紅葉と紺色の狐9

 その夜はホテルの自分の部屋で冴に手紙を書いた。昨日よりも筆は速かった。でも、もしかしたら書いたけれど封筒には入れられないかもしれない。伝えるべきでないことまで書いてしまったのではないか……。あまり眠れる気がしなかった。

 坂本とはあれから大事な話をした。彼女は手摺を頼りに立ち上がると、ハンカチで涙を拭いてライタの角で少し瞼を冷やした。それから歩きだというので僕はバイクを押してホテルに戻った。いや、これはしんどかった。CB250なら故障の時にディーラまで押していったことがあるけど、立川周辺は平坦なのに対して横須賀は実に坂ばっかりだし、それに675RはCB250より車重が二十キロも重いのだ。でも坂本が後ろには乗りたくない歩いて帰りたいと言ったから仕方がなかった。

 ホテルに戻るとレストランに入って夕食にした。時刻のせいか混雑していて、席を取るまでに十五分くらいかかった。僕はちょうど体を流したい気分だったのでシャワーを浴びに一回部屋に上がり、着替えを持ってきているのが下着だけだったので浴衣にどてらを着て下りた。坂本は席で待っていて、適当に注文してしまったけどいいかと訊いた。いまさらだめだとは答えられない。料理はマルセイユ風といった感じで、オードブルにタコのカルパッチョ、メインディッシュがスズキのムニエルとブイヤベース、それに簡単なドルチェとコーヒーがついた。考えてみると今日は三食とも坂本と一緒に食べている。佳折とだって滅多にしない。写真を見せた京都旅行の時くらいだ。そういう意味では同じ家に住んで食事をともにする家族という関係は稀有なもので、もし我々が本当に親子なのだとしたら、歪ではあるけれど、本来的な状態にあるのかもしれなかった。

 坂本は食後のコーヒーが来るまでほとんど核心的な言葉を発さなかった。お互い別々の料理をシェアして、おいしいとか塩味が強いとか、夕食の時にするべき会話はもちろんあった。でも我々がどういう関係にあるのかという話を始めたのはコーヒーを啜ってからだった。

「さて……」と坂本は前置きした。「まず、名前の話からしようか。ユウっていう君の下の名前は私が付けたんだ。私が君の生みの親で名付け親。育ての親ではないんだけど……、ねえ、君、あんまり驚いてないみたい?」

「いや、驚いてるよ。でも、さっき聞いたことだから」

「そう、さっき。さっき驚いてないみたいだった。ずっと無感情に構えていて。もし君が知っているんだったら、私がこんな真剣になって話すのなんかまるで馬鹿みたいじゃないの」

「いや、知らなかったさ。本当のことはあなたから聞いたんだ。あなたから聞かされたのが全部最初だよ。タリスはそういう話全部躱しちゃうから。僕が驚かないように見えるのは単に軍人だからじゃないかな。予期してなかったからって頭に来たり感情を露わにしてはいられない」

 それならいいんだけど、という感じで坂本は息をついて何度か頷いた。それはそうだけど、でも、軍人やってることで感情が薄くなってしまうのはよくないな、というニュアンスも含まれていたと思う。

「タリス、この話は聞くだけというわけにはいかない」僕はタブラをテーブルの上に出した。自分でタリスと口に出して思い当たったからだ。

「何の話だったっけ」坂本は訊いた。

「名付け親」

「そう、名付け親ね。端子付きの諸君が代理母から生まれていた一時には、代理母に子供の命名権があったからね。あまり知られていないことだけど、そうだったんだよ。他の多くの九木崎の代理母と違って、私は君一人しか産んでいない。お金に困っていたわけではなかったんだ。ただ子供が産んでみたかった。でも男と交わってつくるのは嫌だった。少し複雑。そういう私にとって、まあ、膣にピンセット突っ込まれるのは全然いい気分ではないんだけど、代理母というのはそれなりに理想的な選択肢だった。でもいざやってみると虚しいものだよ。自分には何も残らないんだから」

「代理母が名付け親だったのか。養家の人の権利だとずっと思っていたけど」

「それはブロックCからね」

「僕は贋じゃない、か。養家のことは?」

「何にも知らない。タリスは教えてくれなかった。ま、タリスじゃなくたって、軍とか公安ならそれくらいの情報は隠すでしょうという感覚ね。でもユウという名前と出生年がわかっていれば、軍のデータベースにアクセスして新しい名字くらい知ることはできた。ああ、諏訪野さんか、どんな人なんだろう、って。そしたら戦車関係では名のある人なのね。論文もいっぱい書いてて、こんな立派なところに引き取られたんだって」

「それってまずいんじゃないかな」

「そうかもね。でも親だったら誰でもすること。それくらいは許されていたの」

「そんなことしたら、会いに行っちゃう人――」

「私みたいに?」

「そう」

「でも、君は特別だから。私も」

「どう特別?」

「特別っていうのは、そうだな、タリスにとって特別ということかな。君は今自分のことをブロックBだと思っているのかもしれないけど、それは少し違う。ポイントがいくつかあるんだけど、まず、ブロックBはほとんど中枢神経を培養するためだけに代理母の腹を使うでしょう。ほら、怪物みたいな奇形児で生まれてくるから、すぐに体を取り換えなきゃいけない。手足の神経なんかほとんど未発達で結局人工で用意しなきゃいけなかったりして無駄が多かったのね」

