白い敵が現れる日15

 十五時を回って陽光には赤みが強くなりはじめた。上野界隈に戻ってイタリアンカフェで軽食を採ることにした。通りに面したコンクリート打ちっぱなしの建物で、洞窟みたいな雰囲気を押し返すために暖色の照明を吊るしたりオーク材のテーブルを揃えたりしていてなかなか上品だった。僕らはそこでコーヒーとパニーニを頼んだ。客入りはまあまあ、奥の席の若いグループが一番賑やかだった。けれど最も僕の目を引いたのは右前方の席を囲んだ中学生くらいの子供が居る家族で、祖父らしき人を中心にキリスト教式の食前の祈りを捧げていた。佳折の位置からは背後になるし、天井のスピーカから流れるローカルバンド風の音楽に紛れて聞こえなかったと思う。

 僕はそれで灘見の部屋を思い出した。灘見の母には何でも持って行ってくれと言われたものの、僕は結局何も持ち出さなかった。あとで軍の調査官が入った時に僕が何か持ち出したことがわかったら問題になると思ったからだ。失礼な発想ではあるけど、僕はとっくに軍のブラックリストに載せられていて、当局が僕のしっぽを掴むために灘見母を抱き込んだと考えられないこともなかった。

 カフェにはたくさんの人間が居て僕の姿はそこに馴染んでいたけれど、まるでみんな眠ってしまっていて僕だけが暗がりの覚醒に取り残されているような気分がした。

「ねえ、カヲリ」僕は呟いた。

「ん?」注文が届いたばかりだったので佳折はとりあえずコーヒーに砂糖を入れて混ぜながら訊き返した。

「カヲリは僕のことどう思う?」

「どうって?」

「灘見のこと」

 佳折は少し停滞した後、テーブルの上に体を乗り出して僕のことを呼んだ。僕が顔を近づけると、頬や耳の下、頸の辺りを彼女の手の温かさが撫でた。それが嬉しかったから、僕は彼女にそれを望んだのではなくて、ただ安直な思い付きだけで自分が内心を明かしたことを意識した。そして少し悔やんだ。

「あなたって他人の身に起こることにはとってもドライなのに、そこへ自分が巻き込まれてしまうと弱いのね。偵察機みたいね」彼女はまたコーヒーを混ぜながら言った。

「ごめん」

「そっか、今日、灘見くんのところの挨拶について行ったんだったね。それでそんなことを考えていたの」

「ずっと考えていたわけじゃない。今、なんとなく思い出してさ」

「もう収まった?」

「収まったって、何が?」

「そういう苦しさって発作的に来てしばらく閻魔大王みたいに魂をぎゅーっと握っているものじゃない?」

「そうかな…」

「打ち明けたいことがあるなら言って」

 僕は少し俯いて、やめておこうとして、やっぱり言うことにした。

「じゃあ、君にとって、人の死というのは色々ある? 知っている人と知らない人、大人と子供、軍人と市民。それを受け取る時の感触の違いというか」

 佳折は頼もしく微笑して「あるわ」と言った。彼女は椅子の背に戻って鞄から電車の中で読んでいた新書を取り出して開いた。

 愛は水 心はグラス 零るれば 肌の裡にぞ つらら冷たき

 彼女はその短歌を詠んだ。「悲しい歌だと思わない? 技術的にはやっぱり大したことないんだけど、明瞭なイメージを持った歌だわ。愛が溢れて氷柱が刺さるように痛いって。この冷たさは、たぶん肌の触れ合わない冷たさなのよね。『愛は水』は『会いはみず』の掛言葉だろうから」

「さっきの、短歌の本だったの?」

「いいえ。…これは『照らしえぬ暁』です。今世紀の戦争で帰らなかった人の手稿を集めた本」佳折は鞄からブックカバーを半分外して表紙を見せた。顔が笑っていない。

「ああ」

「知ってるの?」

「はるかなる山河、きけわだつみのこえに倣った戦没者遺稿集。日本人の意思や学問が衰えていないという証明に鷲田大将が中心になって編纂した。肢闘回しのもある。というか多い」

