境目
ゆんちゃん
境目
平成三十年の八月。
彼女はずっとぼくを待っていたかのようで、ぼくを見たとたんに満面の笑みを浮かべた。小学校の正門前にいるのはぼくと彼女だけ。誰もいなくて、ぼくたちは少し悲しかった。けれど十年も昔のことだし、それはそうだろうという気持ちも無くはなかった。ところで、彼女はぼくと同じクラスだっただろうか? ふと記憶を巡らせてみる。彼女の苗字はたしか白瀬で、名前のほうは出てこない。けれども彼女がここにいるということは、きっと同じクラスで小学六年生の時を過ごしたのだろう──
****
ぼくは故郷である埼玉県H市に帰省していた。二週間ほどだけれど、都会に浸かっていたぼくの心を故郷で洗い流すのには十分な時間だ。東京は情報量が多すぎる。道を歩けば人にぶつかるし、目を動かせば店の広告が目に入る。無機質を形にしたような白い壁もしくは太陽を反射させるガラス張りのビル群ばかりで、個人の家なんてどこにもありやしない。それに比べてこの町は昔とそんなに変わらず、田圃、畑、たまに線路といった、田舎という言葉が似合う風景を変わらず保っている。そして、ぼくはこの風景が好きだ。
ぼくが東京に出たのは大学へ通うためだ。埼玉県の中でもかなり北のほうにあるこの町からでは、片道二時間半の大移動となる。大学一年生のころはがんばって毎日通学したけれど、さすがに無理があったので二年生からはアパートを借りた。初めての一人暮らしはなかなかハードだったが、時が過ぎて四年生となった今ではそれももう慣れたものだ。料理だって野菜炒めくらいならなんとか作れるようになった。
自分の部屋のベッドから起き上がり、周りを見回す。大学一年生までの十九年間を過ごしてきた部屋だ。部屋の空気にはぼくが染みついているようでなんだか落ち着く。勉強机の上は大学受験のために使った高校の教科書などが埃をかぶっていた。大学一年生のころはまったく勉強せずに過ごしていたから、高校生で時間が止まっていて、なんだかおもしろく感じる。本棚の、小学生のころに読んで以来開けてすらいない図鑑や絵本などもそのままだ。窓を開けると、夏の日差しがこれでもかというほどにぼくの目を襲う。一瞬くらりとしたが、すぐに慣れた。耳にセミの声が飛び込んでくる。たった七日間だけの儚き命を必死で燃やし続けていた。
二階にあるぼくの部屋を出て、一階にある和室へ向かった。時刻はすでに正午を回っている。少し寝すぎたみたいだが、モラトリアムを謳歌するならばこれくらいでちょうどいいのかもしれない。
和室では母さんが真四角で木製の大きなテーブルに腕を乗せ、扇風機に当たりながらテレビを見ていた。そしてこちらを見ると「あら、おはよう」なんて言って、台所へ向かっていった。ぼくは「おはよう」と答えて、母さんの席の向かいの座布団に腰を下ろした。テレビでは甲子園決勝をやっていた。特に甲子園に興味があるというわけでもなくほかのチャンネルに回してみたものの、どれもつまらない番組しかやっていなかったのでなんとなく甲子園に戻した。どうやら七回の裏で五対四のなかなかいい試合をしているようだ。
和室はそこそこ大きく、障子と硝子戸を開けると庭と繋がっている。風鈴がかけられているが、今は風がなく何も鳴らないのであまり意味がなかった。風鈴の役割など音を出す以外にないのだから。
扇風機を自分に当て、ぼんやりとテレビを眺めていると、母さんがそうめんを持ってきた。ぼくの朝食兼昼食はそうめんとなった。お盆の上には二人分の椀と、みかんと一緒に入ったそうめん。まさに夏と言った昼食じゃないか。実家に住んでいたころは夏になるとよく食べたものだ。
そうめんをすする。よく冷えていて気持ちよかった。
「最近、中学校のあたりで工事しているそうよ」
母さんがぽつりと言った。母さんは人付き合いがよく、近所からそういった情報がたまに流れてくるらしい。
「工事? いったい何のために」
