紅葉と紺色の狐12
次の日は九木崎の千歳の研究所が監査団の立ち入りを拒否したというニュースが流れていた。新聞の産業面で見たのが坂本と一緒に朝食をとった時、テレビのニュースで見たのが昼に海軍基地の食堂で案内係の少女とカレーを食べている時だった。
横須賀での仕事は三日目にしてようやく午前中から始まった。陸軍や贋に懐疑的なお偉い方も僕の実力を認めたということだろう。一日がかりで軍艦一隻を任されることになった。やえやま型掃海艦〈さくら〉。どうせなら昨日乗った〈うらが〉の方が大きい艦だからやりがいがあったんじゃないかと思ったけど、大きい分だけ部隊で重要な機能を果たしていて、それを任せられるほど僕のことを信用しているわけでもないってことだ。今回の僕の派遣自体に海軍にとって贋がどれだけ有益かを試す意味があるのだ。駆逐艦や空母なんて一級の戦闘艦に潜れるのはずっと先のことに違いない。
しかし〈うらが〉より〈さくら〉の方がいくらか古い艦だ。古いシステムは新しい基準に対応したり使いやすさをを求めたりして改造を重ねるうちにだんだんと不安定になってくる。従ってシステムの綻びや弱点を見つけるという僕の仕事には大きな意味がある。僕の感覚としては、新しいシステムは構造が簡潔でやりやすいのだが、使い古されたシステムというのは母屋があって離れがいくつもあって、しかも各々に増築部分があるすさんだ屋敷といった感じで、地図を手に回っているだけで頭が痛くなってくる。
せっかく早く来たのに昼まで実動は一切なしで、乗艦してから艦内を回りながら各部署の管理者にレクチャを受け、僕はメモを取りながら午後のプランを練った。
「拒否……、なぜ拒否したんでしょうか」案内係の少女は言った。九木崎の件だ。配膳から席に着くまでちらちらテレビに目をやっていた。
「僕も驚いてるよ。でも軍の監査だって強引な感じがしたもの。不具合機からいきなり製造ラインに飛ぶなんてね。まずは部隊配備されている同型機から検査していくのが筋だろう。これじゃ軍が九木崎の工場を押収したいんだと思われても仕方がない」
少女は右手を体の前で立てていただきますと言う。僕も食べ始める。海軍カレーというやつだ。周りからの視線から察するに、贋にもその味がわかるのか試されているらしい。しかし困ったことに、美味しいと反応するのが正解なのかまずいと反応するのが正解なのかわからない。つまり、彼らは「わかる」というのをどうやって見極めるのだろうか、不思議なものだ。僕が「うまい!」と叫べばそれで満足だろうか。
「軍はどうして工場が欲しいんですか」少女は訊いた。
「今さ、中央と西部統合群で指揮系統が対立してるだろ。九木崎は一応中央の手中にあるんだけど、対立には大賛成ってわけでもないんだ。中央が投影器関係の技術を完全に掌握できれば西部に対して決定的な切り札になりうるんだけど、九木崎としては中央の利権を気にかけるより普通に西部にも売った方が利益になる」
「私、あまり詳しくないけど、西部は関西に肢闘関連技術の開発拠点が欲しいのでありませんか」
「そう。九木崎も千歳じゃ不便だから、鷲田大将の計画に従って立川・相模原とか硫黄島とかに拠点を移そうとしてたんだけど、これが西部の意向通り一気に西側まで広げることになると、人材も足りないしネットワークも不備だらけになる」
「ネットワークというのは? 重要なのですか」
「うん。九木崎が設計した肢闘には専用のデータリンクが設定されているんだけど、それが拠点サーバをハブにした有線志向のものなんだ。一応従来ネットワークにも対応しているから独立運用もできるし、実際西部ではそれで普及しているんだけど、いざ他の企業が肢闘を開発した時に西部式のネットワークを前提にされると困るんだ。肢闘の開発は軍と九木崎が二人三脚でやってきたことだからね」
少女は日々勉強という感じで頷いてスプーンを進めた。テレビも次のニュースに移った。
「君の知り合いには贋は居ないの?」
「贋、ですか?」
「ああ、僕みたいな肢闘回し、端子付きのこと」
「いいえ。心当たりないです」
「そう。人材が足りないっていうのは技術者の話で、オペレータはいくらか余剰があるんだ。育てた分を全部駆陸団に回すとちょっと多いから、他に風変わりな肢闘を持ってるとこに何人か派遣して専門技能を身につけるカリキュラムがあるんだ。ここの掃海隊は昨日見せてもらった通り水蛇を持っているから絶対に何人かいるはずと思ったけど、君とは交流がなかったみたいだな」
