人魚は歌う

増若布

第1話

  人魚は歌う

      

 

 ありがとうございました、とまとまりのない挨拶をし、めいめいが席から立って音楽室を出ていく。「給食だ」とか「やっと授業終わった」などという気の抜けた会話がちらほらと聞こえてくる。かくいう俺も椅子から立ち上がり、伸びをしながら部屋から出ようとした。

「一ノ清くん、ちょっといいかしら」

「はい」

 素直に返事をして振り返ると、音楽教師である宇田先生が手招きをしていた。俺は駆け寄りこそしないが、急ぎ足で彼女の元に行った。

「今回の授業は助かったわ。ありがとうね」

「いえ、そんなたいしたことじゃ」

 そんなことないわ、と先生は目尻に皺をつくってにこりと笑った。もうとうに四十は越しているだろうに、この笑顔のためだろうか、若々しさを感じる。

「このクラスで、一ノ清くんしかピアノ弾けないでしょう。だからあなたにしか伴奏頼めなくて」

「あんな拙い伴奏でよければ」

「拙くないわ、とっても上手よ」

 表情から窺い知ることは出来ないが、きっと心の中では大してそう思ってもいないだろう。あくまで想像であり実際のことではないのでわざわざ口に出して責めたりはしないけれど。

「あ、それでね、一ノ清くんに頼みたいことがあって」

「なんでしょう」

「さっきの授業で歌のテストしたじゃない、それで一ノ清くんに伴奏してもらったわけだけど。今日欠席した人は来週の火曜の放課後に追試をするって前もって知らせていたけど、その日私出張入っちゃって。来週、私の代わりに伴奏頼めたりとかする?」

「伴奏、はいいですけどテストの採点とかは」

「適当にコメントを紙に書いてくれれば大丈夫よ」

「ええ……」

 さらりとすまして言うので、自然とあきれた声が漏れ出てしまった。たまにこの先生は突拍子もなく荒っぽく、というか適当になるのだ。

「というよりもねえ……」

 先生は、蓋の閉じられたグランドピアノの上に無造作に置かれている俺のクラスの出席簿をちらりと見た。それから顔を上げ「お願いしてもいい?」といつもの優しげな笑顔でもう一度頼んできた。

「はい」

 腑に落ちない点は色々あったが、それよりも空腹のために今にも鳴りそうなお腹が気になっていたので二つ返事に引き受けた。


 深爪気味に切られた指の先を撫でる。目の前の鍵盤には触れず、ただじっと見つめる。

 今は火曜日の放課後である。つまり歌のテストの追試の日。自分で言うのも何だが俺は真面目な性分なので、約束をすっぽかさず律儀に音楽室に来て追試を受ける人を待っていた。

 待っているのだが、その肝心の本人は一向に姿を現さない。指定された時間からとうに三十分近くたっている。忘れているのだろうか。それともわざと来ないのだろうか。

 そもそも、誰が来るのだろう。一週間前に音楽の授業を休んだクラスメイトは誰だったろうか。

 ギイッと鈍い音がして、音楽室特有の分厚くて重い扉が開く。やっと来たか。俺は扉のほうに目を向けた。そして少し目を見張る。

 一度も話したことのないクラスメイトだった。顔と名前はかろうじて知っているが、それしか知らない。勉強が得意だとか、運動が出来るとかの大雑把な情報も耳に入ってこないような人物。

「遅かったな、忘れていたか。それとも具合でも悪かったのか」

 そう声をかけると、初めてその人物はずっと伏せていた顔を上げた。そして驚いたように目を見開いたかと思うと、悲しそうに眉根にしわを寄せた。

「……」

 その人物は無言で首を振った。どちらも違うらしい。ではずる休みでもしようと思っていたのだろうか。まあ結局来たのだから特に咎めなくてもいいだろう。

 その人物、恵藤桜乃は無口な男子だった。言葉通りの無口。誰かと話しているところを一度も見たことがない。付き合いが悪いというよりは、人と関わるのを苦手としているようだった。

