三、



 さんざん女衆おんなしにからかい倒された平蔵は、這々の体で裏長屋を飛び出した。

 当然のように黒髪の童女、さやもついてきている。

 女衆たちはしきりにさやを引き留めようとしたが、彼女は全く意に介さなかったのだ。


「別に残ってたっていいんだぜ」


 そちらのほうが好都合だ、と思いつつ平蔵が皮肉げに言えば、さやはあどけない顔で見上げてきた。


「さやは、さやからあんまりはなれられないから」

「はなれられない? あー本体から離れられねえのか」

「だから、へーぞーといっしょ」

「離れられない距離まで離れたら、お前はどうなんだ」

「うつしみはきえてさやにもどる」


 当然とばかりに言ったさやは、しかし大通りに出たとたん硬直した。

 女衆の目の前で消えれば不自然きわまりないために、今までずっと姿を現していたのだろうが、裏長屋から出てそれもなくなった。

 消えるかと思っていた平蔵だったが、さやはぎゅっと平蔵の袖を掴んだだけだった。


「出てなくったっていいんだぜ。外が怖えんだろ」


 今度はいちおう親切のつもりで言ったのだが、眼下の童女は首を横に振った。


「またへーぞーにうられたくない、から。こどもだと、ひとにとめてもらえる」

「よくわかってんじゃねえか」


 平蔵は背格好に似合わずさかしいことを言うさやに驚いたが、この童女が外見通りの幼子ではないことを思い出した。

 しかし、それでも固く緊張している様は、年相応に思える。


「はじめて、おもてにでたからびっくりした。いつもさやからみてるけど、ぜんぜんちがう」

「そうかい」


 おぼろげながら記憶に残っている、さやの前の持ち主がそのようなことを言っていたような気がする。

 だが、深く関わる気のなかった平蔵は、その話題を流して歩き始める。

 好きにしろと言い、さやはそれを受け入れたのだから、平蔵も好きにするまでだ。

 しかし、数歩も歩かないうちに、くんっと袖が引っ張られる感触と共に、さやが転んでいた。

 どちゃ、とでも表現したくなるような見事な転びっぷりに、平蔵は思わず立ち止まる。


「おい、大丈夫か」

「あるくの、なれてないから」


 泣きもせず、すぐに身を起こしたさやは土埃がついた顔で応えるのに、納得する。


「まあ、鞘から出ねえんなら、歩いたことはないわな」


 なにせ、ご神木から分霊された神霊だ。本体に入っていれば勝手にひとが持ち運んでくれるのだから歩く必要もなかったのだろう。


 しかしさやが妙に手慣れた仕草で着物の土埃をはらっていくのを見ていた平蔵は思い出した。

 彼女が質屋から平蔵のねぐらまで、一人きりで歩いたことを。

 その最中に、何度も何度も同じことを繰り返したのだろう。


「がんばってなれる」

「……わかったよ」


 決意だけを告げるさやが再び袖を掴んでくるのに、平蔵はそれだけ返事をしたのだった。







 深河ふかがわは、江渡えど城から辰巳たつみ、東南の方角にある川を挟んだ向こう側にある。

 元は江渡とは別の国だったが、都市部の膨張によって人口が流入し、町人たちの集まる立派な下町となった。


 だが、江渡に住む人間にとって深河といえば、永大寺えいだいじの門前に広がる繁華街であり、何よりその一帯に軒を連ねる遊郭、いわゆる岡場所の印象が強い。


 非公認とはいえ、江渡城から東北にある芳原よしわらと双璧と歌われる岡場所、深河は粋と気っ風の良さを誇りとする芸者衆がそろい、江渡っ子にとって手軽に気楽に遊べる場所として有名だった。


