覚えていなかった。
お座敷に上がったような記憶はある。ただ、三味線は弾かせてもらえなかった。
呼ばれてすぐに奥の間へ引きずり込まれたからだ。
必ずやり遂げろ、と楼主から言われて、でなければ切り見世に売り飛ばすと脅されてその通りにした。
切り見世にゆけば、三味線を弾く時間はおろか、一晩に何人もの客を取らされる。
今の置屋でなら、三味線を弾ける。
だから、なるべくならここに居なければいけない。
けれど、毎日、毎日楼主に怒られてばかりだった。
己が、今の置屋に売られたのはそれなりに運が良かったのだと知っていた。
母親が死に、父が新たな妻をめとったとたん、半ば売られるように深河に奉公に入ったけれど、三味線に出会えた。
三食ご飯を食べられて、好きな三味線を弾ける。
けれど、このままでは三味線も弾けなくなってしまう。
楼主がいうには、客を喜ばせるすべが足りないのだという。
三味線は弾けても歌ができない。
楽しませる踊りもできない。
気持ちよく客に話をさせる話術もない。
ならば吉弥さんのような良い声か、紅鶴さんのような踊りがあれば良いのだろうか。
だから――ったのに、彼女たちのようにうまくいかなかった。
はて。
己は何をしたのだったか。
うまく思考がまとまらない。
どうしたのだったか、と考えてもぼんやりとよどみが広がっていくように塗りつぶされる。
そう、そうだ。どうすれば、良いのだろう。
何が欲しいのだろう。
思い出したのは、喧嘩場であざやかな啖呵を切った、茂松の姿だ。
美しく、辰巳芸者の鏡のような彼女のようになれれば、自分ももう――わずにすむだろうか。
夜も更けた深河の町中は、遠くから三味線の音が聞こえてくる。
いつの間にか、深河の料理茶屋から離れた道筋に立っていた。
自分の座敷は、もう少し等級が落ちる所が多い。
なぜ、このような所を歩いているのだったか。
しかし、道の先にしゃなりと歩く人影を見つけてすべてを忘れた。
闇深い中を、月明かりと手に持つ提灯に照らされて歩くのは、茂松だ。
夏らしい笹の柄入りの着物に、薄い紗の羽織を引っかける姿は粋である。
あんな風になれれば、良いのだろうか。
そうすれば、そうすれば……
ざわり、視界の端で、何かがうねることも、意識の外だった。
けれど、
「梅彦」
低い男の声に、梅彦はゆうらりと茂松の隣を見た。
ぼんやりとした頭の中でも、誰かはわかった。
雲に切れ間が出来て、その姿が照らされる。
人よりほんの少し大きい上背で、顎の無精ひげもそのまま。
いつも飄々とした雰囲気を崩さない、どこか浮き世離れした男だ。
町人風の身なりには不釣り合いな、紅の塗りも鮮やかな刀を差している。
巴屋の用心棒だった。
*
平蔵は、眼前にたたずむ梅彦の姿を、じっくりと観察した。
今の梅彦は、いつかの夕方のように地味でおとなしい娘の面影は跡形もなく、全身を闇よりも深い魍魎に全身を呑まれていた。
かろうじて梅彦の顔が認識できるが、体は、黒煙のように揺らぐ魍魎の中に沈んでいる。
それは、ふだん魍魎が見えないはずの茂松にも見えるらしい。
「へ、平さん、遠回りすると思ったら、なんだいあれ! 梅彦ってどういうことだい!」
驚き混乱する茂松の声に、梅彦がおびえたように後ずさる。
平蔵は茂松を背にかばい、一歩前に出た。
「てめえだろ。芸者二人を襲ったのは」
梅彦の周囲に凝るもやが震えた。
「どう、して……」
「てめえに虚が見えるって奴がいてな」
傍らでは、黒髪に赤い組紐を飾ったさやが梅彦をじっと見ている。
平蔵はあの喧嘩の現場で、茂松を見る梅彦に魍魎が黒くよどんでいるのを見て取っていた。
故に梅彦が確実に狙ってくると推量をし、茂松の迎えを男衆から代わってもらっていたのだった。
数日、粘るつもりではあったが、予想以上に早かった。
「人気の芸者が、うらやましかったか」
平蔵がそう問いかければ、梅彦がいびつな笑みのようなものを浮かべた。
「吉弥さんや、紅鶴さんみたいに、なれたらって思いました。そうしたら私も叩かれなくなるかもって、何にもないから、愚図だから。だから、
梅彦の周囲にある靄が、ぞぶりと濃くなった。
「なのに、おかしいんです。全然うまくならなくて、楼主からも怒られてばかりで、きっとまだ足りないんです。辰巳芸者らしくないって言われるから、きっと茂松さんの強さがあれば」
「馬鹿言ってんじゃないよ梅彦!」
凜、とした声が梅彦の言葉を遮った。
平蔵が振り返れば茂松が、怒り燃える瞳で梅彦を射貫いていた。
「どうやったかは知らないけどね、他人様の才能を盗んだところで、自分のものになるわけがないじゃないか! あんたの境遇には同情するけどね、みんな歯ぁ食いしばって自分の技を磨いてんだよ。自分の身で身につけたことにまさるものがあるわけないじゃないかいっ!」
茂松に全霊を込めて怒鳴りつけられた梅彦は、おびえたように後ずさる。
「あ、でも、私には……なんにも……」
「そもそも何もないなんて言うんじゃないよ。あんたには三味線があるじゃないか! この深河でも一、二の争うだろうその腕を、どうして誇らないんだい!」
怒りに燃えていてもなお、まっすぐな茂松の言葉に、梅彦が泣きそうにゆがんだ。
膨らみかけていた魍魎が揺らいだ。
呆然と立ち尽くす梅彦は目に入っていないように、茂松はぎりと拳を握りしめて握りしめる。
「だがね、あたしはあんたを絶対に許さないよ。あたしの身代わりで育松が死んだなんて、そんなのやりきれないじゃないかっ」
「育松さん……?」
「とぼけんじゃないよ、いままでの芸者は全部あんたが襲ったって言うんなら育松もっ」
「茂松、育松を殺したのはこいつじゃねえよ」
平蔵が言えば、戸惑う梅彦へ向けて憎しみをあらわにする茂松がこちらを向いた。
二人の視線を一身に浴びた平蔵は、ゆっくりと梅彦のほうへと歩きながら言葉を発する。
「こいつからは、人を殺した臭いがしねえ。前の二人と、育松は違う人間の仕業だ」
「そう、なのかい……」
困惑する茂松は、怒りの向き先をどうしたら良いかわからないようだった。
「じゃあいったい誰が、育松を」
「へーぞー」
この場に来て初めて発せられたさやの声は、警告だった。
肌に粘つくような邪気が空気に混ざる。
ずるり、となにかを引きずるような音が響いた。
いつの間にか梅彦の背後に、人の形をした真っ黒い塊がうごめいていた。
宵闇に埋もれることもなく、ただのっぺりとした黒を作り出しているのは、その人型からあふれる魍魎だった。
「ゆる、せねえ」
うわん、と反響するような低い声音に梅彦は振り返ってそのまがまがしい塊に息をのむ。
どろりと魍魎がうごめき、わずかに薄れた間から覗いたのは、恨みにすさんだ男の顔。
茂松が啖呵を切り、平蔵が叩きのめした勝之丞だった。
「ゆるせねえ、全員俺を馬鹿に、しやがって。たかが売女の分際でぇ。俺を馬鹿にする奴は、みんな、みんな……」
粘つくような低い声で、呪詛のような恨み言をはき出すたびに、その魍魎が歓喜するように広がっていく。
その胸にはぽっかりと、虚が空いていた。
闇の塊はゆっくり、ゆっくり歩を進め、茂松と平蔵。そして立ち尽くす梅彦を捉えたとたん、憎悪があふれ出す。
『つぶしてやるぅぅぅ』
ぽっかりとあいた虚から、宵闇よりも濃いものがあふれだし、辛うじて人の形をしていた輪郭が溶けた。
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