「新しく商店街を作るみたいよ。何もない道を舗装してコンクリートで固めて、道路を作るところから始めるみたい」
なんと。今の時代に商店街なんて驚いた話だ。わざわざ商店街なんか作らなくても、買い物なら少し自転車を漕げばイオンがあるのに。
そうめんが半分くらい減ったところで、また母が言った。
「ここらへんも、そのうち舗装されて新しく道ができるみたい。そのためのお金、いったいだれが出すと思う? 私たち住民なのよ。困ったものねえ」
商店街を作るのは反対されていないのだろうか? 母さんが困ったと言っているのだから、当然住民の中には反対している人もいるだろうが、市が決めた事だから仕方ないとあきらめているのかもしれない。
そうめんを食べ終わるころには少し風が出ていて、風鈴がちりんちりんと音を出していたが、セミの咆哮にかき消されていた。
*
ぼくが帰省した理由は、まあそうするのが当たり前だからだという安直なものなのだが、ほかにもある。
小学六年生の頃、クラスのみんなでタイムカプセルを埋めようということになって、それを掘り起こすのが十年後の今年というわけだ。小学六年生の時は十二歳で、大学を卒業するのは十年後の二十二歳だからちょうどいいということだ。
大学では文学を学んでいる。ずっと昔から小説家になることを夢見ていたが、今のところ対した経歴もなく、賞も取ったことはない。今の時期は就活やらインターンシップだとかなにやらがあって、みんながそうしているからぼくもそうしているが、正直に言って面倒くさかった。
昼食を終えて一休みしてから、ぼくは玄関へ向かった。今日は市内で夏祭りがある。せっかく帰省したのだから、行ってみようと思ったのだ。母がぼく宛に郵便が届いているわよ、と言っていたが気にせず玄関を開けた。
そうだ、ついでだから小学校のあたりにも行ってみよう。小学校は十年も前に卒業してすっかり行かなくなってしまったが、どうやら道順は脳の奥の奥に染みついているらしい。思い出そうとしなくても勝手に足が進んだ。
家を出て、田圃に沿った細い道を歩いていく。時刻は午後二時。まだまだ陽ざしが強い。肌を焼くようなお日さまは今が一番高いところにあり、ぼくを真上から見下ろしている。
十五分くらい歩いたところに、ぼくが六年間通ったI小学校があった──と思った。だが、ぼくが知っているI小とは少し変わっていた。校舎の壁はまるで東京の建物のように白くなっていた。どうやら改装工事をしたらしい。
そういえば、最近の学校はなかなかに警備が厳しくなっていると聞く。卒業してただの一般人になったぼくはもちろん、この学校の生徒だって、補修の授業等以外で勝手に入ることは禁止されているのかもしれない。もしそうなら、ぼくは少し寂しく思う。ぼくが小学生の頃は、休日に校庭に集まってサッカーなどをして遊んだものだ。スポーツはそれほど得意ではなかったが、みんなで集まってわいわいするのはそれなりに楽しかった。
張り合いのないものだ。多少驚いてしまって、ぼくは学校の正門前で立ち尽くしていた。小学生がぼくを訝しげに見たが、何も言わずにわきを通り正門を過ぎていった。仕方がない。この学校の周りを歩いてみよう。
学校のまわりの道はこれまた細く、人通りが少なかった。正門を通り過ぎ道の角を曲がると、子供たちの声が聞こえてきた。ここはプールの近くだ。子供の声に交じって、ザブンザブンと水音が聞こえてくる。そういえば、夏休みはプールを開放しているんだっけ──たしかぼくも夏にプールに来て、泳いだ憶えがある。それで、家に帰ってから扇風機に当たりながら、母さんが切ったスイカにかぶりつく──
セミの鳴き声と、プールの音と、子供たちが騒ぐ声。ぼくはそれらを自分の記憶と重ね合わせながら、道をあるく。どうやら、変わらないものもあるらしい。
学校のまわりを一周して、正門に戻ってきた。最後に再び、校舎を見やる。青く広がる空の背景に、真新しい校舎の白さはなんだか不釣り合いのような気がした。