「読んだことあるのね」

「読まされたんだ。だから、今の歌も実は聞き憶えがあったんだけど、どこで聞いたか思い出せなかったんだ」

「この本を読んでいるとね、時々思うのよ。ああ、もうこの人は居ないんだって。命の評価は変わってしまうものよ。私の感性に訴えられるかどうか、それだけのことで」

「誰に惜しまれるか、そういう相対的なものが命の価値だと?」

「命は等価だわ。そして等しく軽いものなの。あなたも私も。同じだけ軽い。戦争をやっていればわかると思うけど、命が消えるのなんて簡単。消えるのと同じ分だけ――少し多いかもしれないけど――生まれてくるの。毎日たくさんの人が死んで生まれている。百年に一度だけなんて、彗星みたいに貴重な出来事じゃない。それに命と一口に言ったって人間のものだけじゃない。他の動物や植物の分もある。じゃあ、どうして私たちはそれを軽いと信じないのだと思う?」

「生き物が命を感じられる範囲が限られているからじゃないかな。同種であれば強く感じるし、他の生き物なら感じ方は鈍くなる」

「近い人ほど失うのは辛い。遠い人ほどどうでもいい。ニュースで報道される人の死なんて、関係のない自分にとっては数の悲惨さでしかない。ああ惨いなんて言ってもその言葉には全然感動が無い。そればかりは鬼だと言われても仕方がない。誰でも同じ。この本では誰の手記か最初に名前が提示されるけれど、手記を読む前の時点では、その名前も埋もれた大勢のうちの一つでしかない。それが彼の書いたものを読んだあとで、何という名前の人が書いたのか確認しておきたくなる。彼の文章を通じて私は彼の命に重さを感じるようになる。それはね、詳しく知れば知るほどに重くなるということではない。どれだけ親しい人でも、やっぱりもうそろそろだろうなという運命の定まった人に対しては覚悟が決まるものね。じゃあ、どんな命が重いのか。それは可能性を感じる命よ。私にとってあなたの命は重い。もし失ったらと考えるのはとても辛いことよ。あなたがどんな人間で、親からどれだけ期待されていて、何人の友達が居て、どんな未来があって、そういった可能性の喪失を考えるから。あなたなしで私はどうやって生きていけばいいの、そんなの考えたくない、だけどもう現実なんだ、受け入れなければならないんだと思うから。焼け残った骨の温かさが人の体の不可逆を痛いくらいに訴えるのよ」彼女は目を細めて淡々と語った。「あなたが灘見くんの命を重く感じるのはなぜ?」

「命は等しく軽く、死の受け手が死者にどれだけ関心を持っているか、期待をかけているか、それ次第で重く感じるもの、か。期待や愛は残される人にあったものだから、それが行き場を失って喪失感になるのかもしれない。万人が一つの死の尺度になりうるというのは確かに筋が通っている」

「そうね、ごめんなさい」

 佳折は多くを語るのだけれど、伝え方が簡潔でないところがある。自覚があるのだろう。

「僕自身は灘見の未来がどうだったかなんて想像はしない。だけど、灘見の可能性を信じていた人は何人か居ると思う。つまり、贋ならいつかは死ぬし、灘見にとってあの死に方は予想より早かったにしても順当な死なんだ。ただ、あいつは純粋な敵じゃなかった。もともと味方だった。だから、僕が関わる人間の中に、あいつを知ってあいつの未来を考えていた人間が少なからず居る。今君が言ったように、大事なものを失う想像が実際になってしまった人の悲しみを感じる」

 佳折は目を大きくして僕を見つめていた。そして少し顔を赤らめた。

「灘見くんの死そのものには悔いはないの?」

「無い。無いと思う。灘見がどんな考えの持ち主だったか、タリスにも把握できなかった。僕も考えているんだ。生きているうちに聞き出しておくべきだったことだけど、殺してしまったから」

