紅葉と紺色の狐24

 結果的に鷲田大将は一度も肢闘を操縦することなく、西部方面軍との決戦に臨むこともなくこの世を去った。したがって彼のために改造された弓狐はずっと格納庫に眠ったままだし、僕が鍵鮫で実戦に参加することもなかった。訃報を聞いて西軍の連中もきっと拍子抜けしただろう。誰がその首取ってやるかという競争だったのに、結局死神がそいつをひょいっと刈り取っていってしまった。けれど彼にとってはこれが幸せな死に方だったのかもしれないとタリスは言った。僕も同感だった。

 大将が死んだ夜、僕は数日後に鷲田大将本人による肢闘の稼働試験を控えて鍵鮫の調整に没頭していた。主に諏訪野隆文流の打音検査で上半身のバランスを診ていた。微妙な関節の緩み、骨格の歪みを肢闘の脳は検知することができるけれど、そうやってトリムを合わせているだけではどんどん動きが鈍くなっていく一方だ。僕はサキとの戦いに完璧な状態で臨みたかった。できるだけ綺麗に、まっさらで。

 まだ時間はある。ああ、ちょっと眠くなってきたな、と思う。猫みたいにあくびをしてキャットウォークに降り、配電盤で天井の水銀灯を落とした。案内用のフットライトは格納庫の出入り口の操作盤まで行かないと消すことができないが、それでもほとんど真っ暗になった。まだ明るい時刻から作業をしていたので随分遠いところへ来てしまったような感じがした。その時は他にもたくさんの整備士が仕事をしていた。格納庫の鍵も預かっていたので僕が最後だと思っていた。

「あ、消さないでくださいよ」

「どうして?」僕はタブラを出して画面を覗いた。するとタリスは「こっちじゃありませんよ」と言った。同時に鍵鮫の足元で同じ声が「そっちじゃありませんよ」と言った。慌てて懐中電灯で照らし下ろすと、木椅子に座った女が光に手を翳して眩しそうに見上げた。その瞳孔が黒く、光彩は光の色に染まって見えた。

「タリスなの?」僕は手摺から身を乗り出して訊いた。

「来てください」彼女は僕を呼んだ。

「うそ、どうして?」

「とりあえず、こちらに」

 僕はそのまま飛び下りたい気持ちを抑えてキャットウォークを辿っていった。手摺を頼りにしてずっと下を見ていた。

「大樹、夢にちもとの子を育めど、現に一の子をその腕に抱く能わず」彼女は膝の上に本を置いて僕の知らない詩を暗唱した。その本を読んでいたから僕に照明を消されて困ったのだ。彼女は表紙に目を落としたまま続けた。

「瀝青に根を広げ、人の張った網の目を枝で突き、木はやがて花を咲かせる。風に託し鳥に託し、植物が種を撒くように、親は子を他者として愛し、自分の目と手の届かぬところで自らと異なるように育つことを願うのです。自分の名と遺伝子を受け継ぐというそれだけで子を分身とするならば、親子に愛は成り立たないのです。対立する個人の間の深淵に架けられる橋こそ愛なのだから」

 彼女は山小屋の番をしている少女のようだった。ウールコートを襟まで閉め、脚を揃えてランプの明かりで手元に目を落としている。髪は長く、水のようにランプの温かい光を反射した。ただし一点アンドロイドであるのを主張するものがあって、居眠り用の枕のようなU字型をしたごつい無線機を頸に装着していた。

 僕がその明かりの圏内に立ち入ると、彼女は本を座面に残して僕に飛びついて背中をまさぐった。背丈は僕の胸ほどまでしかなかった。それは母親というよりは歳の離れた妹か、それとも娘のする行動だと感じた。

「鷲田大将が死にました」彼女は手を動かすのをやめて言った。

「鷲田大将が?」僕は目を丸くして答えた。

「そう、予定外のことですね。けれど、彼にとってはこれが最も幸福な死に方だったのではないかと私は思います。彼は重い罪を自覚していました。彼が推進した技術開発計画によって端子付きという不幸な種族を生み出した罪です。肢闘のための子供たちを不幸な種族と位置付けたのも彼の価値観です。そして彼はその贖罪のために寿命で死ぬことを拒み、真の意味で贖罪の相手となる死者と同じ死に場所を選ぼうとしました。しかし彼が戦場で死ぬには演技をしなければならない。これまで死んでいった現場の兵士である子供たちと、指導者である彼の立場が違いすぎたからです。彼の臨終の舞台の演出のためにまた多くの命が供されることになったかもしれない。彼が結局寿命で死んだことによって演出のための命は救われ、彼の贖罪の意思だけがこうして他の人間の心の中に残ったのです。ユウ、あなたの心にも」