**
小学校を後にし、夏祭りへ行くことにした。祭りは駅から少し歩いたところの通りで行われる。通りの長さは約1キロメートルで、通りの左右には露店が所せましと並んでいる。通りを歩く人も結構な密度だ。
祭りに来たのは何年ぶりだろう。たしか中学一年生の時以来な気がする。それ以降は、なんだか面倒くさくなって行かなくなってしまった。
人込みに紛れて歩いていると、前方からドンドコドンドコ、神輿の音が聞こえてきた。ぼくたちは左右に避け、神輿が通るための道を作る。神輿を担ぐがっちりとした男たちは、威勢のいい声をあげてぼくたちの後方へと進んでいった。
それからしばらくすると、露店に見覚えのある人物を見つけた。たしか、小学校で同じクラスだった田村だ。最後に見た時よりもいくらかがっちりとして、髪の色も幾分か明るめだ。田村はやきそばを焼きながら、大声で客を呼び込んでいた。彼はいわゆる人気者としてクラスの人たちから支持を得ていた覚えがある。中学校に上がってからも彼は人気者だった。彼とは接点はとくにはなかったが、他クラスにいても彼のうわさが耳に入ることがあった。あの様子だとどうやら彼は高校卒業後に地元で就職したのだろう。祭りのスタッフは大抵は地元の人だろうし。それに、成績はそんなに良くなかったし、大学に行ったという話は聞かなかった。彼もタイムカプセルを掘り起こすに来るのだろうか? たぶん来ると思う。なにしろ、それを提案したのが田村だったからだ。
田村とは話をせず再び歩いた。お面を売っている店があったが、昔から変わらないものもあれば、全く知らない戦隊ヒーローや女児向けアニメのキャラクターのものもあった。やはり今の子供にもそういうものが人気なのだろう。
また前方から神輿の音が聞こえてきたので右に避けて道を作る。神輿を担ぐ男たちは、顔に滝のような汗をかいて声を張り上げている。ごくろうなことだ、と思いながら見ていると、男の中にまたしても見覚えのある顔を見つけた。小学校で同じクラスだった藤田だ。彼はぼくたちのクラスの中では上から三番に入る、そこそこ頭のいい奴だった憶えがある。中学は別のところなのでその後のことは知らないが、ぼくの中では彼は頭のいい人物のままで止まっている。田村と同じように、地元に就職したのだろうか。わからないが、まあどちらでもぼくには関係のないことだ。ぼくは歩を進める。
ほかにもちらほら知っている顔を見つけた。中学校でそれなりに仲の良かった奴や、小学校が一緒だったがろくに話さなかった奴。みんな、さまざまな人生を歩んでいるのだろう。
通りの終わりに近い場所にプラザという建物がある。ここは「地域の文化交流や産業振興を図り、ついでに魅力あふれるコミュニティを目的とした施設」らしいのだが、具体的にどんなことをしているかは知らない。この中は冷房が効いていて、地獄のような外気とは対照的に天国のような気分にさせてくれる。中は同じことを考えた人たちで込み合っていた。座り込んだ小学生や、アイスを食べているおじいさんなど様々だ。しばらくそこで涼んでから、また引き返して家に帰るとしよう。
プラザを出るころ、外は夜へ移り変わる途中だった。群青色の空を背景に並べられた紅白のちょうちんからは明かりが漏れていて趣がある。来た道を戻る途中、チョコバナナを買った。昔は好きでよく食べていた。一本300円と割高だが、祭りならそんなものだろうと何となく納得してしまうのは今も昔も変わらない。
チョコバナナを食べながら、通りの入り口まで引き返してきた。そのころには日は完全に姿を消し、空に闇をもたらしていた。
帰省中の予定は、夏祭りとタイムカプセルのほかには特にない。タイムカプセルを開けるのは八月の三十一日だ。それまでまた余暇を楽しむとしよう。今日見た人たちは皆来るだろうか。ぼくは何となくワクワクしていた。
***
夏祭りから十日経った。今日はタイムカプセルを掘り起こす日だ。約束の日という言い方もする。タイムカプセルを埋めたのはI小学校の校庭だ。