 彼は扉を背にして、一歩も動かずそこに立っていた。俺はため息をつきたくなるのをこらえ、彼に向かって「こっちへ」という言葉とともに手招きをする。

「今日はピアノのレッスンがあるんだ。早めに終わらせてくれると助かる」

 彼は躊躇うそぶりを見せると、どこか観念した様子でそろそろと俺のほうに、ピアノの傍に近よっていった。俺は一つ頷き鍵盤に指を載せる。

「審査員が俺で申し訳ない。先生が出張に行くことになったからな。歌う曲は分かるか?」

 こくり、と彼が頷いたのを確認し、俺は曲の前奏を弾き始めた。弾きながらも、彼は果たして歌うのだろうか、という疑問に頭をもたげさせながら。

 もう少しで歌に入る。俺は少し投げやりな調子でピアノの鍵を叩いていた。

「青い風に吹かれて」

 指が止まりかけた。この音は一体なんだ。

「明日を思うぼくらがいる」

 彼を見ることが出来なかった。彼を見れば、きっと俺の伴奏が止まってしまうから。

 止まるのではなく、止めてしまいそうだった。

 自分の伴奏がこんなにも耳障りに思ったことは無かった。今この場で一番不愉快な音だと思った。

 それほどに、彼の声は、歌は俺を圧倒した。

 中学二年生にして彼の声はまだ声変わりを迎えていなかった。それゆえに女子のように高い声は、女子のように、いや女子よりも艶やかで伸びのあるものだった。

 しかし声も確かに美しいが、その歌い方が素晴らしかった。彼はまるで自分が、人がどうやって喉を、身体を使えば美しい歌を紡げるのか知っているように感じた。

 俺は自分が出来る精いっぱいの丁寧な指使いで鍵盤を叩いた。それに合わせてだろうか、彼の歌はさらに張りのあるものになる。

 まだ聞きたい、終わらないでくれ、そう思いながらピアノを弾き続ける。

 そしてついに彼の歌が終わり、後に続くように自分の伴奏も終わった。

 俺はすぐにピアノから手を離し、出来る限りの大きな拍手をした。

「すごい! 素晴らしいな! 上手いな!」

 彼がびくりと肩をすくめるのを見て、俺は拍手の音量を下げた。彼はおどおどした様子でこちらを向き、俺のことを見た。

「……気持ち悪いって思わない? 女の子みたいな声じゃない?」

「ああ、そんなの誰が思うか。少なくとも俺はお前の歌すごくいいと思うぞ」

 女の子みたいな声、は正直思ってしまったが、余計なことは言わずにただひたすらに褒めた。彼の瞳が揺れるのが分かった。

「僕、あの、ごめんなさい。本当は一回家に帰ろうとしたんだ。でも罪悪感が酷くて」

「気にするな。時間に遅れたとはいえ、結果的に来てくれたじゃないか」

「でも、ピアノの稽古が」

 俺は壁に掛けられてある時計を見やった。あと三十分弱でレッスンは始まる。学校から直接行けば、十分足らずでピアノ教室には着く。

「大丈夫、そんなに切羽詰まってない。むしろ焦らせてすまん」

 彼は目を丸くして俺のことを見つめた。彼の目は俺の大きくない目の倍はあるかと思うほど大きかった。そんなに目を見開いていると眼球が落ちてしまうのではないだろうかなんていう非現実的な心配をしてしまう程に。

「やっぱり大人だね、一ノ清くん」

「どうだろう。爺臭いとは思っているが」

「喋り方がかっこいいよ、語尾に『だぜ』とか付けないでしょ」

「付け方が分からない。俺は一ノ清だぜい、とか?」

 彼はぶふっと吹き出した。その時初めて彼の表情が変わるのを見た。

「だぜいって。なんで語尾伸ばしちゃうの」

「ちょっと江戸っ子感を出してみた」

「それおじいちゃんより前じゃない? 悪化してるよ」

 彼は口元を抑えながらクスクス笑っていた。俺もつられて笑みがこぼれる。

「それにしても、恵藤は本当に歌が上手いんだな」

 彼は笑った顔をすぐに戻せないのか、半笑いのまま「ありがとう」と言ってきた。

「あんまり面と向かって言われたことなかったから嬉しいな」

「そうか? むしろ聞いてそう思わない奴はおかしいと思うぞ」

 そう返すと、彼は嬉しそうにはにかんだ。本来は表情豊かなのかもしれない。

 俺は再び時計に目を向けると、流石にそろそろ音楽室を出なければいけない時間になっていた。

「もう出ないといけない時間になった。申し訳ない。ああ、歌の評価は俺が付けて先生に提出する」

「うん」

 俺は慣れた手つきでピアノを片付けて、部屋を出ようとした。

「恵藤も帰るか? それなら途中まで一緒に帰らないか」

 そう聞くと、彼はもごもごと口を動かして「ごめん」と小さな声で謝った。

「用事があって」

「そうか、分かった。じゃあ気をつけてな」

 俺は彼に向かって手を振ると、彼はまたこれでもかと目を見開き、俺のことを見た。

 彼は手を振る代わりに、届くか届かないかという声量で「今日の伴奏、とってもきれいだったね」と言った。

 俺はその言葉が堪らなく嬉しくて、口の中で転がすように「きれい、きれいか」と呟いた。


「彼、とても歌が上手でした」

 少し誇らしげに宇田先生にそう告げると「そうでしょう」と彼女は微笑んだ。

 なんだ、周知の事実だったのか。音楽教師である彼女が彼の歌を知らないはずが無かっただろうに、てっきり俺だけが知っているのかと勝手に思い込んでいたので少し不満だった。

「私も実際に聞いたときは、伴奏の手が止まってしまうかと思うほど驚きました。彼はやはり頭一つ飛びぬけていますね」

 彼女の言葉にところどころ違和感があったので首を傾げ彼女を見る。

「やはり、とは」

「彼、全国規模の声楽のコンクールで準優勝になったことがあるんですよ。結構前でしたが」

「コンクール!?」

 彼がコンクールに? あの気の弱そうな彼が全国という大きな舞台で歌っている姿ですら想像できないのに、しかも、準優勝?

