紅葉と紺色の狐20

 肢闘を格納庫に戻す作業を終えて外で煙草を吸っていたが、いつものように佳折が迎えに来る気配がない。時刻も定時を回っているし、曜日も出勤の日で間違いない。不審に思って早めに切り上げ、手始めに本部棟に入った。佳折は休憩室に居た。扉から一番遠い席を取って、テーブルに冷めきったコーヒーの入ったマグカップと白いタブラを置いて、手を膝の上に結んで目を瞑っている。肩の力も抜けて俯き加減。けれど眠っているにしては呼吸が意識的だった。彼女が瞼の裏からこちらの存在を捉えているのを立ち止まる前に悟った。

 彼女は薄く目を開いて、僕が肩に手を置くとぱっと表情を明るくした。雪の下から瑞々しいフキノトウが顔を出すみたいな、そんな感じだった。

「どうだった?」

「富士山がよく見えたよ」僕はタブラに撮ってきた写真を表示した。

「天気も良かったんでしょう。なに、これ三堂くん? どうしたのよ」

「一時間ぶっ通しで戦闘機動なんて滅多にしないから疲れたんだろ」

 写真の端に弾倉型のバラストに凭れかかってぐったりしている人影が小さく写っている。連続で撮った次の一葉ではげっそりした顔で振り返って親指を立てている。さらに続く写真では悪乗りした整備士たちが回りに集まって白い歯を見せている。佳折は順番に見ていって呆れて笑った。

 休憩室の奥の壁には部隊の歴代の構成員の写真が掛けられている。ざっと二十枚。花のオペレータはいつだって最前列だ。一年持たなかった奴の中には写ってないのもいる。探せば桑名の顔も見つけられるだろう。

「ミズチは何か違った?」佳折は訊きつつテーブルの下から脚を抜いてベンチを跨いで壁際のソファに移った。調度品のキャビネットと据え置きのどっしりした古く白いストーブに挟まれるようにして二人掛けのソファが置いてある。緑系の落ち着いたペイズリー模様である。

「弓狐とは違う。もしかしたら特定の戦い方を強いるようなところがあるのかもしれない。サキの戦い方が少しわかったんだ。そのへんは現役で使っている部隊から味方の戦闘データを貰って試してみるしかないな」

「そうなの……」

 僕は壁の写真を見るのをやめて、ストーブに寄りかかって佳折の方へ体を傾けた。

「何か悪いことでもあった?」僕は訊いた。

 いつもの彼女ならもっと僕の感傷に対して敏感なはずだった。それが今日は別なことで頭がいっぱいになっている。異変に気付いていたから、僕はわざとらしいことを言って彼女を試したのかもしれない。

「うん……」と彼女は曖昧に唸って少しの間黙っていた。そうして一人の時の憮然とした表情で目を細め、自分の爪先の辺りに踊っている小さな悪魔をずっと見つめていた。長い沈黙の後「悪いことというよりは失敗かもしれない」と切り出した声は予想より明るかった。

「私ね、殴ってやったのよ」

「殴ったって、何を」

 佳折は弁が立つし腕っぷしも強い。強者に対しては強く出られる人間だった。それが彼女の身を危なくした場面に僕は何度か居合わせている。

「友達として、女として、そういう立場で殴ってやったことは何度かあった。でも、大人として子供を殴ったのは初めてだった。あるいは教育者としてだったかもしれない。子供は子供でも、自分の子供ではなく他人の子供だから。子供たちを預かる仕事をするからにはいつかこういうことがあるだろうって覚悟はしていたの。手を上げるということの教育的意味、適切なプロセスは知っていたし、きちんと実践したわ。私が殴った子も、自分が悪いことは自覚してくれた。大丈夫だと思う」

「それは偉かったね」

「でしょう?」

 二人はちょっとの間、にこっとした顔を向け合った。

「上司がそうやって褒めてくれればよかったんだけどね。佳折ちゃんはあやすのが巧いわねぇ、なんて普段から煽てられているせいで評価してもらえるとばかり思っていた。私が甘かったわ。みんななぜだかまずった表情をしていて、案の定咎められた。それもね、私が殴ったことがまずかったという感じなの。私がなぜそうしたのか、その子がなぜそうされたのか、あとでその子の母親を呼んだのだけれど、彼女も同じだった。感情をセーブしていたけど、でも怒ってたわ。それで冷静じゃないのか、まるで馬鹿みたいに――こういう言葉遣いはよくないわよね。わかるわ。でも――馬鹿みたいに、責任や資格や権利って何度も言うのよ。他人の子供なんだぞって。大人たちはみんな私が頭を下げるのを待っていた。ごめんなさい、と謝罪するのを。ねえ、私謝るべきだったかしら」