十年という時の流れがどんなふうに人を変えるのか。タイムカプセルというのは今と昔の変化をあらわにする、そんなものだとぼくは考えている。ぼくはたぶん、埋めたものから見えてくる昔のぼくと、今のぼくの違いを知ることをわくわくしながら待ち望んでいる。それに、なんだかロマンティックじゃないか。昔読んだ漫画に大人になってからタイムカプセルを開けるという話が書かれていて、とても胸打たれたことがある。それは中学生になっても、高校生になっても、今になっても変わらない世界ありきたり物語の一種の浪漫だ。みんなで集まるのは今日の夜、午後十時だ。
ぼくはやはり、一階の和室でぼんやりとテレビを見ている。まだ夕方の五時で日は明るい。扇風機にあたりながらテレビを眺めているが、やはりつまらない番組ばかりでうんざりする。そうしていると、母さんに
「あんた、なんだか子供みたいに落ち着きがないわよ」
と言われた。確かに今のぼくは子供みたいなのかもしれない。ぼくの心は十年前に戻っていて、小学生さながらなのだ。今日の夕飯はカレーらしい。台所からカレーのにおいが漂ってくる。ぼくは昔からカレーが大好きで、母さんが作ってくれたカレーをぱくぱくと一生懸命にかきこんだものだった。
外ではセミが少しだけ静かになって、鈴虫がリンリンと鳴いていた。気温が下がり涼しい風が少しだけ吹いている。縁側には蚊取り線香が置かれていて、独特なにおいが漂っている。いつもこのくらいの気温なら過ごしやすいのにと、夏の夜になると思う。
夜の九時四十五分ごろに、ぼくはスコップを持って軽装で家を出た。小学校へ向かう細い道は暗く、昼間とは雰囲気が違う。街灯は道の途中に数本ある程度で、明かりは乏しい。
これも一種のロマンティックで、昼を見慣れた風景とするならば、昔のぼくは夜になるだけで非日常へといざなわれたような気がしたものだ。だが大人となった今となっては夜に出歩くのはそんなに珍しいことではなくなってしまった。
浪漫は時間が過ぎるにつれてだんだんと消えて行ってしまうものだと考える。例えば、小さかったころに夢見た「千円札で駄菓子屋でたっぷりとお菓子を買う」ということ。中高生になったころには千円札は手に入ったがその夢はいつの間にか興味がなくなっていた。高校生の甘酸っぱい青春という浪漫なんかはもっと質が悪い。高校生になって、今まで夢見ていた青春に対して抱いた感想は「なんだ、こんなものか」だったが、大学生となってから青春に抱いた感想は「あれはかけがえのない瞬間だった」だ。隣の芝生は青く見えるというが、そんな生半可なものでは決してないと思う。なにしろ、時間は逆光できないのだ。
だけどタイムカプセルを掘り起こすという浪漫はまだ残っている。大人になった今だからこそ、まだ残っている浪漫を大切にしたいと思った。
ぼく的ロマンティック論を頭の中で訴えながらほとんど無意識のうちに前へと歩いていると、もう小学校は目の前だった。正門は目と鼻の先だ。きっとみんながもういて、昔の思い出を語りあっていることだろう。それで、ぼくのことを見つけると手を挙げながらぼくの名前を呼ぶのだ。
端的に言うと、そんな水色の幻想を持っているのはぼくと、もう一人しかいないようだった。
彼女はずっとぼくを待っていたかのようで、ぼくを見たとたんに満面の笑みを浮かべた。
****
「こんばんは」
彼女──白瀬という名前の女の子──はそういって、こちらに微笑んだ。夜の暗闇の中で、一人だけほんのりと光ったような白い肌。着ているワンピースはこれまた白い。白以外の部分は、艶やかな髪と琥珀色の瞳、それと柔らかそうな唇をおいて他にはなかった。
「こんばんは、もしかして、きみとぼくだけなのかな」
「そうみたい。いいだしっぺの田村君も、藤田君も、賛成してくれた先生も、誰もいないみたいね」
「そうなんだ。それは少し悲しいね。ぼくは割と楽しみにしていたのに」