「大分音は割れていましたが、動画越しで初めて彼の歌を聞いたときは感動よりも疑問のほうが大きかったです。本当にこの子は、自分と同じ人間という種族なのだろうか、と。大げさかもしれませんけれどもね。目を瞑りアメイジンググレイスを紡ぐ彼の声は、さながら天使の歌声のようでした」

 彼女はうっとりと目を閉じて彼の歌に思いを馳せていた。今の年齢よりも前に外国語の歌を歌えることも衝撃だったが、それ以上に気になることがあった。

「これ、他の人は知らないんですか?」

「私は音楽教師だから、よくそういう動画を見るんだけど。人からの噂じゃなく自分で知りました。だからまさか彼がこの中学校に来るなんて」

「動画にも出ているくらいなら、結構有名じゃないんですか? それに全国規模ですよ? もっと有名になってもおかしくないと思いますが」

「こう言っては何だけれど、全国規模とは言ったもののそこまで有名なコンクールではないのよ。それに彼、ひけらかすようには見えないし」

 あの声が、あの歌が理解できない人なんているのか。一度でもあの歌を聞けば、忘れるはずなんてないと思うのに。

「言葉って、本当に声に出さないと広まらないものね」

 きっと彼女の言ったその言葉に深い意味はないのだろう。それでも彼女の一言は、しばらく俺の耳にべっとりとくっついて離れなかった。


 俺は恵藤の歌を聞いてから、時々彼のほうへ注意を向けるようになった。彼のことを観察していて気付いたことがある。驚くべきことに、本当に彼は誰とも言葉を交わすことは無かった。ただの一度もだ。言葉を交わすどころか声すら発さない。例えば、数学の授業で指名されたときなどは、ただ首を振って答えることを拒否していた。教師のほうも勝手を知っているのか、頑なに答えないことを責めたりすることはなかった。

 いじめられているわけではない。そもそもクラスメイトは彼の存在を認知しているように見えなかった。そして別に彼もそのことについて悩んでいるようには見えなかった。

 あの日、火曜日の放課後、俺が聞いたあの天使のような歌声は幻だったのだろうか。そう思えるぐらいに、日常の彼の様子は不確かなものだった。もしかしたら、本当に天使だからかもしれない、なんて。

 俺は暇さえあれば彼のことをぼうっと見つめていた。暇さえあれば、なんてものではなかったかもしれない。半ば意地のように、半ば熱に浮かされたように、ずっと彼のことを見ていた。だから必然的だったのかもしれない。

 いつかの日、彼の、どこに焦点を定めているかわからない視線が、ふいとこちらに向いたのだ。

 人の瞳に光が灯る瞬間を初めて見た。

 俺ははっと息を飲み、その息を殺して視線を返す。彼の、あの大きな目が見開かれる。

 と思った瞬間には、彼はふいと視線を変え、教室の窓の外に意識を向けたようだった。

 俺はしばらく彼のその姿を目に焼き付けるようにして見てから、机の上に覆いかぶさって寝たふりをした。


 音楽の授業は週に一回しかない。ましてや歌のテストなんて一年に数回あるかないかだ。

 あの日からだいぶ時が過ぎていた。二年生も終わりに差し掛かっているが、俺と彼が話したのは一年のうちであの一回しかなかった。

「前々から予告していましたが、学年最後の成績をつけるため、今日は歌のテストをしたいと思います」

 宇田先生が朗らかにそう言うと、ええ~という不満を挙げる声があちこちから上がった。俺は周りを見渡し、人知れず膝の上で拳を堅く握る。

「そんなに不満そうにしないの。じゃあ一ノ清くんには伴奏頼んでもらっていいかしら」

「はい」

 俺は優等生らしく快く承諾した。あとで先生に優等生らしからぬわがままを言うつもりだったので、せめてもの罪滅ぼしにと爽やかに笑った。

 慣れた手つきでピアノの蓋を開ける。椅子に座る。前奏を弾く。恥ずかしそうでやる気のない小さな歌声が聞こえてくる。

 まるで羽虫の羽音のようだと酷いことを考えながら、俺はひたすら伴奏を弾き続けた。


 いつになく気合を入れて伴奏の練習をする。ここは抑揚をつけよう、盛り上がりは必要だろうか、やはり前奏が肝心だな……。

 練習に気をとらわれていて気付かなかった。音楽室の重い扉が、ギギィ、とゆっくり開いていく。俺は扉が開く音に気づき、顔を俯かせて部屋に入ってきた彼に親しげに声をかけた。

「恵藤」

 ハッと息をのむ声が聞こえた気がした。実際に彼は緊張したようにブルリと身震いをさせただけだった。俺は手を招いたりせず、いきなり伴奏を弾き始めた。視界にはっきりとは映らなかったが、彼が急いでピアノの近くに駆け寄ってくるのを感じた。

「わたしは今どこに在るのと」

 今まで歌詞の意味なんて考えたこともなかった。未熟な若者が、進む道が分からなくて途方に暮れている姿が自然と思い浮かぶ。

「ひとりになるのが恐くてつらくて」

 彼は、いつもひとりぼっちの彼はその美しい歌声を響かせながら何を考えているのだろう。それとも、歌詞の意味など考えたこともないだろうか。

「声を挙げてわたしを生きていくよと」

 歌っているときの彼は、一体どんな表情をしているのだろう。そう考えながらも、俺は鍵盤から目を離さない。美しい歌声に鳥肌が立つ。あまりの凄まじさに、意識が持っていかれないように、指に力を籠める。

 顔を見なくても分かる。声で分かる。歌だけで分かる。彼は、きっとどんなことよりも歌うことを愛しているのだ。他に何もなくても、歌があるから平然とできるのだ。

 いつの間にか歌も伴奏も終わっていた。俺は鍵盤から指を離し、ピアノの傍に立っている彼のことを見る。

 彼は恥ずかしそうに頬を掻きながら、チラッとこちらを見て、心底幸せそうに笑った。


 俺と恵藤は実におおよそ数か月ぶりに話した。うぬぼれかもしれないが、俺と話しているときの恵藤の表情は、今まで見た中で一番明るいものだと思った。

 もうすぐ春だからか、恐ろしい位に早く感じた日の入りも、だんだんと落ち着いた時間帯に戻ってきた気がする。俺と恵藤は音楽室の床に座りこみ、まだ十分に青い空を窓から眺めていた。