 平蔵は、そんな深河で遊女を抱える妓楼、「巴屋ともえや」に用心棒として雇われていた。

 料理茶屋が並ぶ一等地に居を構える「巴屋」は、深河の中でもそれなりに格式のある妓楼だ。

 客が直接妓楼に上がって遊ぶのではなく、料理茶屋からの呼び出しに応じて芸者衆を送り出す。

 そのように妓楼から料理茶屋へ行く芸者たちの警護が、平蔵が受けた仕事内容だった。




 夏の日長でまだ薄日が差す夕暮れ時、平蔵が巴の宿の裏口から顔を出すと、ちょうど女主人である巴と顔を合わせた。

 元芸者というだけあって、五十路を過ぎてもなおみずみずしさを失わない巴だったが、深河辰巳芸者としての気っぷの良さが意地へと変わっており、平蔵にとっては口うるさい雇い主だった。


「平さん、おやまあ、ひげまで剃ってどんな風の吹き回しだい。ちゃんと調達してきたんだろうねぇっ?」


 藍色の粋なひとえに身を包んだ巴はさっそく嫌みを口にしかけたが、すぐに絶句した。

 その視線は平蔵が片腕に抱えている童女、さやに釘付けになっている。

 あまりにも転び続けるさやに、業を煮やした平蔵が抱えて運んできたのだ。

 驚くほど軽かったために大して負担を覚えないまま、ここまで来ていたのだった。

 なんとか我を取り戻した巴は、まなじりをつり上げてで怒鳴った。


「あんた、女衒ぜげんにまで手を出したのかい!?」

「ちげえよ、その、訳あって預かることになったガキだ。仕事はちゃんとやるし迷惑はかけねえ」

「馬鹿言ってんじゃないよ、子連れで護衛なんてやれるわけないだろ。ここで預かるからとっとと仕事してきな。今日もたんまり予定は入っているからね」


 ごうつくばりの女だが、10人以上の芸者を抱える妓楼をやっているだけあって面倒見が良い。

 平蔵から降りたさやに、巴はわざわざ膝をついて視線を合わせた。


「ふうん、あと数年もしたら、うちで引き取ってもいいくらいの上玉だねえ。名前は」

「さやだ」

 平蔵が言えば、巴はぎろりと平蔵をにらんだが、すぐにさやに向き直って続けた。


「馬鹿な父ちゃんはこれから働かなくちゃなんないからよ、奥でうちの見習いと遊んでおいで」

「へーぞーについてく」


 さやの返事は、平蔵の予想通りだった。

 こまったように顔をしかめる巴に、平蔵は刀の柄に手を置いて言った。


「とりあえず、気が済むまで連れて行くさ。ほらよ、ご要望通り刀も持ってるだろ」

「おやまあ、ずいぶん上等そうな拵えじゃないかい。盗んできたんじゃないだろうね」

「まさか」


 その通りだと言うつもりはない。


「棒だけで仕事を済ませちまうから『棒振り平蔵』だっけ? これでまがぬけてる二つ名ともお別れだね」

「俺が好きで名乗ったわけじゃねえよ」

「まあ、真介ますけ親分からあんたの腕っ節は聞いてるけど、こんなちっちゃいのをつれてったら危ないだろう」


 巴はまだ渋っていたが、さやが平蔵の服の裾にしがみつくのを見て、あきらめたらしい。

 さやが普通の童女ではないと知っている平蔵にとっては気にすることでもない。


 なにせ、平蔵はあえてさやを止めていないのだから。

 周囲の人間の反応や、平蔵がいる環境を見て、さやが見限ってくれれば良いと考えて、とことんさやの好きにさせることにしていたのだ。


「なあ、例の事件はどんなもんだ」

「あいかわらずだよ。お宮の宿の吉弥さんもお松の宿の紅鶴べにつるさんも伏せっちまってる。まあ、そっちの客が、うちに回ってきてるとはいえ、どっちも深河を背負う人気の芸者だってのにもったいないよ」