「彼と最後に話したのはあなたなんでしょう?」

「あいつはたぶん、戦争で死ぬことを理不尽なことだと思っていたんだ。人間が神を設定するのは自分の死が救われるようにするためじゃないか。信仰を持っているから、理由が理不尽でも自分の死を肯定していくことができる。古く第二次大戦の兵士が少なからず信仰を持っていた。皇国思想であり、もっと体系化されたキリスト教であり」

「そうよね、きけわだとかを読んでいるとあの時代の若い人々が意外と多くキリスト教に傾倒していたということがわかる」

「今では戦死することを最も肯定的に捉えているのは僕ら贋だよ。自分の存在理由を宗教よりももっと現実的に認識できる。僕は命をタリスに捧げるわけじゃない。返すだけだ。灘見はキリストを信じたけど、それではやっぱり足りなかった。生まれた時から死を運命づけられるというのは人間の兵士よりずっと過酷だし、だからこそ宗教より強いタリスを信じるのだから」

「灘見くんはキリスト教徒だったの?」

「うん。今日あいつの部屋に入れてもらって、本棚に聖書があるのを見つけた。旧約と新約が一綴りになった三方金の上等なやつ。かなり読み込んだ形跡があった」

「贋でも宗教を持っている人は少なくないんじゃない?」

「あいつは本気だったさ。タリスに命を捧げるなんて理解しかねる。そんなふうだった。僕らがこのタブラを持っているのはタリスが僕らのことを知るためじゃないか。僕が教えようと意識しなくたって、こういう会話からタリスは僕のことを知ることになる。だけどタリスは灘見が離反を試みた根拠は見つからないと言った」

「もしかして携帯していなかったの?」

「ああ、たぶんそうだ。タリスを信頼できないから。自分が戦う正当な理由を他のものに求めようとしていた。だから戦争の理由を知ろうとした。でもそこに正当性なんて微塵もなかった。わからないな。あれが何か見つけた結論としての行動だったのか、それともなんでもないのか」

 佳折はコーヒースプーンを置いてようやく一口飲んだ。それからパニーニを食べ始めた。

「死を運命づけられたのは人間も同じよね。人間だけじゃなく、全ての生き物が死ぬわけで、死ぬ前に産んで種をつながなければならない。一個の命ももっとたくさんの命の流れの中に置かれている。自分が何のために生きるのかなんて問いは人間の考える力の弊害だわ。他の生き物は考えなくても自分の役目を知っているもの。たとえあなたたちがタリスの道具なのだとしても、タリスはあなたたちから人間としての生殖機能は奪わなかったわ」

「それ、灘見と何か関係ある?」

「うーん。灘見くんがなんでキリスト教を選んだのかなと思ってね。たぶん説明的なところが性に合ったんだろうけどね。キリスト教みたいに体系化された宗教は結構禁欲的だけど、アニミズムの延長にある宗教は生殖器にこだわった祭祀設備も多いのよ。例えばお稲荷さまだって、農協のつきあいでお参りすれば五穀豊穣になるけど、夫婦で行ったら安産祈願だわ。稲の実りと妊娠は自然に対して同義なのよ」

「でもさ、神道にだって厳格な典礼は存在するわけで」

「そう。それは仏教でもイスラムでも変わらない。だけど、人間の英雄を立てた宗教と自然を畏敬する宗教は根本的に異なる。私には後者の立場の方がより包括的に思えるの」

 僕らは目を合わせて、僕が先に目を逸らして苦笑した。

「でもなんだか安心したわ。あなたが彼のことで何にも感じないような冷酷無比な人じゃなくて」

「僕は冷たい生き物だよ」

 僕が先にパニーニを食べ終えて伝票を表にして、でも計算はできないので財布を佳折に預けてお勘定してもらった。きちんと割り勘したのを後ろで確認して店を出た。上野の繁華街には広い空も解放感も無かったが、僕は自分が灘見の案件から少し自由になれたのを感じた。