 坂本は視線を横に振って周囲を気にした。生々しい言動の自覚があったようだ。食べ終わってからにして正解の話題だったかもしれない。客はそこそこ減って隣の席には空いている状態だったが、ホールスタッフは我々の横をするする往来していた。

 坂本の知識は趣味で十分あり得る程度だ。九木崎が大々的に広報なんかしているわけもないが、外部による鋭いレポートはいくつか出版されている。

「その点、君は私の腹の中で完全な状態まで育てられたの。十月十日で自然分娩、出産まで完璧だった」

「じゃあ、いわゆるベータCだ。ブロックCのテストタイプ」

「でも、君より歳上のブロックCも居るんじゃない? ブロックCの製造開始がちょうど二十年前の九月。私が君――というか受精卵を子宮に入れたのは同じ年の十月だった」

「そうだ。それは確かにそうだ。だけど、僕と同じでタリスに巧く勘違いさせられて自分のことをブロックCだと思っているのかもしれない。九木崎の記録もいい加減だから」

「いや、九月分の製造記録がきちんと残ってるの。じゃあ、二つ目、君の場合、私の実の子でもある。私が血の親でもある。私の遺伝子が半分、タリスの用意した遺伝子が半分」

「どういうこと?」僕はさすがにびっくりして背筋を伸ばした。

「やっぱり私の事情は色々と特別なの。私は別に求人応募したんじゃない。先にタリスの方からコンタクトをとってきた。うちにアンドロイドを一人差し向けてね。もちろん最初は普通の人間だと思った。キサラギ・アオイと名乗ってね、その方がいかにも自然でしょ。彼女は私に是非とも頼みたいことがあるって言った。いくらか九木崎や事情の話をして、アンドロイドだということも自分で言った。だから、私の子を産んでほしいのですと言ったのは、きっとタリスの言葉だった。

 実は私の家族から一人端子付きを出してるの。君のことじゃないよ。私の弟。何せ兄弟が多くて、真相を知らされたのは彼がいなくなってずっと後のことだったんだけど、彼は私の弟でもあり、甥でもあった。私には少し歳の離れたお姉さんがいて、父がその姉に産ませた子だった。産ませたって言っても強制的ではなかったみたいだけどね。姉も進んで抱かれてたみたい。母がそれを問題にして離婚して、姉と弟は父についていった。私たち、つまり母と兄と私と妹の方だけど、これは厳しいなりに何とか生きてた。でも向こうはだめだったみたい。事故って聞いたけど、さあね、事実はどうかな。弟本人から聞いたんだ。彼がまだ生きて千歳基地に居た頃、あっちから連絡してきて来られないかって。本当は会うべきじゃないんだろうけど、伝えておかなきゃいけないこともあるからって。本当に、当時の肢闘乗りほど酷いものはないってありさま。親が居なくなったあと児童保護施設に入れられて、そこでまとめて九木崎に引き取られたらしい。九木崎は当時ブロックAのためにいくらでも素材の欲しい状況だったから、孤児院のローラーは常套手段だった。社会の方も悪くてさ、子供の育てられない親が増えて宙に浮いている孤児なんか余るほどいた。そのへんは良くも悪くも合致していたわけだ。あの頃は他にもいろんな噂があってね、赤国の拉致、単なる人身売買も含めて人攫いがすごく多くて、九木崎もそれをやってるんだろうって言われてたね。近親相姦で生まれた子供は血が濃いから改造しやすくて、だから狙っているんだなんてゴシップもあった。弟は実際だったけど、別にそれが根拠じゃない。選んで拾うより、拾ってから選んだほうが合理的だった。

 ごめん、少し関係のない話をしたね。タリスのアンドロイドはその弟のことを持ち出したんだ。とても優秀なパイロットだったって。私のところへ来た理由もそれ。肢闘の適性が何でもない普通の人間の家系で決まるなんておかしな発想だし、自分がタリスにとって都合のいい存在になってしまっていたことにはさすがに哀れな感じがしたけどね、なんにせよ私には子供を産むことそれ自体はとても希望に満ちたことだと思えた」

