紅葉と紺色の狐6
基地の正門に到着すると案内係の少女は待っていた。オーバーを大きな猫のように着込んでフードまで被って守衛所のベンチで固まっていた。僕が呼びかけると、はっと顔を上げる。待っていた人だとわかり安堵の微笑を浮かべる。屈託のない笑顔。僕は少し救われた気がした。数十年ぶりに地上に出てきた地底人みたいにほっこりした気分だ。
バイクに跨って走っている間、僕は頭の半分で坂本千加子について詮索をして、彼女のことがどうも不思議な人間に思えていた。坂本が親しすぎるのか僕がよそよそしすぎるのか、僕の捉えている二人の距離感と彼女の捉えている二人の距離感に少なからずずれがある。テレビに出ているような有名人なら、初対面のはずなのにこの人は妙に僕のことを知っているな、なんて感覚にも慣れているのだろう。まるでそんな感じだったけれど、僕は新聞にだって載ったことはない。だから、案内係の少女の内気で少し人見知りなところが僕を安心させた。知り合って一日二日ならこれくらいの距離感が適当なのだろうという尺度をきちんと交換できていた。
「あの、寒くありませんでしたか」少女は訊いた。僕がバイクを駐めたところで我々は彼女の先導で歩き出した。「鼻が赤く」
「寒かったけどさ、バイクに乗ったらいつものことだから」彼女の顔を見ると頬や鼻の頭も凍えている様子だったので、もしかして僕の心配ではなくて自分の訴えなのかなと思った。「待たせて悪かったね」
「平気ですよ。えっと、これがあったから」少女は前を開けてポケットから巾着を出した。見覚えのある、ハクキンのピーコックだ。「よかったらどうぞ」
「あ、これ懐かしいな」
燃料とはいえ白金触媒式の懐炉は着火の時にライタを使うだけで発熱そのものには火を使わない。一度点けてしまえばあとは化学反応で発熱を続ける。白金の塗られた火口は熱くなるが火ほどではない。僕は巾着を開けて中のぴかぴかした容器を眺めて少し考えてから眉間に当てた。熔岩の子供みたいに重たい温かさだった。
「僕も昔使ってたんだ。家の中で行方不明になってしまってそのままだけどさ」
「面倒だった?」
「そう、それもあるね」
「私はそれがよくて、です。毎朝ベンジンを注ぐのも楽しみだから」
「いい趣味だ」
「でも、こんなに寒い時の移動には車の方が」
「そうだろうね。この季節だけは車で移動する人が羨ましくはある」
「乗られないんですか?」
「妹の乳母車だったら押したことあるけど」
「本当?」
「本当。そろそろ返すよ、ありがとう」僕は巾着の口を締め直して懐炉を返した。少女はにこっとしたが、僕がなかなか視線を前方に戻さないのですうっと不安げになって蠅でも追うみたいに目を泳がせた。
それから昨日と同じ誓約書にサインをして岸壁を引きずり回される。昨日と同じ展開だった。ただ掃海隊群を通じて掃海母艦の〈うらが〉に乗せてもらえたのは好機だった。うらがそのもののシステムには入らなかったのだけど、搭載されている水中作業艇〈水蛇〉を任されて診察したのだ。
こいつは水蛇といいながらカブトガニの形をしている。しっぽの部分が通信兼牽引用のケーブルになっていて母艦と常に繋がっている。艇内には耐圧隔壁に守られた操縦室があって、基本的には重機と同じように操縦桿とレバーで動かすのだが、座席には投影器の栓が設けられていて、精密作業をする時には選択的に神経接続による操作ができるようになっている。操縦席周りは九木崎がデザインしたので潜航艇としては若干こなれない感じがするという。加えて、有線で母艦からの遠隔操作を可能にしたのはオペレータが耐圧操縦室に入る前に減圧室で体を慣らしておかなければならない手間を省くためなのに、いざ母艦の操縦設備から扱ってみるとタイムラグが大きくて使いづらい。古参の海士には不評だったし、特に投影器を介した場合にはこの遅延が致命的だというので贋に言わせてもやっぱり駄作だった。
僕が喜んだのは珍しい肢闘に触れられたからではなく、その水蛇にショコネットへの接続能力があったからだ。ショコネットは有線が基本なので機体の無線装置で基地のサーバに飛ぶのに少々手間取ったが聖堂まで下りることができた。僕はまっすぐにタリスの部屋に向かった。
ノックをするとすぐに返事があった。タリスは読書用の眼鏡を外してテーブルの上に畳んだ。そこから僕に目を向けたままカップを口に運ぶ。僕が歓迎されていないのは瞭然としていた。ダービー・エイビスプラチナ。日本のデッサンをビザンチンの構成に詰め込んだようなモノトーンの鳥図が描かれたセットだ。
「勤務中にここへ来るとは、職務怠慢ですね。相応の給与を差し引かなければなりません。謹慎による減給も大きいですが、平気ですか」
「だから手短に済ませるつもりではある」僕は手前の椅子を引いてテーブルからやや遠めに座った。「坂本千加子についてだよ。少なくとも彼女にとって僕という存在は特別であるみたいなんだ」
「彼女はあなたのことを人間と言っていましたでしょう」
「言っていた」
「あれが嘘ではないということですよ。確かに彼女にとってあなたは特別です。しかしその逆もまた然りです」
「僕が贋、つまりブロックCではなくてブロックBで、しかも坂本が僕の生母だということか」僕は少し笑った。
「私は答えません。本人に訊いたらいかがですか、まだ会えるのですからね」
「そのつもりだよ」とは言ったが、僕が本当に知りたいのはタリスがなぜ僕と坂本を引き合わせたのかだ。
生母とブロックBの子供を引き合わせることは九木崎の方針で禁じられていた。肢闘のオペレータを養子に入れるのはそもそも外からやってきてそのうちまた巣立って行って帰ってこないという運命を送り出す側に甘受させるためだ。少なくとも、肉親が死ぬ運命にある嫡子を育てるよりもダメージはずっと軽い。そんなものをくっつけてしまっては、せっかく養家として僕を育ててきた諏訪野家の愛情が無駄になってしまう。
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