紅葉と紺色の狐5

 坂本は洗い物を手早く済ませて鷲田邸を後にした。十二時をを回っている。僕の予定を聞いていたので急いだのだと思った。走りも往路よりは緩急があった。だから崖際の待避所に停めた時は不可解だった。

「ほら、いい眺めでしょ」坂本はそう言ってガードレールの向こうを指したが鷲田邸の眺望を知ったあとではいささか見劣りのする景色だった。でも鷲田邸では写真を撮らなかったし、一応相模湾までは見えたのでタブラで何枚か撮っておいた。

「こっち向かないでね」と坂本。

 僕は半分振り向きかけて危ないところだった。彼女がバイクの手前に隠れてしゃがんでいるのはわかった。急用なのかエンジンはかけたままだ。車通りはほとんどなく、したがって車道からの視線は無い。僕がそっぽを向いていればそれで十分らしかった。

「もういいよ」と言うと坂本は道路を渡っていって、苔生した岩の間に手を突っ込んで湧水で手を濯いだ。雫を払いながら戻ってきてそこでようやくスラクストンのエンジンを切った。ジャンパのポケットから煙草を出して火をつける。僕はその一連の姿をガードレールに凭れて眺めていて、バージニア・エスにジッポか……と思ったけど彼女らしいといえばそうだったかもしれない。ぼくもそろそろ坂本についての人物像を組みたてつつあった。でもそれは両岸から延ばされた橋が最後の最後で噛み合わないみたいな不完全で欠陥のあるイメージだった。

「タイミング悪いよね」坂本はスラクストンに寄りかかってゆっくり煙草を吸った。「まあ時間的には問題ないだろうから、少し付き合ってよ」

「どれくらい?」

「一時までならあと四十分くらいはあるよ。十五分もあればホテルには帰れるだろうから」

「まあいいか」

「君には悩みみたいな相談ごとを聞いてくれる人っているの」

「タリスには色々話すけど」

「そうじゃなくて、人間でさ」坂本は口から煙を吐いてサスペンションを少し沈ませた。「つまり、この人と結婚したいと思う人、彼女、そういう人」

 僕も煙草を吸おうかどうか迷った。でもさっき吸ったばかりだし、どう見積もっても彼女の方が先に吸い終わる。ポケットに手を入れてそのままにした。「あなたは僕に訊いてばかりだ」

「訊いてくれれば私も話すよ。でも君が知りたいのは私が何者かであって、どういう過去を抱えた人間なのかじゃない。今の私は別に、何者かというほど意味のある人間じゃないんだ。身分だったらもう全部明かしているよ。間諜とか、内部調査官じゃない。残念だったね。私が思うに、君が人の過去を掘り返さないのは、じゃあ君自身のはどうかって訊き返されるのが嫌だからだね」

「そんなことを言われたって、僕は一方的に探りを入れられている気がしてならないんだ」

「じゃあ、質問したら?」坂本は冷たく挑発的に首を傾げて、そのまま僕の次の言葉を待った。

「結婚、してるの?」

「してたの。一回指輪して、外して、そのまま」坂本は左手を僕に見せてひらひらした。赤く肌理きめの粗い歳相応の手だった。

「子供は?」

「うーん、どうかな」

「代理母とかやってたの?」

 贋は肢闘回しの歴史でいえばブロックCという人工子宮で育てられた部類にあたる。ひとつ前のブロックBは代理母を頼っていた。坂本は女性だし肢闘にも詳しい。その筋はあると思った。

「実の子だったよ。ねえ、ごめん、質問してもいい? 死の予感ってあるでしょう」

「あると思う」

「私にもそれがあるんだ。自分がいつか、手の届くくらいの将来に死ぬだろうって」

「病気でもあるの?」

「無い。無いからこそ、健全だからこそそうやって自分の死を自分で決める時が来るんだと思う」

「兵士の場合、でもそれは本当の最後の最後、もう自分の選択次第ではどうしようもないという時になって初めて感じるものじゃないかな。もしかして自殺のことを言っているのかもしれないけど」

「そう、自分ではどうしようもない。人の命も付けられた傷も、償いが帳消しにしてくれるわけじゃない。旗覧さんの気持ちはよくわかるよ。

 私の子は流産だった。思い出すと今でも胸が痛い。離婚はそれが原因で、お互いの愛が足りなかったからじゃないんだ。愛はあった。ありすぎるくらいにね。私たちはお互いの精神をきちんと愛していたし、社会的な立場も認め合っていた。でも強すぎた。私たちは生き甲斐や幸福というものまでお互いに依存してしまった。わかるかな、二人だけで完結してしまうというのはとても怖ろしいことなんだよ。そこからは何も発展していかないから。子供をもうけるのはそういう意味でとても大切なことなんだと思う。生き物としてね、虚しくないよ、その方が。私も挑戦してみたかった。彼もファックは好きだったし、子供も好きなんだと思っていた。実際、好きだったんじゃないかな。ご近所の先輩夫婦の子供を見かける度に媚売りまくってたからね。ただ、彼にも唯一扱い方のわからない子供がいたんだ。それは自分たちの、私と彼の子供だよ。彼はね、私の愛情が子供に移っていくこと、そして彼自身の愛情が子供に移っていくことを怖がっていた。夫婦なんて結局は血のつながりのない他人なんだし、そういう家族関係の複雑さみたいなものを愛のフィールドに持ち込むのを認められない人間だったんだ。だから流産させた。私たちを別れさせたのはその痛みや涙や悲しみじゃななかった。もう二人に進める先の未来は無いっていうおそろしく寒い実感だったのよ。コンクリートでできたでっかい突き当たりみたいなね。

 幸い私にはまだ両親もいたし、兄弟もいた。兄も妹もきちんと家庭を持ったから、独身の私を扱き使う理由は潤沢だったよ。私も忙しくしている方が忘れられる気がしたし、たとえ他人のものでも家族の中にある幸福を少しくらい分けてもらえる気がしたからね。引っ越しも産院探しも子守りも、なんだってやった。でもフリータというのはそういう意味じゃなくて、いくら役に立つといったって私は家族の一員じゃないからね、穀潰しだと思われるのも嫌だったから、自分の仕事は持つようにしていた。まあでも結局、どれだけ頑張っても普通の生き方じゃないもんね。私を心から認めてくれる人は誰もいなかったよ。彼は別れてからもよくしてくれたけど、自分でだってわかってた。そんな生き方は虚ろだって。何をしてみてもそれは自分の未来には何の効力もないことなんだって」

「未来の無いあなたに、僕は何か効力のある存在なの?」

「そうだよ、もちろん。でも煙草が切れたから続きはまた今度ね。君の今日の仕事が終わるくらいに港の近くに居たら見つけてくれる?」

「ホテルじゃなくて?」

「横須賀に居て実は軍艦をまだ近くで見てないのよ。せっかく暇だから見学でもしてこようかと思って」

「わかった。五時過ぎには上がれると思う。電話」

 僕はタブラを差し出して連絡先を交換した。坂本のは随分型の古い携帯電話だった。

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