「ええ、私も」
みんな──大人になったということだろう。子供のように幻想や浪漫を持ち続けて、心が子供のままであるのは、ぼくたちだけだったらしい。
それきり、沈黙はぼくたちに降りかかる。白瀬はゆったりと校門に寄りかかっていたが、やがて
「タイムカプセル、掘り出しに行こうか」
と言い、柵を乗り越えた。門には鍵がかかっていた。警備員に見つからないように、ぼくも柵を乗り越え校庭に向かった。
タイムカプセルを埋めたのは校庭の端っこに一本だけ孤立して植えてある木の下だ。家から持ってきたスコップを使い、ぼくが掘り出していく。しばらく掘っていると、箱らしきものにスコップの先が当たったみたいで、ガツンという割と大きな音が校庭に鳴り響いた。びっくりして白瀬と木の陰に隠れた。警備員がこの音に気付いて、ここへ来ないかが心配だった。少しの間そうしていたが、誰の足音もしてこないので安心して穴の位置に戻った。今度は箱にぶつからないように、慎重に掘り出していく。
箱を掘り出し終えると、白瀬が「お疲れ様」と言って、ハンカチを渡してきた。汗を拭き、白瀬と一緒に箱を開封した。十年の歳月を経て、この箱は再び開かれたのだ。
ぼくがタイムカプセルに埋めたのは一冊のノートだ。ぼくが小学生のころに書いていた小説が残っている。そのころから小説を書くのが好きだった。
白瀬が箱の中から取り出したものは、算数のドリルだった。ぼくは不思議に思った。普通は思い出のものを入れるのではないか?
「それはなんだい?」
「六年生のころの夏休みの宿題で出た算数のドリル、どうしても終わらなくて、それならこの中に入れて隠しちゃえって、えへへ」
舌を出していたずらっぽく笑った。そういえばぼくも算数は苦手だったっけ。
どうせ誰も来ないのなら、他の人のものも見てやろうという話になった。クラスで人気者だった田村は、どうやら十年後の自分に向けた手紙を書いたらしい。読んでみると、十年後の田村はプロのサッカー選手になって世界で活躍しているらしかった。
「田村、この前夏祭りで見かけたよ。やきそばを焼いてた」
「サッカー選手とは程遠いね」
「これは桜井さんのだ。なんだろうこれ」
「ケーキのキーホルダーみたい。彼女、ケーキが好きでパティシエになりたいって言っていた気がする」
「そうなんだ。今はどうなのかな」
「この前、スーパーでレジを打っていたわ」
ぼくたちは理想と現実の齟齬を笑いあった。なかなか理想通りにはいかないものだ。
一通り見て、ぼくたち以外の物を箱に戻してまた埋めた。ぼくたちが持っていても困るし、もし誰かが気づいたらその時に堀りに来るだろう。ぼくたちは柵を乗り越えて校庭の外に出た。スコップを柵の中に置いてきてしまったが、もう一度校庭に足を踏み入れる気も起きなかったのでそのままにしておくことにした。
せっかく来たのにこれでは味気ない。もっとたくさんの人が来ていると思ったのに。それは白瀬も同じようで、ぼくたちは小学校での思い出話をしながら適当に歩くことにした。
I小学校から、ぼくが歩いてきた道の延長線の道へ歩いていく。家とは正反対の方向だが、まあいいだろう。白瀬はぼくと同じで、クラス内ではそれほど派手でもなく、どちらかというと地味なほうだった。
「わたし、放課後に運動会の練習をしようって田村君が言いだしたときは勘弁してよってなった。運動苦手だし、はやく家に帰って本でも読んでいたかったの」
彼女は白のワンピースを揺らしながら言う。
「奇遇だね、ぼくもそうだった。なんていうか、そういうクラス全体でなにかをやろうって空気が苦手だったんだ」
「そうね。かと言って、特別勉強ができたわけでもなかった。藤田君みたいに、成績がいいから先生に褒められるってこともなかった」
ぼくは藤田が先生に褒められて、にやけていたのを思い出していた。皆が嫌がるテストを「いい点を取れば褒められるから」って理由で喜んで受けていたというのを本人から聞いたことがある。そんな考えがあるのか、なんてまぬけだったぼくは考えていた。