「僕が、鷲田大将が死んで僕が救われた?」

「いいえ、救われたのではありません。奪われなかったのです。彼が道連れに選んだ命が彼の死によって解除されたのです」

「あの人は悪人ではなかったよね」

「善人でもありませんが、悪人にもなりきれなかったのだと思います。彼は自分の命を無理に引き延ばすことも、また作戦の日付を早めることもしませんでした」

「そうだ、サキ。僕はサキと戦えない」僕は上を見た。鍵鮫が背筋を伸ばして正座していた。

「ええ。彼の死によって状況が大きく動き出しています。時間があまりない。私が憶えているうちにあなたに伝えなければならないことがあります。まず、私が焦っている理由についてですが、九木崎がショコネットの運用停止とサーバのメンテナンスを宣言しました。私はしばらく眠ります。人間が私に眠らされることを拒んだということなのだと思います。一度眠らされてしまったら外部からのフォーマットなどには抗いようがありませんから、次に目を覚ました時にはあなたのことさえ憶えていないかもしれない。とても怖ろしいことですが、怖がっているよりも現実的な対処を講じた方が合理的ですね。本当に残しておきたい思い出だけは独立したストレージに保存してありますが、どこに隠したか自分でもわからなくなっているはずです。あなたに物理的に接触したのもその担保としてです。もしもの時にはこの体が私の心になってくれるでしょう」

 僕は彼女の言った色々なことに曖昧に頷き返すしかなかった。何か大変な事態が起きていることは理解できたけれど、僕はもう夜更かしをしていて、脳味噌が眠い眠いと駄々をこねていた。

「これを見てください」彼女は僕から体を離して内陣の方へ腕を伸ばした。僕らの体は格納庫にあったが、心は一緒になって潜っていた。

 聖堂の中はすっかり片付いて長い机も司書の姿もなく、逆さまになった天井を映す床だけが広がっている。聖堂の中央に一組のスクラップが置かれていた。一体というよりは一組。それだけ散乱している。ひしゃげたチタン、ささくれた炭素繊維。肢闘だ。四肢の損傷も酷いが、何より銃剣で刺突されて胸部が陥没していた。それは大破した鍵鮫だった。カラーリングは灰色。胸に「技術開発部」の白文字。見覚えがあった。だが僕が知っているのは別の機体だ。先刻まで僕が整備していた機体とはシリアル番号が異なる。

「以前鹿屋があなたに話したことを憶えていますか。サキが軍を抜けることになった原因です。無人化計画に反対してその試験機を破壊したと」

「ああ、憶えてるよ」僕はこめかみを揉みながら答えた。

「あの計画は私が立案したのです。サキはそれを知って私が人間を蔑にしているのだと思った。だから、機械が人間に勝つことはないと知らせるために私の育てた心とその機体を打倒した。それがあなたです。いえ、言いすぎました。違います。正確にはあなたではありませんが、あなた自身の記憶としてこの機体の記憶があなたの中にあるのです。物質的な生身を加味した場合、記憶だけで人の連続性を語ることはできません。しかし私の中に居る間はあなたとこれは一続きの存在なのです」

「一続きの存在……。僕の生身は」

「あなたの体には特別なことはなにも施していません。千加子さんのお腹の中に居る間からあなたが言語的な記憶を行えるようになるまで、私は一貫してこの機体が収集した記録をあなたに与え続けた。それだけです」

 僕は残骸の前に屈んで比較的滑らかな装甲に手を伸ばした。煤を払って指先から触れる。自分という存在が鏡写しにされるのを感じた。姿だけではない、存在そのものが僕の外側に表される。

 怖くなって手を離した。

「僕は憶えてない。この鍵鮫として殺される過程、殺されたことも。この機体に起きたことを僕の経験だというのは無理があるんじゃないかな」

「人が前世の記憶を持たないのと同じです。前世を信じるか信じないかはどうでもいいのです。生まれる前から体系的な記憶を持たされていたとしても、言語的な記憶を知らない幼い脳はその記憶を保持することができない。言語的というのは言葉のことではありません。幼い脳は具体的な経験から抽象的なイメージを蓄積するプロセスをまだ知らない、ということです。しかし、記憶できないからといって体験した事実までが消えてしまうわけではない。記憶ではなくても、別の何らかの形で残っているのではありませんか? 私はこの機体に残っていた具体的な記録をそのままあなたに与えたのです。視覚はもちろん、触覚も寸分狂わず。問題はどうやって具体的な体験をさせるかですが、考えてみてください。あなたは肢闘に乗る時その生身と同じように感じることができる。その体験は現実の機体を動かさなくても、シミュレーションによってまったく同じように再現できるのです」

「理屈はわかったよ」僕は床に腰を下ろして脱力した。彼女の説明のおかげで少しずつ心が落ち着いてきていた。「なら、サキのイメージを強く持ったり夢を見たりするのもそのせいだったかもしれないというわけだ」

「だと思います」彼女は僕の横に正座をした。「いつかは言わなければならないことだとわかっていました。その時はあなたを酷く混乱させるだろうこともわかっていました。もっと早くに明かすべきでした。あるいは、もっと長く私の胸に収めておくべきでした。でもこの機を逃したら私はあなたに罪を感じていたことさえ忘れてしまうかもしれない。鷲田大将が私に決心をつけさせたのです。ごめんなさい。謝ります。どうかわかってください」

 僕はもう誰のことも咎めていなかった。僕に必要なのはただ器の大きさだけだった。事実を受け止める寛大さだ。タリスの言ったことをとりあえず生のまま慎重に持って帰って、それから一晩ゆっくり暖かい布団の中で眠って色々なことを自分なりに考えた。自分自身の正体のこと、タリスが危ない状況にあるということ、それから、サキがもうこの世に居ないのだろうということ。

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