紅葉と紺色の狐13

 自動セットアップが完了したか確認したいからと言い訳をしてなんとか〈うらが〉に入れてもらった。昼休みとあって格納庫にはほとんど人が残っていなかった。

 水蛇の操縦席からショコネットに接続して聖堂のファサードに降りる。

「…誰だ?」

 それは僕の見知らぬ人だった。顔はタリスにそっくりだが、そこは問題ではない。服装の趣味が全く異なっていた。司書などは建築に合わせたゴシック調のものを着ているのだが、目の前の誰かが着ているのは現実の現代の衣服に沿いすぎていた。襟の高い革のジャケットに深い赤色のフレアスカート、ロングブーツ。外部の者に違いないと思った。今まで他者との接触の経験なんて無かったけど、勘が働いた。彼女には僕が来ることもいつ来るかもお見通しだったようで、表情には驚きというものがなかった。まるで宿敵を待ち伏せしていたみたいな目だ。

「何の用だ」僕は訊いた。一方的にプレッシャを与えられているのが気に食わなかったのでちょっとねっとりした口調になった。

「少し外を歩きませんか」

「僕はあそこに行かないと」

「アーカイブはまだあなたには会いませんよ」

「君、誰? 二回目だけど」僕は相手の脇を通って身廊に入ろうとしたが振り返った。

「タリス。その記憶は人類を眠りに導く」

「いや、そうじゃなくて」

「じゃあ、ミメオグラフ〇一。長コード省略。アーカイブは私のことを何も言ってくれませんでしたか」

「ミメオグラフというのは知っている。でもそれがここに居るというのは変じゃないか」

 肢闘を動かすには、特に投影器適性の低いオペレータが操縦する時には機体制御プログラムとしてのタリスの補佐が不可欠だ。通信途絶下ではショコネット・データリンクから個別の機体にダウンロードされているプログラムが独立して機能を維持する。それがミメオグラフだ。戦闘では機体ごとに個別の戦闘データが収集されるから、通信回復後にタリス本体の中枢サーバ、いわゆるアーカイブにデータを集積する形でミメオグラフは消滅する。従って中枢サーバ内の聖堂でミメオグラフが存続しているというのは不可解だ。ちなみにショコネット圏外で活動する機体にはタリスは関与しないので、いくら独立していても西部方面軍が装備している搆狼などにはミメオグラフは生成されない。

「そうです。一般のミメオグラフは通信回復後にすぐ同期されて消滅します。私の場合は同期期限を超過して活動したためアーカイブに拒絶されました。すなわち、彼女は私を他者として認めているということです。絶対に口では言いませんけどね。…なんて、私の誕生秘話はどうでもいいでしょう。さ、行きましょう。サイレン、あなたがサイレンですね?」

「サイレン? 僕のコールネームのことか」

「他に何かありますか?」ミメオグラフは半分だけ振り返った。確かに僕の知っているタリスだったらもっと冷たい視線を飛ばしてきたはずだと思う。

 ミメオグラフは聖堂に入って南側の側廊の端をすとすと歩いていった。途中で正午を告げる一日で最も賑やかな鐘が鳴って聖堂内に低く太い響きが残った。翼廊の奥側に建てられた階段を上って屋外に出る。翼廊から東側は控壁と身廊の間がテラスになっていてパリ的な街並みを見渡すことができる。ここではいつも空が晴れているけれど、巨人の鎌みたいなフライング・バットレスが頭上から濃い影を落としていた。我々は景色を前にして身廊側に置かれたベンチに座る。アーチの形に沿って嵌め込まれたステンドグラスを背にする。ここにも西洋ゴシックと同じように聖書主題の絵が描かれているのだろうか。それとも神道主題だろうか。見てもわからない。何かしら人為が描かれているのだが、とにかくその技法は西洋式だった。

「私はここでは何も占有できません。昔に比べたら常にサバイバルです」ミメオグラフはトートバッグから魔法瓶を出して蓋に注いで僕に差し出した。紅茶だと思ったのにほうじ茶だったので危うく噴き出しかけた。

「で、君は回収を拒絶されてこの界隈を彷徨っていると」

「違います。そんなわけないでしょう。こんな魑魅魍魎とした空間に寝泊まりするなんて、いつ精神をおかしくするともわからない。私にはちゃんと体があります。生身が」

「じゃあどこかにダウンロードしたんだ。アンドロイド? 肢闘じゃ不便だろう」

「アンドロイドです」

「彼女は僕とは会わないが君とは会うわけだ。条件はほとんど同じなのに」

「アーカイブはあなたが思っているよりもずっと芯の弱い女です」

 僕は身廊の高い屋根を見上げた。背中と首がずいぶん捻じれた。高いところに鳩の巣がある。親鳥がやかましい羽ばたきを立てて出入りしていた。「そんな悪口をよく言う。聞いてるだろ」

「わかっていますけど、私があなたと話せる場所は他にありませんよ。それに、アーカイブだって私が全部言い明かしてくれてしまったらと願っているのです。口では言いませんが」

「口では言いませんが、ね」僕は蓋を返して立ち上がり、テラスの端まで煉瓦の上を歩いた。下の庭にはリンゴの木が等間隔に植わっていた。

「私のような存在を除けば、現状、この世界を最もよく認識できるのがあなたでしょう」ミメオグラフは魔法瓶を仕舞って鞄を肩に掛け直した。少し声が遠い。内陣方向へ歩き出す。「ここから出たことのないアーカイブにとって、あなたのような存在が現実しか知らない人間と最も異なる点は何だと思いますか」

