紅葉と紺色の狐25

 次の朝は早くから鹿屋に呼ばれた。基地の事務科の窓口で呼び止められたので、ちょっとむすっとしながら待っていたが、冴から返信の手紙が届いているという。たぶん写真が入っているのだろう、厚めの白い封筒だった。とはいえ鹿屋に呼ばれているのでひとまず鞄に仕舞って階段を上がった。

 鹿屋は手短に用件を伝えた。「鷲田大将が死んだ。それで、遺書を開けてみたらどういうわけかおまえ宛のが一通入っていた。丸々だ、封筒丸々おまえ宛。え、心当たりあるか?」

 僕は鹿屋のデスクに近づいていって梔子色をした鳥の子紙の封筒を受け取った。その表に書かれた字は極寒の地で書いたみたいに震えていたけれど、確かに「諏訪野夕様」と読めた。僕が内容を確認する間に鹿屋は電話を受けて話していたが、用件が済むと受話器を置いて「人の死に寄り添える人間、だと」と言った。

 封筒の中の用箋にある字は打って変ってしっかりした筆跡で「懦弱ながら妻の代筆で失礼します」と始めていた。「私には一人の人間を知悉するための時間は与えられませんでした。しかし貴方は、よく感じ、よく考え、よく表すことができる。人の死に寄り添える人と恃んでおります。人の死、無論それは私のことなどではない」「私の少ない言葉では貴方は納得しかねるかもしれない。その時は妻か千加子さんに尋ねてください。老残の勝手の是非をよく決してくれるでしょう」

「読んだんですか」僕は手紙から目を上げて鹿屋に訊いた。

「親展ではなかった。それに俺はお前の上司だ」

「わかりません。なぜ僕に弔辞を頼むのか」

「おまえにわからないなら本人にしかわからないだろう。訊かれても困るぞ。とにかく、式場ですぐ打ち合わせがあるからおまえも来い。十一時に出る」

「了解。それと、別件で時間をいただきたいのですが」

 その時電話のコールがまた鳴り出した。鹿屋はそれを顎で指して僕を追い出して電話に出ようとした。

「今じゃないとだめなんです」僕は声を張って制止した。「サキのことです」

「私事なら仕事が終わってからにしろ」

「仕事も恋もあなたの人生でしょうが」

 鹿屋は電話から手を離して椅子に背中を戻し、僕に正面を向けた。いつか見た圧縮された炎がまた彼の瞳に覗いた。電話はまだ鳴っていたがもう誰の意識にも介入できなかった。「言え」

「鹿屋さん、あなたのことは尊敬しています。上司としてではなく、身近にある歳上の男としてです。それはこの会話のあとも変わらない。絶対に。だから正直に答えてください。初めて僕と会った時、あなたがどう思ったのか。つまり、贋との接し方を知っているあなたにとっても、それでも僕が特別だったのかどうかです。僕はサキの弟なんでしょう。複雑だけど、同じ母親の別の子宮から生まれた、まあそんな感じの姉弟だ。あなたはそれを知っていた。そしてサキのことを愛していた。その愛を成就させないまま募らせたあなたは、僕の面倒をみることでその気持ちを慰めていた。僕を隣に引っ越させたのも同じ理屈ですね」

 鹿屋は僕をじっと見据えたまま口を閉じて動かなかった。電話はまだ煩く鳴っていた。

「その時ユリアさんに言ったそうですね、僕のお姉さん役だって。それは一般的な他人としての歳上の女の人という意味なら全然問題ない。でももし身内の姉という意味だったなら、それは失礼なことですよ。ユリアさんはサキではないのだから。誰か他人として、他人に見立てて誰かを愛するなんてできやしない。してはいけない。違いますか」

 まだしばらく電話が鳴り、そしてとうとう諦めた。鹿屋は受話器を外して煙草に火をつけてから口を開いた。ちゃんと話すつもりのようだ。

「半分合っている。半分間違っている。俺がおまえのことをサキの身内として意識していたのは確かだ。それは認める。でも失恋の虚しさから救われるためにおまえを特別扱いしたんじゃない。一度は愛した責任があるのだろう、この巡り合わせも偶然ではないだろう、そう思っておまえに接してきたんだよ。こんな考えは、もしかしたら歪んでいるのかもしれないがね」

「責任というのは綺麗な言葉ですね」未練を責任と言い換えただけだと僕は思った。

「濯ぎ得ない穢れをありのままに認めるということは自壊的だな。それと同じだよ。可能性の愛を命の一部にしてしまうのは」

「サキの後を追うってことですか」

「違うな。あいつが生きていようが死のうが、俺はもうあいつの人生に関与できなくなっていた。愛を否定された人間は、愛を精算するか、それとも、腐らないように残し続けるか選択しなければならない。俺は後者だった。愛を捧げた相手ではなくても、少なくとも価値をくれる人間は居る。そういう人のために愛の残骸を責任と呼び換える」

「悲しい人間ですね」

「ああ。でも愛について何の考えも持たない人間よりはよっぽど充実していると思うよ。それを指して人は不幸だと言うのかもしれないが」

「サキはあなたを不幸だと思ったでしょうか。サキは実利的で、あなたの愛が通用するような人間ではないような」

「サキは愛なんて言葉は使いたがらなかったよ。あいつはいつも答えだけを持っていた」

 鹿屋は椅子を回して半身に窓の外を見上げた。空は晴れて焼きたてのパンみたいにほかほかしていた。その時ふっと天井をすり抜けて天使が下りてきて、僕に二つの理解を渡していったような感じがした。それは鹿屋がサキのことを愛していた理由とサキが鹿屋を嫌った理由だった。もっとも、鹿屋の言い分的にはサキには理由なんかなかったのだろうけれど。答えだけを持っていた、とはそういう意味だろう。ある意味で鹿屋とサキは対照的な生き物だったのだ。

「サキが死んだのは十一月の下旬ですか。ちょうどあの戦闘がある少し前。そういえば予感がありました。人が死ぬ時の予感です。……なぜ、サキは死んだんでしょうか」

 鹿屋は頷いた。「ブロックAが四十年も生きれば十分長生きじゃないか。寿命だろ。俺も聞いただけで死に顔は見てない。行ってやりたかったけどな。少し早すぎたな」

「寿命って、それだけですか。どんなふうに死んだのかそれじゃわからない」

「俺にもわからないよ。わかってたまるか」

 鹿屋は勢いよく煙を吹き出した。僕はしばらく俯いていた。

「ユリアさんにはその話したんですか」

「なに?」

 僕は目を瞑って溜息を吐いた。「その、話ですよ」

 鹿屋との話し合いの中で僕はむしろ自分自身がが傷ついて消耗していくのを感じた。鹿屋は前に灘見のことを昔の自分に似ていると言った。では現在の彼は彼自身を何かに投影しているのだろうか。僕は佳折への愛に関して桑名が夢の中で言ったことにとても救われたと思う。もしかしたら鹿屋は自分の中の別の愛をもう一度信じることによってサキのことを忘れられるかもしれない。それは僕の想像より難しいことかもしれないが、たぶん幸せなことだ。自分の愛に返答があることを知れば、鹿屋はその先の出来事を過去と比較することはないだろうから。

 鹿屋がユリアに電話をしたのは、つまり、もう間もなくのことだった。

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