 巴は正直な思いを漏らしつつも表情は暗い。

 今深河ふかがわでは、人気の芸者が夜道で襲われる事件が続いていた。

 襲われた芸者は命こそ奪われなかったものの、まるで魂が抜けてしまったかのように、眠って起きてを繰り返すだけになっているらしい。

 最低限の生活はできているらしいが、芸者としてまったく使い物にならない。


「出回ってる薬だけでも頭が痛いってのに、虚神憑うろがみつきなんて冗談じゃない。さすがに寺社奉行に届けようって寄り合いでも話し合われていてね。それまでは頼むよ」

「そうはいっても、寺社奉行の虚神うろがみ狩りがここに来るのか」

「あんまり言っとくれるなよ。あたしだってあわよくばって感じなんだから」


 岡場所は、ご公儀からのお目こぼしで営業している非公認の遊郭だ。

 寺や武家の敷地を縄張りとする寺社奉行所と町の治安を守る町奉行所の管轄が複雑に絡み合い、お互いが不可侵でいるために、深河は営業を続けていられる。

 しかし、こうしてひとたび事件が起きれば、叩けば埃が出る身である以上、なかなかご公儀の助けを求めにくい。


「だからね、昼間の内に町の術者に頼んで、魍魎もうりょう避けの結界札と虚神避けの護符を書いてもらってきたのさ。うちの子たちに持たせようと思ってね」


 巴は自慢げに柱にぺたりと貼られている札を指さした。

 濃密な情念がたまりやすい岡場所では、虚神うろがみの原因となる魍魎が湧きやすい。

 さらに心にうろを開けやすい芸者や客が多く集まるために、虚神憑きを出さないために、民間の術者が火避けや水難避けと共に魍魎避けの札を売ることはままあった。


 みみずがのたくったような文字と文様が躍るそれは、傍目から見ると霊験あらたかそうに思えたが、平蔵は気が乗らないながらも言った。


「たぶん騙されてるぞ、ぼったくられてねえか」

「今はやりの術者だったのに、そんなわけ……」


 一笑仕掛けた巴は、さやが部屋の隅を見つめているのに、真顔になる。


「おさやちゃん、もしかして見えるのかい」

「もうりょう、よどんでる」


 さやの視線の先にはどぶの底にたまる泥のような、黒いものが鈍くのたくっていた。

 平蔵にも、裏口から入ってきたときから見えていた。


 町の路地の暗がりでも、容易に見いだせるものだが、岡場所で見つけるそれはより粘度が高い気がする。

 しかし、本来この世あらざるものである魍魎は、現世うつしよの者に認識されるには弱すぎて、多くの人間には見えないものだ。


 術者でもない平蔵が見えるのは珍しい部類に入り、言っても信じられることの方が少ないため、己に危害が及ばない限り放置するのだが。

 あちらの住人でと称される幼子のうちは見える者も多いため、巴はさやの言葉を受け入れたらしく、たちまち般若の形相になった。


「くっそ、かび臭い嫌な気分が抜けないと思ったんだよ。値切ったとたん、手を抜きやがったねあのえせ陰陽師。あとでとっちめてやる」


 平蔵は値切ったせいじゃないかと思わないでもなかったが、雇い主の矛先がこちらに向くのはよろしくないため、口をつぐんだ。


「そうだ、いいこと考えた! おさやちゃんもうちで働けばいい。魍魎がよどんでる場所を教えとくれ」

「おい勝手に」

「報酬はそうさね、これでどうだい?」


 平蔵が異を唱えるのを無視して、その場から離れた巴は戻ってくると、さやの手のひらにあめ玉を一つ落とした。

 つやつやとした琥珀色に輝くそれはそれなりに高価なものだったが、魍魎が見えるという特技を買うにはみみっちい。


 だがさやは、てのひらに落とされたあめをまじまじと見つめると、巴を見上げた。


「さやもはたらいたら、へーぞーといていい?」

「もちろんさ。なんて言ったって仕事だしね」

「なら、やる」


 あめ玉を口に含んでもごもごとしはじめるさやに、巴はにんまりとした。


「さあ、あたしから芸者衆には言っとくからね。きりきり働いておくれよ」


 見事に懐柔されたさやに、平蔵は無性に煙草が吸いたくなったのだった。


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