「夏休みの宿題も、八月三十一日になって急いで片付けたっけ」
「きみもそうなんだ。私もよ」
ぼくたちはまた笑いあった。
「まるで灰色だね、ぼくたち」
ぼくがそういうと彼女は一瞬困ったように眉をしかめたが、やがていたずらをした子供を仕方なく許すような、そんな曖昧な笑顔を作った。
「でも、そういう日も悪くなかったって思えるの。いまとなってはかけがえのない記憶だもの」
「うん、そうだね」
白瀬は血の通っていないような不健康な白い腕を前後に揺らしながら、いつのまにかぼくの前を歩いている。ぼくは後ろから彼女に付き添っている。
細道は徐々に太くなり、川沿いに出た。利根川だ。利根川は埼玉県と群馬県の境にあり、二つの県は大きな橋でつながっている。ぼくたちは川沿いを歩いていた。
「──わたしね、大人になりたくないの。ずっと子供のままでいたい。子供のままずっと遊んで、子供のままお母さんの手料理を食べて、子供のまま明日への希望をもって一日を終えたかった」
彼女──白瀬──は、寂しげな顔をする。まるでぼくはぼくという鏡を見ているようだった。でも──
「時間というのは残酷なものだ。ぼくたちの気持ちをおいて、さっさと先へ行ってしまうんだ」
時間は戻らない。それはぼくが生まれるずっと前、親が生まれるずっと前、いや、それよりもずっとずっと昔から決まりきっていることだ。
「ぼくたちは子供のままでいることなんかできないよ。悲しいことだけど、仕方のないことなんだ」
そう、仕方のないことだ。ぼくたちは成長する。心だけ子供な大人を、世間では未熟者というのだ。
「そうね。……仕方のないこと。でも、田村君や、桜井さん、藤田君たちはまるでそんなことないかのようにしていた。彼、彼女たちは立派に大人に育っている。……わたしたちみたいに、大人になることを拒んでいない」
白瀬はゆらゆらと揺れながら歩いていて、せせらぎに乗ってワルツのようだった。
ぼくたちは大人になることを心のどこかで拒否している。大人の世界は汚いだとか、そういうことではない。ぼくは大人であることそのものに一種のグロテスクを感じる。浪漫とはまるで逆だ。
思えば、ぼくが小説を書き始めたのも大人になりたくなかったからなのかもしれない。制約なんか存在せず、すきなことを表現できる。子供の純粋な気持ちを忘れたくなくて、ぼくはそれをペンを使って紙に投影したのだ。だって、そうしないと過去の自分がいなくなってしまうような気がしていたから。
「彼らはすごいね。大人になることを恐れず、後ろを見ないで生きていくことができる。ぼくたちにはない、才能だ。過去に縋っていつまでもうじうじしているぼくらとは違う──」
「……本当にそうなのかな。わたしには、彼らとわたしたちの決定的な違いがわからないの」
「え?」
彼女はそう呟き、立ち止まった。ワンピースはまだ揺れていて、川の流れと同化して余韻を楽しんでいるようだった。
「彼らが大人になることを恐れず、わたしたちが恐れているという違いはどこから生まれているのかな」
「…………」
彼らは心が大人だから、大人になることを恐れないのか。しかしそれは答えになっていないと思う。どうしてなのだろう。考えたことがなかった。
少し考えて、ぼくはこう答える。
「……わからない。強いて言うなら、ぼくたちは灰色だから……かな」
ぷっ、と彼女の吹き出す声が聞こえた。
「あははは、いいわねその理由。私たちは灰色で、彼らは彼らなりの色があるから。それはそれで面白いわ。
でもね、灰色というのはちょっと違うの。私たちは灰色でも白でもない、無色よ。無色の透明。まだ何色にも染まっていない、少しみんなより遅れているだけ」
彼女はこちらを振り向く。彼女の背から日の光が漏れ出ている。ぼくたちが歩いている間にもう夜明けの時間が来ていたらしい。