「じゃあ、あなたの弟さんはオホーツク戦役で亡くなったんだ」

「そりゃそうよ。詳しいことは教えてもらってない。でも死んだのは確か。遺書が届いたから」

「戦死だったか、寿命だったかも?」

「そう、わからない。君を最初に見つけた時さ、何というか、夢みたいだったな。もちろん息子という意味でもあるけど、最後に会ったあの子にあんまり似ているものだから」

 坂本はそこでコーヒーを飲んで、だんだん前に屈んできた体を起して少し休んだ。

「それから? タリスが家に来てあなたが提案を飲んでから?」

「二度目の北海道よ。基地の周りなんかすっかり閑散としちゃってね、もともとの放牧地帯みたいで、それはそれで清々しかった。基地は閉まってるのに九木崎の研究所だけ賑やかに操業していてちょっと不思議な感じがしたな。まさか君は憶えてないと思うけど、立派な病院みたいな作りをしているんだ。横に投影器なんかの機械を造るちっちゃな工場がついててね。私はそこで普通の人工授精と同じに排卵の制御から入って経過を見て、一ヶ月くらいかな、オペ室に入って注射器で卵子を取るの。次の日に受精卵になったのを戻して、めでたく着床妊娠よ。ここまで順調なのも珍しいってお医者さんは言ってたね。そんな褒め言葉は逆に辛くもあったけどね。研究所の近くにゲストハウスがあって、妊娠中はずっとそこで生活していた。検診は週一で、最初に私の所に来たアンドロイドが出向いてくれた。タリスにとっても二度とない機会だからきちんと記録を取っておきたかったんだろうね。用もないのにお菓子を買ってきたりしてさ。軽く悪阻もあったし、後期は体もだるかったから結構助かったよ。割と面倒見がよくて、君を普通の端子付きとして育てるからには会わせることはできないけれど、九木崎で雇うことができるとも言ってくれた。でも私は断ってこっちに戻った。そこはけじめをつけるべきだと思ったから。だから、こうやって君に会うことになったのは、少し不甲斐ない。こんな段取りをしてくれるくらいならはじめから引き離さないでくれって、タリスに対して憤りも覚える。だけどやっぱり、こうしてみると、今日まで生きていたのは間違いじゃなかったと思うよね」

「僕は養家の人だってお父さんお母さんと呼べないような冷たい生き物なんだ」

「いいよ別に、いまさらお母さんなんて呼ぶ努力はしなくて。その代わりと言っちゃあなんだけど、少し頼みがあるんだ」

 坂本は席を立ってロビィを抜け、エレベータに乗って彼女の部屋の階まで昇った。エレベータホールが小さなロビィになっていて、ソファが二つと自販機が一基あった。灯りは壁の案内灯だけで一階に比べればずっと暗かった。人気も無い。彼女はそこで僕をソファに座らせて肩をつかんだり頭を胸に抱いてみたりした。佳折にそうされる時より温かみが少ないと感じた。抱かれている実感ともいうべきだろうか。恋人の愛というのは等質で、だから淀みなく通じる。でも親子の愛というのは親から子へ、また子から親へ向けられる思いが全然別物だから、そこに愛があるのはわかっても、でも絶対的に食い違ってしまうのかもしれない。

 坂本は僕の首筋を撫でつつ、養家のお母さんってどんな人? と訊いた。立派な人だよと僕は答えた。夫が忙しくても文句は言わないし、子供としては良くも悪くも佳折が熱弁する賢母像に適う人だ。

 坂本は僕の話を聞いて少しの余韻のあとに体を離した。

「もういいよ」と彼女は言った。

 僕にはそれが別れの挨拶みたいに聞こえた。坂本は死の予感があると言った。彼女が死んだら僕は少し悲しい。何もしないよりは何かした方がいい。自分の体のことを考えると僕は坂本に借りがあるような気がした。しかもその借りは僕が笑ったり喜びを感じたりする度にこれから先も増え続けていって、どこかで完全に精算できるものではなかった。

「家政婦の仕事は、鷲田大将の所だけ?」僕はソファに座って体を前に倒したまま訊いた。坂本は向かいの丸テーブルに寄りかかって後ろに手を突いていた。

「今はね。ほら、事情が複雑だから」

「活動範囲は?」

「基本的には県内。色々転々としてたから寝泊まりはホテルがほとんど。荷物を置いておけるように横浜に小さなアパートがあるけど」

「わかった。ひとつ頼みたいことがあるんだ。僕の養家の諏訪野家は今仕事で三人とも海外に行っていて四月まで戻らない。僕も基地の近くに下宿していて、相模原の家を空けているんだ。一応月に一度くらいは僕が掃除しに行くんだけど、ハウスキーパーをやってくれる人がいたら楽だなって思ってた」

 僕はキーホルダから家の合鍵を外して差し出した。坂本は硬い笑顔でしばらく見つめているだけだったが、僕がめげずに押しつけているとなんとか折れた。

「もう、みんなして私に頼むんだから、まったく」

「今住所を書くよ」公衆電話の横に置いてあるメモセットで彼女に渡すのを作った。

「しばらくは鷲田邸に入り浸ってると思うけど、うーん、相模原だと微妙な距離だな」と彼女は現実的に苦笑いした。「君の仕事はいつまで?」

「横須賀は明日で終わり。朝チェックアウトして、また港で仕事をして、それで直帰」

「じゃあ、明日また朝ご飯を一緒に食べて、それでお別れかな」

「うん、おやすみ」

「おやすみ」

 エレベータに乗って階を移り、暗い廊下を自分の部屋まで、その短い時間に僕は少しだけ泣いた。よくわからない。でも坂本が今まで生きてきた道のこと、これから生きていく道のことを考えるととても悲しくて孤独な気持になった。

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