「数か月ぶりに聞いたが、やっぱり上手いな」

「ありがとう。一ノ清くんは沢山褒めてくれるね」

「褒めてる、というより事実だからなあ。俺は、まあピアノは弾けるけど歌はからっきしだから」

「そうなの? ちょっと聞いてみたいな」

 彼は、パチパチとまばたきをし、期待したような目で俺のことを見た。いや本当に歌うことは苦手なんだが。俺は「ええー」とおどけたような声を出して話を流そうとしたが、彼の純度の高い瞳を真正面から受けてしまったため観念してしまった。彼から目線を外し、咳払いを一つして小さな声で歌を紡いだ。

「……あーおいーかーぜにーふーかーれてー」

 歌ってから「うわあ」と思った。実際に「うわあ」と声にも出してしまった。

 クラスの連中のほとんどの歌声が羽虫の羽音のようだと揶揄してしまったが、俺も人のこと言えないよな。正直羽虫にも謝ったほうがいいぐらいに酷い。

「な、酷いだろう」

 彼は小首をかしげて俺を見ていた。表情がイマイチ読み取れず再び視線を外す。

「でも歌ってくれるんだね」

 お世辞は言われなかった。しかし明らかに嘘だと分かる言葉よりも、俺は彼の別の角度から見たような言葉のほうが好ましいと思った。嬉しそうな表情で呟かれた言葉は、湧き出るお湯のように心をみるみる満たしていく。

「ピアノを習ってるのって、そういう理由で?」

「いや、ピアノは物心ついてないときから習ってるな。気づいたらすでにピアノに触れてたというか」

「そうなんだ」

 ピアノ習ってるのってかっこいいよね。どうだろう、人柄とか見た目にもよるんじゃないか? そうかな、だってモーツァルトとかって変な髪形してるじゃん。モーツァルトってかっこいいか?

 確かに彼は教室でひとりぼっちだったが、俺も大概そうだった。話すような間柄の者はいたが、どんな話題も自由に話せるような仲では到底なかった。俺と恵藤は、偶然ピッタリとはまったジグソーパズルのように変に相性が良かった。

「僕、いっぱい質問しちゃったから、一ノ清くんも僕に何か聞いていいよ。何でも」

「何でも?」

 なんだそれ、と笑いながら彼のことを見ると、存外真面目な顔をしていた。だから俺は彼の意図を察し、手探りをするように一つのことを尋ねた。

「コンクールに出たことあるって本当か?」

 彼はそのままの表情で縦に頷いた。そしてその顔のまま話し出した。

「ほんとにずっと前のこと。小学校の半ばくらいだったかも。もともと歌うことが好きで、物心ついたころから毎日飽きずに家で歌ってたんだ。そしたらお母さんが僕のことを声楽教室に入れて。まあお母さんは軽い気持ちで習い事をさせてあげようって思っただけだろうけど」

 彼は祈るように両手を組んでいた。そしていきなりその手をパッとほどいたかと思うと、また組んだ。彼の一つの癖なのだろう。

「すっごい厳しい先生に教えてもらった。教えてもらったっていうより、ほぼ叩き込まれた。嫌いじゃなかったけど、ついてくのが大変だった。歌を趣味じゃなくて、特技に無理やり変えるような教えかただった。でもやっぱりすごい人だったんだよ。彼女のおかげで僕はありえないような成果を上げることが出来たんだから」

 確かにその先生という人もすごいのかもしれないが、彼に元々才能があったからそんな偉業を成し遂げられたのだろうと思った。例えて言うならば、一流シェフが作った料理を美しい皿に綺麗に盛り付けた程度のことだろう。少し言い過ぎかもしれないが、彼のあの歌は努力で身につけられるものではない。

「もう一つ聞いてもいいか」

「何?」

「今はもう公の場では歌わないのか?」

 うーん、と彼は困ったような笑顔で笑いながら答えた。

「分からない。今は確かに歌ってないけど、正直僕のとりえって歌ぐらいだからさ、せっかくだから特技はいかしたいかな」

 俺は頷いて「いいと思う」と返した。妥当だと思う。歌だけが取り柄だなんてことは思っていないが、彼の綺麗な歌を知る者が少ないのはあまりにももったいないことだ。

「でもさ、でも、僕あんまりコンクールとかで歌うの好きじゃないんだよね」

「そうなのか?」

「うん。あんまりいい思い出がないから」

 大したことじゃないけど、と付け加え彼は言った。

「『こんなに小さいのに準優勝なんてすごいね!』って沢山の人から言われたんだけど、そう言う人たちはみんな笑ってなかった。いや、確かに笑ってたんだけどね、無理矢理張り付けたみたいだった。で、みんなの目を見ると、なんでかな、僕のことをすごく嫌そうに見ているのを感じたよ。そのときから誰かと目を見合わせて話すことが苦手になった気がする」