 灘見は世の中に起こされる争いの原因を探していた。もう誰にもその答えを知ることはできない。神様でさえ人間の所業には目を背けたくなるような具合かもしれない。断片的にではあるし、佳折の言葉を借りる所もあるけれど、僕にもわかることはある。

 人類は死に掛けていて、生き延びるために争いを続けなければならなかった。競争といってもいいかもしれない。人類は生まれた時から自然と競争して文明を育ててきた。おかげでずっと昔にはわからなかったものがわかるようになったし、部分的には自由に操作できるようにもなった。あと一息で完璧というところまで来てふと気付く。もし人間が自然を支配するために生まれてきたのだとしたら、そこから先の人類の役目とは何なのだろうか。役目を成し遂げたから、産卵の終わった鮭のように死んでしまうのだろうか。否。今でも種のことなど考えずに生きている人は大勢いる。考えたとしても、進歩の無い世界でそれでもと思いながら創造的に生きられる人はいる。他方では地球規模の閉塞感に駆り立てられる人もいるだろう。

 種の進歩を求める人々の知的好奇心が次に目指したのは人類自身のことだ。自然対人類の構図の中で今までは自明であった人類という存在が、完璧に解明された自然に対して非常に不確かなものに思われてくる。

 そこで彼らは人類を映してみる鏡として人間から独立して活動することのできる機械に目をつけた。機械は自然とは関係の無い、人間の内部から生まれたものであって、人類の存在を検証する材料としては持ってこいである。人間は機械に人間から離れて独りでに育つように教えて成長を待った。人間は完全なる他者としての機械を求めたのだ。それを解明することによって人類を相対化できるような存在を。そうして機械は見事人間の理解が及ばない敵になった。それがタリスのようなコンピュータだ。自然に依存する身体は最低限度で意識中枢の所在も定まらない。存在の様式からして人間とは異なり、今まで人間や自然を相手にしてきたコミュニケーションの方法が通じるのかも怪しい。タリスは言葉を扱うし、人間的な性格も持っている。しかしそれは彼女から人類に寄り添っているにすぎない。人類も負けたままでは気が済まないから、何らかの形でタリスの在り方を知ろうとする。肢闘や投影器の研究もそういった挑戦の一端なのだ。肢闘は戦術的な要求から開発された兵器ではない。科学の要求から生まれ、他の兵器に変身する機械を虎視眈々と狙っている。人類が人間の身体に絶対的な束縛を受けなくなりつつあるのと同じだ。

 タリスや肢闘が初めて戦争を経験したオホーツク戦役の時、『静止軌道の観察者』という本を書いた男がいた。本人によれば彼は地球侵略を試みる異星人の視察者で、その異星人というのはよくあるタコ的火星人みたいなちゃちなものでなくて、タリスに近い人間とは次元を異にする意識体だった。彼は宇宙の彼方から人間の営み、特に科学的な営みに批判的な視線を向けるのだが、ある長い章の中で「なぜ人間は機械という自らの生命を危ぶむ存在を作りだして何ら危機感もなく放っておくのか。それどころか力を与えようとする連中すら多くあることは実に不可解である」と語っている。

 今日の戦争は何のために繰り広げられるのかと問われれば、それは機械に対する姿勢をいかに構えるかを探るためだ。論点である肢闘や我々贋が戦場で価値を問われるのは当然のことではないかと僕は思う。


 アトレでお土産の甘味を見繕い、山手線で新宿まで回ってから帰りの高尾行きに乗った。今度は二人並んで座れた。休日なので家族連れがわんさか居て、運転席の窓には父親に抱かれた子供が張りつきになって、車両に二三台は乳母車が見えた。一駅だけ乗って降りていく家族が意外にも多かったが、長く乗る家族では大抵小さい子供がシートに上って窓から外を見ていた。佳折は子供たちの言動を仔細に眺めていて長いこと微笑を保っていたけれど、靴を脱がないままだったり親がくだらない用で構ってやらなかったりすると、見ていない振りをしてちょっと冷ややかになっていた。

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