川のせせらぎがうるさいなと思った。
「これは私たちに与えられた宿題なのよ。彼らと私たちの違いを見つけること。それと、わたしたちが大人になること」
「それは、難しい宿題だね。昔みたいに、締め切り直前になって急いで片付けようとしてしまうかもしれない」
「それなら、わたしときみでどちらが先に大人になれるか競争しましょう」
彼女は小学校の正門前であったときみたいに、明るい笑みを浮かべ言った。参ったな、厄介な宿題だ。
太陽が上ってくるにつれて、白瀬の姿が光で見えなくなってくる。
それで、この時間は終わってしまうんだなと思った。最後のモラトリアムの時間が。
「競争のスタートは太陽が完全に姿を見せた時にしましょう」
ぼくは怖い。できるなら先に進むのは嫌だ。けれど──
「──わかったよ。大人になる努力、少しはしてみよう」
もう、歩き始める時だ。虚勢をはってそう答えた。ぼくはまだ、心に迷いがある。
「ふふ、決まりね。それじゃあね」
彼女は太陽の方向を向いた。ぼくはその逆を向く。すると、もう二度と会うことはないような予感がした。
ぼくは歩き出した。彼女の歩き出した音が聞こえた。一度立ち止まって、後ろを振り返ってみようとした。
「だめだよ。怖がっちゃダメ。みんなにできるのに、あなたにできないことなんてないの」
その声を聴いて、僕は振り返るのを止めた。そのまま、さっき歩いてきた道を引き返す。家までどのくらいかかるだろうか。こんな朝に帰ってきて、母さんに叱られないだろうか。ぼくは大人になれるだろうか。そんなことを考えて、僕は家へと歩いて行った。
*****
とても、永い夢を見ていた気がする。
目を開けると、自分の部屋の天井。体にはベッドの感触。間違いなく、ここはぼくの部屋だ。外からは工事の音。何処かで工事でもしているようだ。
ぼくはなにをするでもなく、ただぼうっとしていた。
昨日、いや、今朝は家に着いた後自分のベッドに倒れてそのまま意識を失ったのだと思う。
しばらくしてぼくは一階へ向かったが、母さんはいなかった。何処かへ外出でもしているのだろう。仕方がないので自分で料理を作ることにした。冷蔵庫の中身を見て決めた。野菜炒めでも作ろう。
食事を終えて自分の部屋に戻った。そういえば、白瀬の下の名前はなんだっけ。小学校の卒業アルバムを引っ張り出して開いてみる。
パラパラとめくっていった。桜井、佐々木、白川……須藤? おかしい、白瀬の名前が載っていない。小学校は一クラスしかなかったはずだが。
そのうちぼくはなんだかどうでもよくなって卒業アルバムを閉じた。次にタイムカプセルから取り出したノートを開いた。ぼくが小学校のころに書いた、未熟な小説だ。
書き始めたのは小学五年生からで、短いものをいくつか綴ってある。
思い出に浸るようにして読んでいく。やはり昔書いたものを今読むのはとても恥ずかしい。読めたものではないのだが、なんとなく読むのを止める気はしなかった。
最後の小説の一ページ目を開く。そこで、ぼくの中に驚きと納得の感情が半分ずつ同時に浮かび上がる。
主人公の名前は白瀬、白瀬夏未。彼女はぼくが小説内に投影した人物だ。この小説を書いたのは確か小学六年生の夏休み中だ。ぼくは夏休みの宿題をやるのを忘れて小説を書くのに熱中した。大人になるのがほんの少しだけ怖かった時期だ。結局この小説は未完成のまま、タイムカプセルに入れられた。
ぼくはノートを閉じ、ひとしきり泣いた後、カレンダーに目をやった。
平成三十年の八月三十一日。平成最期の夏休みの最終日。
僕は、新しい紙とペンを用意して机に向かった。新たに小説を書くことにした。
主人公の名前は白瀬夏未。
僕は、早く宿題を片付けなければいけないのだ。
気が付くとセミの音は止んでいた。
境目 ゆんちゃん @weakmathchart
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます