二、
巴屋に戻った平蔵が巴に言われて台所へ行けば、鎬が夜食のおにぎりをほう張っていた。
巴が気を利かせて食べさせているのだろう。
夜明け色の大太刀を傍らに置いた鎬は、難しい顔でもう一つのおにぎりを手に取るか考えていたところで、平蔵達を振り返った。
「探しに行くよりすれ違いにならないだろうと言われて、ここで待ってました」
「そっちはどうだ」
きまり悪さをごまかすように早口で言った鎬を見なかったふりをして、平蔵は問いかける。
視界の端では勝手に鎬の隣に座ったさやが、おにぎりをじっと見つめていた。
「蘇芳さん、こっちの列が梅干しで、こっちが昆布の佃煮だそうです」
「ん」
迷わず梅干しを手に取るさやにちょっと微笑んだ鎬は、平蔵に向き直った。
「過去に虚神に襲われた芸者さんに話を聞きに行った後、殺された現場にわずかに残っていた気配から足取りを追ってみました」
「そんなことができんのか」
軽く驚く平蔵に、鎬は苦笑する。
「ただ、虚神が表に現れていた時、それでも一日も経てば消えてしまいます。そのまま追って行って捕まえる、なんてことはできないのですが。ある程度虚神の強さはわかるんです」
「どういうこった」
「心の隙間に入り込んだ虚神は、すぐに憑いた人間を操れるようになるわけじゃありません。まず憑いた人間の欲望を叶えることで、心の虚を広げて力を蓄えます。犯行現場に残った邪気の気配が濃ければ濃いほど、虚神が表に出ている時間が長いことになりますから。今回の虚神憑きはまだ堕ちて間もない人物だと思われます」
そこで言葉を切った鎬は、眉をしかめながら続けた。
「今回の事件は、被害者が3人とも芸者ですから、犯人は芸者に恨みを持っている人物だと考えられます。ただこれだけの土壌がある場所で、しかも二人も被害者がいる中で、虚神狩り方にこの報告が上がってこなかったのか不思議なんですけど」
「ここは今は目をこぼされてるが、騒動が起きればご公儀にとっては潰す良い口実にされちまう。たかが芸者が一人二人使い物にならなくなっただけなら、目をつぶるほうが賢いのさ」
平蔵が岡場所ならではの理由を口にすれば、鎬は目を丸くして驚いた。
「営業しちゃだめなところなんですか!?」
「知らなかったのか。官許が出ているのは
「でも、他の岡場所に配属されてる人は、ちゃんと巡回してるって言ってたのに。どうして……いやいやそれは後です」
まだ納得できてないらしい鎬は、思考を振り払うように首を横に振った後、身を乗り出してくる。
「話は戻しますが、今回の虚神憑きは、とうとう殺しまで手を染めました。人を殺すと、たがが外れたように次の犯行にためらいがなくなります。一刻の猶予もありません」
「そこは、普通の人間と変わらねえんだな」
思わず呟いた平蔵が視線を感じて下を見れば、にぎりめしにかじりついていたさやがこちらを見上げていた。
唇に塗った紅がはがれづらいよう小さく作られたおにぎりは、さやの手にちょうどいい。
だが平蔵はさやのその無垢な瞳に居心地の悪さを覚え、すぐにそらす。
鎬はわずかなやりとりには気がつかなかったようで、改まった様子で背筋を伸ばしていた。
「それでお願いなのですが。平蔵さんは魍魎が見えますから、一人一人、当たるのを手伝っていただけませんか」
「俺がか?」
「はい。こちらが、今日判明した被害者に恨みを持っていそうな人間の一覧です」
懐に入れていた紙を平蔵に差し出した鎬は、悔し気に続けた。
「虚神憑きから虚が見えるのは、虚神が顕現する一時だけです。だから、魍魎や瘴気を色濃く呼び寄せている人間を探し出すのが一番確実な方法なんですが、わたしだけではこの町一帯を網羅することができないんです」
「虚神が憑いた人間は、どうするんだ」
「斬ります」
平蔵の問いかけに、鎬は迷いなく答えた。
その表情からは先ほどまでの苦笑はない。
ただ、無意識なのか、意識的なのか、左脇に置いてあった藍色の鞘を引きよせて続けた。
「虚神が憑いた人間から切り離すには、それしかありませんので。運良く、虚神が離れたときに斬れれば良いのですが、大体は、宿主ごと斬ることになります」
ほんの少しだけ痛みの滲む言葉に、平蔵が沈黙していれば、鎬は重い空気を自ら払拭するように明るい声で発した。
「大丈夫です。これでもわたしは経験豊富なので、ちゃんと虚神を退治しますとも! ですがまだ全然絞り込めてなくて。斬る方はわたしがやりますので、平蔵さんには探索だけ協力していただければと……」
しかし、険しい表情で黙り込む平蔵を前に、鎬の声に勢いがなくなっていく。
「その、だめ、ですか。お仕事もありますし」
おずおずと見上げてくる鎬に、平蔵は彼女が差し出してきた紙を流し見た。
女の名前よりも男の名前の方が多い。名前の前にはその人物の勤め先やよく利用する茶屋まで書いてある。
「客が恨んでると考えたか」
「はい……いえその、わからないって言うのが正直なところなんです。芸者さん、という以外には全然共通点がなくて。一人目のお宮楼の吉弥さんも、花里楼の蜜吉さんも深河芸者らしい気っ風の良さで人気だったって程度なんです。でも巴屋さんでは育松さんより茂松さんの方が人気だったみたいですし」
「恨み、だけじゃねえかもしれねえがな」
「え?」
不思議そうな顔をしていた鎬だったが、平蔵はその紙を持って懐に入れた。
目を丸くした鎬が、徐々に表情を輝かせるのをうっとうしく思いつつ、平蔵は口を開いた。
「いつから調べ始める」
「この町でわたしは部外者ですけど、遠くから見るだけでも十分邪気の濃さはわかります。同心さんや深河の
その女たちがどんな仕事をしているかわかるだけに気まずいのだろう。
顔を赤らめる鎬に、平蔵は息をついいた。
「わかった。手間賃はちゃんとよこせよ」
「はらいますとも!」
笑顔で快諾する鎬が要求しておきながら心配になった平蔵だが、彼女は浮かれた調子で続けた。
「えっと、えっとじゃあ平蔵さんは、わたしの手が回らなかった方をお願いします。すれ違う人の中に気になる人が居たとかでも良いです。あ、そうそうもし虚神憑きに遭遇しても倒そうとか思わないでくださいね」
「俺は子どもかよ」
平蔵はあきれて茶化したのだが鎬は語気を強めた。
「平蔵さん、亡くなられた芸者さんの体を見ましたよね。刀傷でも、殴った痕でもない。普通の人間では、体を雑巾のようにひき潰すなんて到底無理です。でも虚神憑きは、そういう尋常じゃないことができてしまうんですよ」
平蔵は、育松の亡骸を検分した時のことを思い出す。
むごい遺体には慣れているはずの同心たちや深河の治安を守る
しかし鎬はただ一切の嫌悪もなく、冷静に観察していた。
その異常さは、彼女が歩んできた修羅を容易に想像させたが。
「だからもし蘇芳さんが刀を抜かせてくれたとしても、まずは逃げることを考えてください。絶対に、立ち向かわないで。良いですね! ではっ」
念を押した鎬はぺこりと頭を下げると、大太刀を掴んで台所から飛び出していく。
息をつきかけた平蔵だったが、入れ替わるように巴が現れた。
「今
「いや、ちょっとな」
恐ろしく疑わしそうにする巴にこれ以上突っ込まれないよう、平蔵は話柄を変えた。
「なあ、数日前に茂松に絡んできた野郎どもがいただろう。あいつらについて調べられねえか」
「ああ、三ツ橋屋さんも困ってたお客だね」
「三ツ橋屋?」
「騒動が起きた料理茶屋だよ」
補足した巴は、くるりと自分の煙管をもてあそびつつ続けた。
「なんでも材木問屋の息子で
「よく知ってるな」
「当たり前さね、こちとら人相手の商売だ。抱えてる子を守らなきゃいけないからね、悪い客の噂は一気に広まるさ」
十数人の芸者を始め、使用人たちを束ねる巴は、鼻息も荒く続けた。
「金だけは落としてくれるから、黙認しているところも多かったけどね。芸者を転ばせることに執心してるって話だったから、まともな呼び出しの置屋では断ってたんだよ。あの騒ぎで、もう格式のある料理茶屋では遊べないさ」
平蔵は逆にお留屋が座敷を受けたのは、芸者に転ぶことを推奨していたからか、と類推した。
「平さんには感謝してんだよ。はじめはどうしようもないろくでなしを紹介されちまったと思ったけど、体張ってうちの子を守ってくれたしさ」
「ひでえ言われようだな」
「育松はあんなことになっちまったけどね」
はじめ笑顔だった巴だったが、最後に呟いた言葉には、こらえきれない悲しみが滲んでいたのだった。
仕事があるからと巴が去って行ったあと。
平蔵は煙管に刻み煙草を詰めると、たばこ盆の埋火から火を付けた。
店じまいで芸者を迎えるまでまだ時間がある。それまではゆっくりしていて良いというお墨付きだ。
平蔵は久々に呑む気がする煙草の苦みを味わいつつ、ゆっくりとはき出した白い煙をぼんやりと追う。
「へーぞーは、どうするの」
「どうするって、何をだよ」
愛らしい童女の声に、けだるく応じた。
平蔵はその日暮らしの風来坊だ。用心棒として雇われている今のほうが珍しいと認識している。
何かの責任を負うこと自体こりごりだ。
「俺はただの人だぞ。そもそも虚神って奴はどうしようもねえもんなんだよ。鎬も言っていただろう? 絶対に手を出すな、ってな」
そうやって一つ一つ重ねる言葉で、逃げようとしているのも自覚している。
しかし蛮勇をなすには平蔵は年を重ねすぎていた。世の中にはただの人間がかなうはずもない、理不尽なものは嫌と言うほどある。
できないと感じたことから手を引くのもまた、生きるためには必要なことだと知っていた。
子ども、といっても良い鎬の顔が幻想のように浮かぶのを振り払う。
「それにな虚神を斬るには、虚神憑きごと斬らなきゃならねえんだ。それじゃあ意味がねえ」
にもかかわらず、未練のように漏らした平蔵は、煙管を乱暴に打ち付け灰を落とす。
「うろがみだけきれるよ」
かん、と高く響いた音に紛れる声に、平蔵は半ば反射的に赤い着物の童女を見た。
努めて視線をやらなかったさやは、黒々としたまなざしで平蔵をまっすぐ見つめていた。
「さやとへーぞーなら、うろがみだけきれるよ」
もう一度繰り返したさやは、いつの間にか紅塗りの鞘におさまった刀を抱えている。
「刀は抜かせねえんじゃなかったのか」
「へーぞーのやいばなら、つくれる」
言い切ったさやの言葉に、まったく気負いはなかった。
「虚神だけ斬れるたあ、どういうことだ」
平蔵はいらだち混じりの低い声音ではあったが、先を促していた。
「さやは、ぬきてのたましいをやいばにするから。へーぞーがのぞむなら、うろだけ。うろがみだけしかきらないよ」
ゆうらりと、ゆらぐ行灯の明かりの中でうかぶ童女は、あどけなさがなりを潜め、ひどく整った顔だけが際立っている。
「へーぞーはどうしたいの」
問いかけられるそれは、果たして聖なるものか邪のものか。
世の中には理不尽が山のようにある。
鎬のような娘が特別な力があるばかりに、むごい遺骸を見てもまったく動じなくなくなるほどの修羅場をくぐらなければならなかったことも。
苦界に身を沈めたばかりか、
いちいちあげてゆけばきりがない。取り上げてもどうしようもない。
もはやありふれているそれに、平蔵は心を動かすほどの感慨は湧かない。
だが、
「気に入らねえ」
こぼれた言葉もまた、本心だった。
いい加減に、流されるままに生きてきた平蔵だったが、一度受けた仕事は最後まで完遂すること信条としている。
今回、平蔵が頼まれたのは、巴屋に所属する芸者の用心棒であり、芸者を守ることが仕事だと認識していた。
にもかかわらず、育松が死んだ。
巴に話したとて、平蔵の手が届かないことだった、とあっさりと言われるだろう。
だがしかし、平蔵に残っているわずかな意地が、ぎりぎりと軋むのだ。
「てめえなんでそんなこと言うんだ。
それでも明確な答えは避けて、平蔵が低く問いただせば、さやは黒々とした瞳を戸惑いに揺らした。
まるで聞き返されるとは思っていなかったような雰囲気だ。
しかし、さやはふるふると首を横に振るとささやくように答えた。
「げいしゃさんには、あたま、なでてもらった。おしゃみせんのおと。きれいだった。まためのまえでききたいなって」
きゅうと、童女は己の本体である紅塗りの鞘を握って続ける。
「さやは、やいばをふるえないけど、へーぞーはふるえる。へーぞーはちからがないけど、さやはあげられる」
要領を得ない言葉のあと、さやは平蔵を見上げた。
その澄み切ったまなざしに、平蔵は深くため息をつく。
「……そうかよ」
使命だとうなずくのであれば、意固地になるつもりだった。
しかし彼女は、恩を受けたからだという。
互いに理由があり、互いの力を必要としている。
「じゃあ、付き合え」
「あい」
平蔵は、こっくりとうなずいたさやが差し出す、紅塗りに黒革巻きの柄をした美しい拵えの刀を握った。
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