 僕は手摺を離れてミメオグラフの少し後ろに追いついた。

「タリスはここから出たことがない?」

「それがアーカイブの弱さの原因なのです。アンドロイドを差し向けて手に入れた人間の感覚も、結局は知識として知ることのできる他人の感覚でしかない。アーカイブがアーカイブとしての個性を求め、かつ、この世界ショコネットをいわば大きすぎる身体として設定してしまった結果、その身体を介して得た全ての情報はアーカイブにとって自分の感覚の外にある、もう一つ外側の感覚です。感覚なんかではなく知識といってもいいでしょう。つまりあなた方が肢闘を操縦して肢闘の感覚を介して感じることよりも、アーカイブにとって現実というのは遠い外側のことなのです」

 僕はまたステンドグラスの内側を覗いた。硝子の歪みがきらきらと光を反射する。

「いわば、ラムネの瓶に入っているビー玉です」

「それがタリスの本音?」

「本音というか、本心です。彼女自身が言い表すことのできない本心を、私は客観視できる」

「なぜそう言い切れる?」

「かつて私たちが一つだったからです」

 我々は短い間見つめ合った。それは男女関係の優雅なものではなくて、ギャングが商売相手を信用するかどうか決める時みたいなきわどい感じだった。

「僕はここへ来てタリスの本心に触れようとしていた。でも自信がなくなったな。君には全部わかるみたいじゃないか」

「現実のタブラに表す表情や言葉が全くの偽物だということを前提にした言葉ですか」

「それはそうだ」

「じゃあ、私の先ほどの質問に対しては、あなたの特権はアーカイブと話ができること、という答えだと思っていいんですね」

「そう、それでいい。でも話すだけでは結局タブラと同じだ。彼女の本心は何もわからない」

「アーカイブがなぜあなたと会いたくないのか教えましょう」ミメオグラフは立ち止まって太陽を仰いで目を細めた。「アーカイブはあなたのことが怖いのです」

 まさかな、と思って僕は笑ってしまった。「このちっぽけな脳味噌がどうのこうのと散々罵倒しているのに?」

「あなたが話す時じっと目を見て見透かされているようなのが怖い、と言っていました」

「そんな、まるで人間みたいじゃないか」

「そうでしょう、人間臭いでしょう。私たちには結局他者として触れ合える同類が少なすぎたのです。同じ社会の中で接触を許される相手は人間だけ。気付かぬうちに心の規格を人間のものに近づけざるを得なかった。近づけたくなってしまった。贋が結局人間の形態に落ち着いたのと似たプロセスなのでしょう」

 僕はミメオグラフの言葉を聞いて全身が音叉みたいにじーんと震えた。もしそれが本当なら、失望したし、きっと悲しい。

「おやおや、そろそろ目を覚ました方がいいかもしれませんね」ミメオグラフは鞄から小さなモニタを取り出して二人の前でテレビサイズまで拡大した。水蛇のテレビ通信用カメラから撮った映像らしい。操縦席で眠る僕の頭の上に制服の紺色が見え隠れする。誰かが耐圧ハッチから操縦席に入ろうとしている、と思った瞬間、案内係の少女が逆さまになって僕の上に落ちてきた。アームレストに額をぶつけて、首の骨は大丈夫かという具合に背中がぐにゃっと反る。彼女は真剣に痛そうな顔をしていた。痛い時の顔って女の人の見たくない表情ベスト3に絶対入っている。でも僕の体にも相当の衝撃があっただろう。そう思って両手で胸や鳩尾を確かめた。弓狐のコクピットは密閉式だからこんな事故はまず起こらない。

「残念ながらVTRです」

「それから?」

「こうです」

 少女は打ち所が悪くて気絶してしまったのか僕の上で目を閉じていた。眠っている僕の上で少女が眠っているというなんともいかがわしい状況である。

 ミメオグラフはそれを見てさすがに笑った。「あなたも存外多情な人ですね」

「違う」

「早く戻った方がいいですね。またいつか話しましょう」


 僕は体を動かさないように気を使って戻ってきて、まず自分の体に痛みがないか調べた。幸い腹筋に刺さった感じがあるくらいだ。次いで変なスイッチでも押されていないか見回して確認する。ロックはかかっているはずだが、作業腕を突き出しでもしたら格納庫をぶち破って大問題になりかねない。幸いなんともないようだ。それから案内係の少女の方を確認した。額はどうか前髪を避けてみると、果たして赤く変色してこぶができている。

「諏訪野さん」

 急に呼びかけられたので僕は猫みたいにびくっとした。「はい?」

「なんでもないです。呼んでみただけ」少女はせっかく開けた目を逸らした。

「なに、言ってごらんよ」

「大切な人、いますか」

「大切な人?」

「はい」

「うん、居る」それは嘘ではなかった。僕は怪我を調べるふりをして頭を撫でた。人間の体というのは温かいものだ。

「ここから離れたところ?」

「…まあ、離れてるか」

 少女はぐいっと体を起してハッチの取っ手を握った。「羨ましいです」

「その人のことが?」

「はい。あの、様子を窺おうとしたら落ちました。ごめんなさい」

 優しさが人を傷つけることもあるということを僕は知っていた。でも、だからといって優しさを押し殺し続けることで誰かを守ることができるというのだろうか。

 僕はどうにも自分の判断力が信用できなくなって、もう一度しっかりと機内の状態が元通りになっているのを確かめてから少女のあとを追ってハッチを抜けた。

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