紅葉と紺色の狐7

 坂本はヴェルニー公園の端っこで湾に向かってツァイスのスポッティングスコープを一脚に差して覗き込んでいた。あれがてるづき、あれがゆうぎり。カモメの観察でもしているのかと思ったら、そんな可愛いものなんて期待できたものではなかった。

「やっぱりスパイなんじゃないの?」僕は後ろから言った。別に驚かすつもりもない。

「単眼鏡って粋じゃない?」坂本は覗き込んだままで言った。案の定ぴくりとも動かなかった。

「そうだね。ボブ・リー・スワガーの相棒になれそうだし」

「別に粋だからという理由でこれ見よがしに使っているわけではないんだけどね。双眼鏡が駄目なんだよ。どうも両目の視野が合わないんだ。結局ダブっちゃって片目で覗いてる。それだったら初めから単眼鏡の方が取り回しが良い」

「双眼鏡か単眼鏡か、使いやすいのを選ぶのは個人の自由だけど、でも、そこまでして遠くを見なきゃいけないのはあなたの仕事がスパイとかブローカだからじゃなくて?」

「違うよ」坂本は単眼鏡から目を離して苦笑いした。「もう行く? それとも国旗降納のラッパまで聞いてく?」

「別に構わないけど」

「とりあえず一脚持って。仕舞うから」

 僕が一脚を支えて坂本はスコープを外し、ソフトケースに収めてバックパックに仕舞った。僕は一脚を縮めておいた。岸壁沿いにベンチが並んでいて湾と東の空を見渡すことができた。太陽が沈むのと反対方向だから空の色はほとんど藍色だった。

「ガールフレンドなら居るよ。確かその質問を最後に遮った気がする」僕は坂本の右手に座って、彼女の反応には注意を払っておこうと思った。今は気分が良さそうだ。

「結婚は考えてるの」

「彼女はね」

「君は違う?」

 僕は黙っていた。何も正しいことを言えない気がした。

 僕はタブラを出してデータフォルダから佳折の写真を探して表示した。

「司馬佳折。軍師の司馬、カヲリは佳作の佳に時折の折。素晴らしい時間という意味。十月の休暇に京都へ行って、祇園のお茶屋さんで撮った写真。僕があげた硝子の簪をしてる」

 坂本は僕のタブラを受け取って背中から差す太陽のつくる自分の陰に入るように画面を見た。「可愛いじゃない。もしかして歳上?」

「そう。二十四。東大院生で、基地では保育のアルバイトをしてる。彼女のお父さんの弟、まあ叔父なんだけど、その人が三団の副長をしていて、その伝手もあって。お父さんも下請けの測量会社を持っているっていう軍関係の一族のお嬢さんなんだね。だから特に自然地理に詳しいんだけど、他にも広い見識持っていて、学問的な話でも高校レベルなら基礎教養という感じで色々知っているし、そう、特に結婚や子育てには持論のある人だ。親はこうあるべき、子はこうあるべき。でも子供は親の理想を理解しない。高尚で反俗的で少し過激。でも女の子的な面もあるんだよ。美容には気を使っているみたいだし、でもお菓子や甘いものは好きだし、あとは寝るのも好きだね。僕としては妊娠に熱心なところが厄介なわけだけど。もちろん贋には理解がある。僕を好くくらいだから。でもそれは彼女の境遇にも関係があるかもしれないな。

 彼女は人間だけど、でも目は義眼。未熟児網膜症ってやつ。どうも出産に問題の付き纏う血筋らしい。お祖母さんはお母さんを産む時に死んだって。佳折はそれで六歳まで全盲だった。目の使い方を学ぶには致命的なブランクだったと思う。当時開発されて間もない全能義眼の臨床試験に参加して視力を回復した。今ではちゃんと見えてるよ。型が古いから瞳が灰色なんだ。その写真でもわかるかも。ハード的な問題でちょっと眩しいという時はあるけど、本も読めるしアニメも見る。お父さんが九木崎のシンパでそういう技術に寛容だったというのもあるだろうね。彼女が僕を求めた理由は単純だよ。彼女は僕のことを理解したかった。深く理解したかった。まるで贋が肢闘のことを感じるみたいに、僕のことを内側から理解したかった。彼女は自分が見えなかったから、僕に何が見えるのかとても興味があるみたいだ。僕はさっきまで機械に潜っていた。コンピュータが使う電気信号のための回路という方がいいかな。贋にもいろいろ特化技能があって、僕の場合はそういうシステムを特に具体的に感知するところに長ける。実際的にはそんなものは見たり触ったりできるものではない、俗に言う第六感と同じ、五感を共有する普通の人間たちが築いてきた言語体系ではどうにも表現しようのないものなんだけど、幽霊が絵に描かれるみたいに、当然限定的ではあるけど、視覚的なイメージで表現することはできる。僕にしてみれば、ここから得る情報っていうのは、視覚とか聴覚とか、そういった五感に分類される感覚と並び立っているものなんだ。視覚を拡張するとかいう意味合いではなくて、それだけで独立している。だから人に説明する時視覚になぞらえるのは比喩でしかない。

 ところが彼女に言わせてみると、それは彼女が見えるようになる以前に抱いていた視覚というもののイメージと同じだと言うんだ。視覚は彼女の感覚で捉えられるものではなかった。僕も電子界を捉えることはできない。僕に備わった人間の感覚をそれが超えているからだ。でも持ち合わせの感覚を組みあわせることで想像としての補完は可能なんだ。

 彼女は人を好く時に相手を尊敬していたいと言った。尊敬というのは、自分には決して手に入れることのできない相手の力や気持ちを自分の前で語り表してほしいという思いなんだ。彼女の考え方はよくわかった。なぜなら、僕にも欠陥があるからだ」

 僕は財布から小銭を何枚か掌に出した。坂本は説教を聞くみたいな表情のない顔をしていた。

「僕に見えないのは数字という概念。それは数や量とは違う。小銭の枚数は数えることができる。十枚でどれくらいの重さになるか見当は付く。でもこれでいくらになるのかすぐに計算できない。時計も読めない。機械の息子のくせにな、計算が駄目なんだよ。こんな欠陥品に生きている意味なんて無いと思った。でもタリスは言った。機械だって自分の思考が二進法で行われてるなんてことは想像しないだろうって。それは正しかった。タリスにしてみれば観察してみても面白いという思いがあったのかもしれない。それはそれでいいんだ。もう慣れたし、今は佳折が財布を預かってくれるし」

 坂本は片手でタブラを返し、そのままベンチを立って手摺まで歩いていった。そこでしばらく手摺に掴まって海を眺めているみたいだったけれど、唐突に頽れて泣きだした。

 僕は坂本がベンチに残していったバックパックを持って彼女の横まで歩いていった。

「わからないな。あなたがなぜ見ず知らずの贋なんかのためにそんなに涙を流すことができるのか」

 僕は彼女に口を割らせるために意図的に些か過激な言葉遣いをしていた。自分の話をするというのは身を切ることではあるけれど、彼女が何者かを暴くためには、客観的な関係からは見えない本人たちの感情をあえて僕から語る必要があった。彼女は僕のことを詳しく知っていたが、深く知っているわけではなかった。彼女もそれは自覚していた。

「私は何にも知らないんだね。君のことなら何でも知っていなきゃならないはずなのに、実際知っているのは君という人間には何の意味もない肩書や立場ばかりだった。別に泣きたくて泣いてるんじゃないの。悔しいんだよ。だって――」

 坂本は立ち上がって僕を見上げた。「私が君のお母さんだから」

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