「あの水蛇を使う担当の人がこの基地に居るのに、あなたが、その、なんというか、わざわざあの水蛇を点検したのですか」
「うんうん、そう思う気持ちはわかる。贋にも得手不得手があって、たぶん僕があの水蛇を本来の用途で動かそうと思っても一発では決まらない。体の感覚があの機械の形にマッチしないから。なんというかな――」僕はスプーンを置いて右手を開いたり閉じたり、伏せてテーブルを叩いたり撫でたりしてみる。「自分の体か、それとも自分の体ではない環境か。そういう認識の差があって、僕が環境としてネットワークを知覚するのも訓練だけれど、水蛇を動かす連中も長い適応訓練を経て晴れて現場に出るわけだ」
「へえ」少女はいたく感動して目を大きくした。
「うちの部隊も近々大きな被害を受けてね、方々に出向しているのを何人か呼び戻したんだ。やっぱり水蛇のオペレータも居たな。どこの基地からかは聞かなかったけど。
「さあ……」
「そう、まあ、心当たりがないって言ったものな」
僕は先に食べ終わって水を飲みながらテレビを見ていた。少女がカレーの感想を訊いたので、おいしかったと答えた。実際だ。ただ食器がスチールなのでかちかち鳴って精神的にはおいしくなかった。少女は少し汚い食べ方しますと断って、皿を持ち上げて縁を咥えるように最後の一口を食べた。皿を持ち上げた状態でスプーンを使えないせいだ。
我々は盆に食器を載せて厨房に戻した。人の流れを避けて廊下に出る。
「右腕は自前?」
「左腕がないだけ。他は全部自前です」少女はいつになく強張った表情で僕を見上げた。
「訊かない方がよかったかな」
「あの、さっき、潜る、っておっしゃいましたか」少女は別の質問をした。
「ああ、うん、投影器のケーブルを挿してシステムをモニタすることだね」
「あのケーブルを挿している間、体の感覚はありますか」
「うーん、ある時もあるけど、すごく暇な時くらいかな。集中している時はこっちの体のことはあまり気にしていられない」
建物の出口に来ると外の様子がかなり変わっているのがわかった。空がどんより暗くなって雨が降っていた。少女は硝子戸越しに見上げて「雨……」と呟いたあと、肩に掛けていた鞄を床に下ろして丸めて小さくした外套を取り出した。雨合羽になるように防水加工されてフードも付いている。なぜか僕の分まで用意してくれているらしかったけれど、生憎バイクで遠出する時は雨具を常備していた。外には不規則な風があって時折雨が左右に流れた。雨粒がばちばち跳ねて体の表面を冷たくした。
「時々ですけど、思うんです、私も肢闘に乗れたらって。二十年前も生まれていたら、たとえ腕を切られていても、それからすぐに九木崎に攫われて気付いたら体ももとに戻っていて、同じ仕事をする仲間がいて」
「どうしてそんなふうに思う?」
「……だって、ここは狭いから」
「ううん、しんどいよ。理想の職には程遠い。特にオホーツクの頃なんか地獄だ」
「それでも、いくら環境が厳しくてもその中で立派に生きている人たちがいた。どれだけ血を飲み血を流しても人間が人間らしく生きる道から逃れることはできないことを一番よく知っているのが肢闘に乗る人たちなんだと思います」
僕は表面的には気のない相槌を打って視界の端で少女を観察した。歳はたぶん十四五で冴より幼い。僕は感心したのだ。案内役として基地本部と現場のパイプ役に走っている様子を見る限りでは軍社会での生活に慣れているという感じはまるでしない。けれどそれが絶対的な意味での未熟さなのだろうか。社会での生き方を立派に身につけた大人だからって心に染みるような美しい感性や言葉を持っているとは限らない。むしろ少ないかもしれない。そんなろくでもなくまっすぐな種類の人間とは違う、何かのきっかけで枝を伸ばす方向を変えられてしまった少数勢の人々にこそ、僕は積極的な関心を抱いていた。特に、桑名を死なせてしまってからの僕は。
「一時まであとどれくらいある?」僕は訊いた。
「一時間以上あります」少女は答えた。
「昨日の水蛇、また使えないかな」
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