 でも実際に嫌なことを言われたことがないから、気のせいかもしれないけどね、と彼はウフフと笑った。俺は笑わなかった。

 きっと気に食わなかったのだろう。こんなに小さな子供が、信じられないくらい綺麗な歌を紡ぐものだから。自分には到底得られないようなものを、彼自身は努力もせずに元から持っていたのだから。

 自分が同業者じゃなくても、妬ましいのだろう。例えば、テレビの特集で「天才キッズ」みたいなのがあって、すごい技を持ったませた子供たちが「こんなの大したことないよ」と小鼻を膨らませるのを画面越しで見ているような気になるのだろう。変なたとえかもしれないが、多分これが一番近い。小さいころから練習していれば当たり前のことだろう、そんなことが出来るのはそもそもお前の親が金を持っていて環境を整えることが出来たからだろう。

 お前が生まれたころからそんな能力を持っていたから、それはお前自身が偉いわけじゃない。大したことのない俺たちは、ただ無様に才能をけなし、それでも結局羨むことしかできないのだ。

「実はね、褒められることもそんなに好きじゃないんだ」

 彼はキョロリと目を動かして言った。俺は物思いから覚め、「えっじゃあなんかすまんな」と変にぎこちない言葉を返した。

「本当の意味で褒められたことがないから。もちろん、お母さんとかお父さんは褒めてくれるけど、親から褒められるのって、なんていうか……。贅沢かもしれないけど当たり前だと思っちゃうんだよね」

 本当に贅沢だとは思うが、彼の場合常に褒められるのだろう。常に得られる幸せは、いつかは必ず慣れてしまうものだ。俺は口を挟まず頷いて聞く。

「だから、一ノ清くんが初めて。僕、他の人から褒められて心底嬉しかったの、一ノ清くんしかいないよ」

 俺は多分酷く間抜けな顔をしていたのだろう、彼は俺の顔を見て吹き出し、必死に「違う、今のくしゃみ」とごまかしている。

「あんまり笑わなくて、表情が変わらないからかな、それでも、顔を赤くして必死に拍手して褒めてくれるから、すごい嬉しかった」

「……ちょっと失礼だぞ」

「え……? あ、待ってごめん! 違う、一ノ清くんクールだから」

「いいよ」

 なぜか救われたと思った。確かに、彼の歌に伴奏をつけているとき、羨ましいとかのさもしい感情ではなく、幸せだという感情のほうが大きかった。

 こんなに素敵なものに、手を加えることが出来て嬉しい。あの時、伴奏をしているときは一種の快感じみたものでいっぱいになった。

「多分俺も恵藤が初めてだよ」

 意味の分からない言葉に彼は首を傾げた。俺は眉間に皺をつくっている彼に笑い、「ありがとうってことだ」と言った。彼はさらに不思議そうな表情をした。

「嫌ならいいんだが、アメイジンググレイス歌ってくれないか」

「もしかしてあの動画見た?」

 二日に一回の頻度で見ている、とはわざわざ言わず、「ああ」と頷いた。

「うわあ、恥ずかしい。もしかして宇田先生から聞いた? それにコンクールのことも宇田先生からだよね」

「まあな」

「もう、言わないでって言ったのに……」

「クラスの前で歌わないのって、恥ずかしいからか?」

「それもあるけど、一番は目立ちたくないからかなあ。小学校のときに、音楽の授業で歌うと必ず陰でこそこそ話されて、会話の内容は聞いてないけど、あんまりいい気持ちしなかったから。それに中学二年にもなってソプラノだなんて」

「……本当だ、恵藤お前ソプラノパート歌ってる!」

「今気づいたの!? ていうか前も僕ソプラノ歌ってたんだよ?」

「そして本当は歌のテストは一番のみ歌えばいいってことを言ったら……?」

「一ノ清くん前回も今回も全部歌わせたね!?」

 今目の前で取り乱している彼は、教室では絶対に見ることが出来ない。俺は笑いすぎて滲んだ涙でぼやけた視界で、必死に彼の姿を焼き付けようとした。

「もう、アメイジンググレイス歌わないよ!」

「歌うつもりではいてくれたんだな」

 彼は照れ隠しなのか喉の奥でぐうと唸り、「……伴奏ってできる?」とそっぽを向いて言った。

「弾けるぞ」

 この時のために半年前から練習していたと言えば、彼は引いてしまうだろうか。

 前奏を弾いているときに、顔を上げて彼のことを盗み見た。

 彼は、動画で見たときと同じように目を瞑っていた。


 一度だけ、教室で目が合ったことあったでしょ、あの時はごめんね。びっくりして。嫌な思いさせてたらごめん。

 あの時、アメイジンググレイスを歌い終わった後に、彼が申し訳なさそうな顔で言った言葉を思い出す。

 俺たちは一つ学年が上がり三年生になった。奇跡的か、まあ偶然というか、俺と恵藤は同じクラスになった。だからといって「同じだね」と人目をはばからずに喜ぶようなことはしなかった。ただ、新しいクラスに入った時、先に席に座っていた彼と目が合い、他に気づかれないよう互いにニヤリと笑った。それだけだ。前のクラスと同じよう、俺たちは誰かのいるところで仲良く話したりしなかった。時々、人気のないところでたまたまばったり会った時に少し話す程度。

 でも近頃はそれすらもなくなった。というか彼の様子がおかしいのだ。周りは全く気付いていないが、彼のあの大きな瞳に深い闇が映るようになった。以前は、どこかおどおどとしていたが、決して負の感情は抱えていなかったというのに。

