白い敵が現れる日17

 立川駅の南東、錦町にある司馬家は模造煉瓦の明灰色が特徴的な一戸建てだった。敷地を覆う塀が門の右手に少し掘り下げられた車庫の間口と一体の平面を成していた。車庫のシャッタは窓付きのタイプで内側に佳折が基地に乗ってくるトヨタ・プリウスとホンダ・レジェンドが並んでいる。黒のレジェンドはとてもぴかぴかしていて、どことなく愛嬌があった。

 彼女は窓を覗き込んで「お父さん釣りに行ったんだわ」と言った。

「どうしてわかるの?」

「クーラボックスを入れるために助手席を前に出すのよ。ゴルフだったらフロントガラスのところに駐車券挟んだままにするし」

「お休みだね」

「そう、とっても今日はお休みって人なの。遊び人だよね」

 僕はくすっと来た。彼女の父は確かにぴかぴかのレジェンドが似合いそうな人だ。背が高くて恰幅が良く、混じりけのない白髪も上品で、少しワイルドな雰囲気もある。釣りだったらいっそフロリダのマリーナにクルーザの一隻でも持っていそうな感じがする。

「ん?」僕が振り向くと、彼女は釣られて微笑をこぼしながら訊いた。

「レジェンドには漁港の岸壁は似合わないな、と思ってさ」

「そうなの?」

「うん、高級車だからね。シーマとかクラウンとか、そういったクラスのフラッグシップなんだよ」例えば、鍵鮫もそうだ。生産数が少なくてコスト高。そういえば先代の搆狼、後代の弓狐より確かに曲面が多い。「漁港よりはカジノの方が似合うんじゃないかな」

「じゃあお父さんには合わないな」

「いや、似合っていると思う」

「褒めてるの?」

「もちろん」

 佳折はまだ訝しげな表情を残して門を入った。彼女は歳上で博識だったけれど教授みたいに堅物ではなかった。僕が教える時には真新しいスポンジのような感触があって、それは若い女の子に共通する性質だった。だから僕はそんな彼女に接すると妙な安堵を覚えた。彼女も普通の女子なのだと思える。贋としての僕に接するべくして接している時の彼女の知識には些か偏りがあった。

 敷地に入ると、玄関のエントランスまでの五メートルほどを四角い飛び石が渡している。両脇の庭にはサザンカの植え込みがあって、ちょうど紅色の綺麗な花をいくつも付けている。ちょっと奥に入ったところの柿の木も色づいた実を提げている。

 彼女が鍵を二つ回して玄関のドアを開くと、真っ先に飛び出してきたのはトトだった。トトは緊張している僕にお構いなしに飛びかかって顔をぺろぺろと舐めた。僕が腋のところを持って吊り上げてやると脚をばたばたして反抗した。

「トト」

 彼女が呼ぶとトトは威勢よく吠え、僕の胸にぴったりと足をつけた。僕は彼を下ろしてやって、彼女のブーツの爪先を嗅いでいる間に茶色の太い首輪のところを掻いてやった。

 玄関の右手の壁に長さの違う釣竿が三本と種類の違うリールが三つ、タオルを敷いて干されていた。彼女の父は本当に釣りに行ったらしい。当の彼が廊下を歩いてくるのが見えたので、僕は胡桃割り人形みたいに角張った挨拶をした。トトの唾液のせいで顔がてかっていたから説得力はなかっただろうと思う。

 洗面所へ行って顔と手を洗い、うがいをして居間に戻った。部屋の隅には背の高いパキラが鉢植えになっていて、壁際の埋め込みライトから影を落としている。五十インチは下らないテレビがすっぽり収められたテレビ台の前にはベルギー製の絨毯が敷かれている。司馬家の居間についてそれ以上の説明は必要ないんじゃないかな。ダイニングでは佳折の母がテーブルに青磁の皿を並べているところだった。佳折はさっきお茶してきちゃったから少なめでいいのよと母に付き纏いながら話していた。

 主菜の皿がテーブルの真ん中に並べられ、四人でそれを覗き込む。

「お父さんが釣ってきたの?」と佳折が訊く。

「今日は駄目だった。全然だ」と佳折父は渋い声で言う。「結構遅くまで粘ったんだけどな、駄目だったから築地に行った。どうだ、美味しそうな鰤だろう?」

 鰤の切り身は佳折の母の手によって程良い焦げ目のついた照り焼きになっていた。横に獅子唐辛子が添えられている。それに白菜の味噌汁と白米がついて立派な夕餉になっていた。過去釣りの成果があった時には、鰯や鯵や、時にはカワハギも食卓に上った。佳折曰く洋食や中華もざらだと言うが、僕が食べに来る時は和食が多かった。僕が一人暮らしで惣菜ものが多いだろうから、という佳折母の配慮らしい。

「うん、おいしそう」佳折は言って一番大きな切り身を取った。どれもそんなに大きな差があるわけではない。

 僕は佳折の父の方を見た。彼もこちらを向いていたから、次は僕の番らしい。この時間はとてもつらい。どの皿を選べばいいのか非常に悩む。彼がどの皿を狙っているのか、僕にはわからない。視線を確かめるためにあまりじろじろと見続けるわけにもいかない。結局僕は二番目に大きいやつを選んだけれど、始末が悪いのは、どれを選んだところで彼が目に見える反応をしないということだった。なんだ、どれを選んでもよかったのか、と思えるほど僕は楽観的ではない。

 食事中は佳折が美術館の話をした。上野の西口で公園の案内板を見た時に同じような話をした。どこの駅や車内に美術展の広告が出ているとか。僕は彼女とのデートでもなければ電車に乗らないので新鮮な気持ちで話を聞いた。日暮里の沿線看板にあったミレー展が良いと言うと、彼女は新宿で百貨店出口まで行ってラックを探してくれた。そこで見つけたチラシがテーブルに出ていた。何種類かあってそれは「編物をする羊飼いの少女」が表に刷られていたが、ミレーの絵で僕が一番好きなのが「編物をする羊飼いの少女」だった。僕はミレーが何度も何度も同じモチーフを描いたという話をした。ベラスケスのような栄光を掴んだ画家があちこち遠くに手を伸ばしていたのだとしたら、ミレーは両腕に囲って抱いたものをずっと大事に暖めていた画家だ。僕の話がつまらなかったのかトトはさっさと鰤のアラを平らげてしまってソファの横のバスケットで横になり、有能な指揮官みたいに食卓を傍観していた。ラブラドル猟犬種だから普段の気性は穏やかなのだ。

 食後は買ってきたスイーツを別腹にしながら、同じく僕が持ち帰った冴のプレゼントから僕の家族に話題が移った。佳折父は僕の人間性に依然として疑問を抱いているから食い付きがよかった。

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