「そうだろうね、その方が円滑だろうから」

「そうよね、だけど、私が殴った子も母親に抱かれるみたいにしてその場にいてね、私は悪くないよって言ってくれるのよ。それなのに、当事者は許し合っているのに。そう思うとどうしても謝れなかった。子供が他人に叱られるのを許容できない親のことも、その過剰な意識を指摘できない他の大人のことも私は認められなかった。

 さっき、あなたが来る前に麻生アソウさんがここへ来て言ったわ。気持ちはわかるけど、あそこで謝れるようにならなければあなたは大人にはなれないって。言われなくてもわかってた。謝れないのは私が子供っぽいからだって。ねえ、私は堪え性のない女なのよ。自分の理屈に合わない他人を認める力がない。自分が思想的にクリーンでいられる場所でないとわかると吐き気がするのよ。だから巫女のアルバイトも二度とやりたくないと思ったし、先生になるってとても長い間夢に見ていたのにそれも醒めてしまった。間違っているのは相手の方、私は悪くない。でももし私がその間違いを許容できたなら、私はその中で生きていくことができたはずなのよね。でも残念、私にはできない。胸の中がまだ反感で一杯なの。自分を憎む気持ちもあるけど、親たちが正しかったとはどうしても思えない。私はあんなふうな親にはなりたくないし、自分で殴ることも他人に殴らせることもきちんとやってみせるって思う。

 でもね、それは全ての親が自分がまだ子供だった時に思ったことじゃないかしら。親に対する反感が無い子供なんて居ない。親が居ない子供はその代わりになる大人に対して、捨てられた子は全ての大人に対して、そこから教訓を得る。自分がどう大人になるべきか絶対に考えるの。そして結局は誰かからこんな大人にはなりたくなかったと思われる大人になってしまう。気付かぬ間に失敗を重ねて、ある日突然思ってもみなかった相手からその現実を突きつけられてしまう。最も近くにいるはずの自分の子供にさえそれは起こりうることなのよ。まして考えの及ばない子供が親の考えを理解してくれることなんかない。それが怖い。諏訪野くん、ねえ、私、どうしたらいいかな」

 僕はソファの座面に膝を突いて佳折の前を覆うようにした。額と額を近づけ、空いている右手で髪を掻く。すっかり慣れた甘い匂いがした。瞼に交互に二回ずつキスをする。彼女は目を閉じる。僕が下になるように肩を掴んでひっくり返す。

 本当に抱きしめてほしい時、どんなに人肌に慣れた人であっても自分から抱きつくことができないということがある。自分のような人間は誰かに慰めてもらう資格など持っていない。そんなふうに思われてしまうからだ。僕は佳折の中にそういう気持ちを捉えていた。どこかで……そうだ、僕も知っている気持だった。

 桑名が死んでから最初の出撃のあと、僕は雪原の中に倒れ込んでいた。辺りはどうにも一面真っ白だった。どこが道でどこが家なのか、それどころかどこが街でどこが森なのか、杉の高木の頭もビルの避雷針さえも雪の下に埋もれて上下の区別もつかないのだ。何キロ歩いてきたのかなどわかるものではなかった。そこへタリスが無人で操る僕の白い弓狐がやすやすと大股で現れて追い付いた。サーボに電圧のかかるきーんという甲高い音が恐ろしい感じを与える。しかも探照灯を点けているから目が金色に光って見えた。弓狐は踏み分けた雪で半ば僕を埋めるようにして立ち止まった。僕がタブラを持っていなかったから、タリスは弓狐の外部指向性スピーカから「早く乗りなさい」と呼びかけた。反応しないでいると急に頭が痛くなった。脳味噌が頭蓋骨を内側から割ろうとしているみたいだった。スピーカを超音波域に切り替えて僕に照射したのだ。それでも耐えているとタリスは弓狐の手を動かして僕の襟首を抓み上げ、下が雪のクッションであるのをいいことにぶんぶん振り回しながらコクピットに投げ込んだ。

 ほとんど強制的に聖堂に降りてみると彼女は身廊の手前の方で待ち構えていて、恰好こそいつものような黒いドレスだったけれども、跪くように言うと手を伸ばして僕の頬に強い平手打ちを喰らわせて、その傷や痛みを自分の腹で押さえて受け止めるように髪や首を引っ張って抱き寄せた。それに小声で何度も「死んだらどうするのです」とか「あなたは悪くないのに」とか呟くのが聞こえた。彼女はもしかしたら「あなたたちは悪くない」と言っていたのかもしれない。実際の言葉が何であれ、彼女は僕を責めなかったのと同様に桑名のことも責めてはいないようだった。

 僕の記憶はあまりに不鮮明で、ほとんど印象だけで思い出しているけれど、僕はこの時、これからはタリスのために生きようと決めていた。それは確かな事実だ。彼女は絶対だ。変わってゆくことも失われることもない。例えばそれは人類が神々の世界に求めた「美という概念」のようなもの。それに、彼女は僕を愛してくれている。これ以上のものはないと思えたのだから。

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