 ポロンポロンと適当な曲を弾く。弾きながら彼のことを待つ。

 二回も彼の歌のテストの点数をつけたからだろうか、宇田先生から「これからも一ノ清くんに頼もうかな」と言われた。もう彼の歌がうまいことは分かっているから、そして再テストをするのが案外面倒だからと言われため息を漏らしそうになっていると、「きっと彼も私より一ノ清くんの伴奏で歌いたいと思うのよ」と微笑まれた。咄嗟に否定したが、そうだといいな、と思った。

 今回で三年生での歌のテストは終了だ。受験生だからという理由で、主要科目でない授業は二学期に終わるのだ。

 今日で彼の歌は聴き納めだ。もしかしてテレビとかで耳にすることが出来るかもしれないが、生で聞くことが出来るのはこれが最後だろう。

 ガチャリ。あれこれ考えているうちにどうやら本人が来たようだ。いい機会だから、今日は久しぶりにゆっくり彼と話そう。この後塾があるが、一日たりとも休んだことがないので、今日ぐらい遅れて行ってもいいだろう。

「遅かったな。まさか、ずる休みでもしようと思ったか?」

 俺はおどけたようにそう言った。しかし返事は返ってこなかった。初めてまともに話したときのことを思い出すな、俺はのんきにそう考え、伴奏を始めた。

 このピアノに触るのもきっと最後だ。

「えーぞはーるーにーふゆのーひがーあたるー」

 俺は、俺たちは失念していた。俺は鍵盤から顔を上げ彼のことを見る。

 初めて動画越しでない、歌っているときの彼の表情を見た。彼はただ静かに、口以外の顔のパーツを動かさず歌っていた。目は閉じられていた。

 そして彼の首の中央にある喉仏を見て、天使が堕ちないという確証はないのだ、と酷く下らなく当たり前のことが、半紙に付いた墨のように脳裏に広がっていった。

 俺はいつもと同じように、一番だけでなく、曲の最初から最後まで弾ききった。ピアノから手を離し、声をかけずに彼を見つめる。

 彼は何を考えているか分からない表情で、視線を返した。

 と、彼の木の皮を剥いたように白く細い腕が、だらりと力を抜かれた。

「歌えなくなっちゃった」

 ところどころひっくり返ったような不安定な声は、確かに子供のものではなかった。でも、彼の声は迷子になった子供のような純粋な悲しみを帯びていた。

「僕の声じゃない」

 俺は叫んでいるような囁き声に堪らなくなり椅子から立ち上がる。

「あー、あー、あー」

 やめてくれ、大丈夫だから。俺は正反対の性質の爆弾を抱えたような気で彼に駆け寄っていった。彼は教室でよく見るようになった、あの闇のように苦しい瞳で俺のことを見た。

「どうしよう」

「大丈夫だ」

「大丈夫? これ、元に戻るの?」

 残酷な答えなどできるわけがなかった。彼は、まばたきをせずに空を見つめる。

「えーぞはーるーにー……」

 あっという間もなく、みるみるうちに彼の瞳に涙が盛り上がる。

 子供のような泣き声を聞いたときに初めて俺は安心した。

 声変わりが始まっても、大人になりかけても、やっぱり根本的なところは変わらないのだ。

 あの時と同じように俺たちは床に座り込んで窓から空を眺めていた。これから冬に向かっていっているため、昨日よりも日が短く感じる。それでもまだ空は青く透き通っていた。

「最近元気ないなとは思ってたが」

「うん」

 彼は俺が先ほど音楽室の近くにある手洗い場で濡らしてきたハンカチを目に当てていた。

「考えてみれば当たり前のことだったのにね。なんでこんなに取り乱しちゃったんだろう。いつかは来るはずのことなのに」

 ね、と言われ頷く。彼はスンと鼻を鳴らして続けた。

「一か月前くらいから、喉の調子がおかしくなったんだ。風邪かなって思って喉を温めたりしたんだけど、全くよくならなくて、むしろどんどん声が掠れていって。心のどこかでは分かってたんだけど、もう自分の声が思い出せなくなった時、怖くて怖くてたまらなかった」

 俺と彼は違う。というより周りと彼が違う。単純な人間は変化を喜ぶのだ。それがいいことでも悪いことでも。しかし彼は確固たる物を、変えてはいけないと思ってしまっている物を持っていたから、それが粉々に砕け散った時耐えられなくなってしまったんだ。

「僕には歌しかないんだ。あの声しかなかったんだ。この声が、最終的にどんなものに変化を遂げるのか、全く分からない」

 彼は下腹部を撫でた。その動作が結構艶めかしく、俺は視線をずらした。

「歌うことを生業としていた昔の人って、声変わりしないようここを切り落としてたんだって。僕も、それぐらいしないとだめだったのかも」

「恵藤」

 俺は低い声で彼の名前を呼んだ。彼の肩がびくりとすくむのが分かった。

「お前の声は、そこまで価値のある物じゃなかったぞ」

 俺はナイフで心臓をつくようなイメージで彼に言葉をぶつけた。彼の顔を見るのが恐くて、うつむいて続けて言う。

「確かにお前の声は綺麗だった。正直女子みたいに高い声だって思ったこともあった。男子にしてはなかなか無い声だったとは思う。それでも、性別関係なく世界中を探せば千人くらいはいるぞ、そんな声」

 膿んだ傷口に塩を塗りこんでしまった。もうどんなに頼み込んでも、彼は一生俺の伴奏で歌うことは無いかもしれないな。それでも俺は言葉を止めることが出来なかった。

「いつか変わってしまうものをそんなにみっともなく恋い焦がれるな。無いものは無い。それとも恵藤、お前は声で歌の質が決まると思っているのか?」

 彼の、あの零れ落ちそうなほど大きな瞳に射抜ぬくように見つめられているのを感じた。

「俺はお前の声を褒めたんじゃなくて、歌を褒めたんだぞ」

 そこで初めて、俺は顔を上げて彼のことを見た。彼は嗚咽をこらえるようにウウと唸り、それでも瞳からはぽろぽろと涙が、一粒二粒と頬を流れていった。

「……すまん、言い過ぎたな」

「違う、違うよ」

 彼はため息をつくようにアアと息を吐き、湿ったハンカチに顔をうずめた。

「嬉しいんだ。こんなにも僕のことを思って激励してくれたことが」

 彼は俺と話しているときによく見る、それ以上に楽しそうな笑顔で泣く。

「一ノ清くんは、声変わり終わるのにどれくらいかかった?」

「俺は一年近くかかった、と思う」

「分かった」

 彼はハンカチで顔を拭き、立ち上がった。

「僕、どんなに変な声になってもやっぱり歌うことしか出来ないからさ。ずっと歌うよ。ただ、今はお休みする期間だ」

 彼の掠れた声は、もう子供の声には聞こえなかった。それがなんだか寂しくあり、それ以上に嬉しく感じた。

「ありがとう、一ノ清くん。本当にありがとう。僕、君に出会えてよかった」

「そういう言葉は、可愛い女の子にとっておいたほうがいいぞ」

 俺はわざとらしく「うげー」と言うと、彼もわざとらしく頬を膨らませた。

「それに、色々偉そうなこと言ったが、俺はそこまで立派な奴じゃないんだ」

「一ノ清くんは可愛い女の子にしかそんなこと言わないの?」

「その話まだ続いてたのか」

 そんなことないぞ、ただ言うのが恥ずかしいだけで。俺は、彼と話していると口に出さない言葉がどうにも多くなる。

「一ノ清くん」

「なんだ」

「だいすき」

 彼は甘えたような声を出してそう言った。他のクラスメイトの男子に言われたら鳥肌が立つだろうそんな言葉も、彼に言われるとただただ心が温かくなるだけだった。

「はいはいよしよし」

 それでもやはり俺は子供だったから、きちんと言葉を返すのが恥ずかしくて返事の代わりに彼の髪をぐしゃぐしゃと強く掻き撫ぜた。

「やめてよう」

 笑う彼の目尻から、まだ乾いていなかった涙がゆっくりと頬を滑り落ちていった。





 約束していた時間よりも数十分ほど早く着いてしまった。俺はコートのポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開いて連絡の有無を確認した。「少し遅れるかも」というメッセージにため息をつきつつも頬が緩んだ。

「一ノ清くん」

 不意に後ろから声をかけられた。声から判断するに若い男性だ。男の俺でもどきりとするくらい、耳に心地よい低音だった。後ろ姿で俺のことが分かったのだ、確実に知り合いだろう。しかし俺の知り合いにこんなにいい声を持った男はいただろうか。

 とりあえず後ろを振り向いて声の主を見る。

「やっぱり一ノ清くんだ」

 誰だ、とぶしつけな質問は出来そうになかった。あまりにも澄んだ目で見つめられたから。

 ただ本当に見覚えのない男だった。肌は透き通るほど白く、背は高すぎず低すぎず、左右対称の整った顔。そしてどこか色気を含んだ低い声。女性なら一度はこんな男性と街を歩きたい、と思うような男が俺の名前を呼んだのだ。どこか浮世離れしたその男に変にどぎまぎし「ええと……」と口ごもった。

 高校の知り合いではないだろう。流石に三年間変わらないクラスメイトの名前は覚えている。ということは、小学校、中学校での同級生か?

 少々不躾とも言えるくらい穴が開くほどじっと見つめ、ある答えがキュッと蛇口を回すように一気に溢れた。

「恵藤か?」

 彼は、恵藤はみるみるうちに顔を輝かせ、嬉しそうに何度も頷いた。

「恵藤か、恵藤だな! 見違えたぞ」

 中学を卒業してからおおよそ二年がたっていたが、それまでの期間、彼の成長はめまぐるしいものだったに違いない。中学の頃の頼りない姿は見る影もなかった。あまり高いほうではない俺の身長はゆうに超しており、どことなく肉付きも良くなった気がする。健康的になった、というべきか。

 それでも、どこか儚げな雰囲気は漂っていた。俺は見違えたと思うと同時にやはり変わっていないなとも思った。

「久し振りだな、元気にやっているか?」

「うん、まあそれなりに。入った高校の合唱部が盛んでね、もちろん入部したよ」

「おお、いいな」

「一ノ清くんはまだピアノ習ってる? 僕また伴奏してもらいたいな」

「いや、ピアノは一年前にやめた。高校生活が案外忙しくてな」

 彼の明るい声とは裏腹に、歯切れの悪いような言い方でそう答えると、素直な彼は一瞬寂しそうな顔をした。それでもすぐに笑顔になり「そっか」と返してきた。心がチクリと痛む。

「でも本当に偶然。一ノ清くんはここで何してるの?」

「人を待っているんだ」

「しょうくん!」

 今度は高く弾んだ声に呼ばれ、やれやれといったように振り返る。口元がにやけないようにするのに必死だった。

「ごめんね、電車乗り間違えて……あれ?」

「え、ああ、中学の友達」

 彼女が怪訝そうに彼のことを見つめていたので紹介すると、「へええ……」と言ったきり黙り込んだ。きっとあまりにも格好良くてぼうっとしてしまったのだろう。俺は彼女がとられやしないかという恥ずかしい想像をし、そろそろ彼と別れようと思って声をかけようとした。

「すまんな、じゃあもう行くよ」

「うん」

 彼は何故か彼女のことを見て酷く傷ついたような顔をしていた。それでもそんな表情をしたのは一瞬だけで、すぐに笑顔になり「また会えるといいね」と言った。

「ああ、いつか歌聞きに行くからな」

 そう言うと、彼は少し首を傾けて、何か考え込んでいた。と思うと思わず見とれてしまうほど美しい身のこなしでコートから何かを取り出し、こちらに近づいてきた。

「おい、どうした」

 彼は流れるような動作で俺の両手を取り、ぎゅっと握った。

「いつか、じゃなくて必ず来て」

 感嘆するほど艶やかに微笑み、今度は「またね」と再び会うことが確定されたような挨拶を残して去っていった。彼の姿をぼんやり見送り、手元を見る。

 一枚の声楽コンクールのチケットが手に握られていた。


「ねえ」

「何?」

「しょうくん、どんな関係なの?」

「誰……ああ、さっきの。中学の」

 友達、それとも知り合い、どちらのほうが妥当なのだろう。悩んでいると、「桜乃様と中学一緒だなんて今まで知らなかったよ~」ととんでもないことを言われた。

 ぎょっとして隣にいる彼女のことを見つめると、「私桜乃様と高校同じなんだ」と笑顔で返された。

「ええ!? というか『様』って」

「すごくかっこいいでしょ。それに歌もとっても上手で、ちょっとしたアイドルみたいな扱い受けてるよ」

「恵藤が……アイドル……」

 恵藤が沢山の女子に囲まれて「サインください!」と叫ばれている想像をし、一人頭を振る。確かに今の彼ならあり得るかもしれないが。

「でも、私はそんなに好きじゃない。むしろ苦手というか怖い。あの人の別名人魚姫なんだよ」

「人魚姫?」

 せめて天使ではなく? 首を傾げていると、「人魚姫」と彼女は繰り返し言った。

「誰彼構わず魅了するような歌声なんだって。桜乃様の出るコンクールすっごく人気だから、高校でも歌を聞いたことのある人少ないんだけど、一度聞いた人は、もう桜乃様以外の音を受け付けなくなるんだって……」

「最後ダウト」

 バレた、と彼女は舌を出し笑った。俺もつられて笑う。そうか、彼は努力をしたのだ。素晴らしい才能も磨かなければ当たり前のように錆びてしまう。

「でも恵藤、桜乃様……慣れないな、合唱部に入ってるって。合唱だったら歌もはっきり聞こえないんじゃ」

「合唱部?」

 彼女は素っ頓狂な声を上げて「私の学校に合唱部は無いよ」とどこか気味が悪そうにそう答えた。


 人魚姫。人魚。

 昔の彼からは想像もつかないような呼び名だ。偏見かもしれないが、人魚という呼び方は、どこか差別的な、褒められたようなものではないように思える。

『いつか、じゃなくて必ず来て』

 でも、確かにあの瞬間の彼は、どことなく人魚のように妖艶だった気がする。

 歌声で船員の心を惑わし、船を難破させる美しい魔物。

「まだあの人のこと考えてるのー?」

 彼女がマイク越しに大声を出したため、キーンという耳障りな音がカラオケボックスに響いた。今日はもともとカラオケに行く予定だったのだ。

 俺は耳を塞いで「違うよ」と嘘をついた。彼女はため息をつき、電モクに次に歌う曲を慣れた手つきでポチポチと入れていった。俺は歌うことが苦手なのでもっぱらタンバリン役だ。

「さっきチケット貰ってたでしょ。多分それネットで売ったら結構な額になると思うよ。売っちゃったら?」

 曲のイントロが流れる前に彼女は早口でそう言った。俺はすぐに首を振る。

「いや、暇だし行くよ」

 彼女はふうんと気のない返事をし、曲のイントロが流れ始めるとそちらのほうへ意識を向けた。

 彼女にはこう言ったが、実際暇じゃなくても行くつもりだった。

 あの時と同じではないが、いやあの時と同じじゃないからこそ俺は彼の歌を聞かなければならないのだ。責任を持って。

 彼女の特別上手くもない歌にタンバリンでリズムを取る。タンバリンを叩きながら、そういえば前はこの手でピアノを弾いていたのだな、とふと思ってどうしようもなく悲しくなった。

「そういえばさ」

 彼女は曲の間奏のときに、一度マイクの電源を切って俺に尋ねてきた。

「なんで桜乃様と話してるとき、あんな堅くて変な喋り方してたの?」

「なんでだろうね」

 一番惨めにみっともなく過去にしがみついているのは、糾弾されなくても俺だということは分かっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人魚は歌う 増若布 @runa3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