白い敵が現れる日14

 佳折が万年筆が良いだろうと言ったのを僕は肯定した。しっくりきた、と言ってよかった。僕はハルビンに居る諏訪野家に便りを出すのにいつも同じ万年筆を使って書いていた。基地では訓練や講習の間に長い空き時間ができてしまうことが頻繁にあったし、家に帰ってから書くとなるとどうしても遅くなってしまって、手元に天井の明りから自分やペンの影が落ちるのが鬱陶しくて嫌だった。昼間の基地の静かな資料室で書いているのを彼女は見かけていたのかもしれない。

 上野に知った店があるというので彼女の学校に少し寄ってからそこへ行くことにした。立川の駅までは鹿屋が気前よく送ってくれた。冷たい風の通るホームで襟を立てて東京行きを待ちながらしばらく話した。いつもならバイクで移動するので、穏やかな場所でたくさん話す時間があるというのはなかなか新鮮だった。

 電車は微妙な具合で、二人で並んで座れる場所がなかったので佳折に席を譲って僕はその前で吊革に掴まっていた。床下のモータの音、空調、ドアのがたがたいう震動、車内放送、そういった騒音を敵に回してまで話す気も起きなかったのは彼女も同じらしく、新書を膝の上に開いて読んでいた。革のカバーを被せているので表紙はわからなかった。

 僕は外の景色と佳折の様子とを交互に見て時間を潰した。自分で運転するのでなければ鹿屋の横に乗せられているような緊張感もなくて眠ってしまいそうだった。ところがふと彼女の襟首に目をやった時にもみじの葉が引っかかっているのを見つけて気になった。手を伸ばすと彼女はちょっとびっくりしたけれど、すぐに訳を理解して「ああ、あの時だ」と言って微笑した。僕から葉っぱを受け取ると、本の代わりに手帳を開いてそこに挟み込んだ。

「取っとくの?」

「ここで捨てるわけにもいかないでしょう」

 特別思い入れがあるのではない。それは彼女の答えでわかったけれど、それにしては丁寧な扱いだなと思った。

 飯田橋で南北線に乗り換えて東大の付属図書館に寄り、そこで三十分くらいブラウジングをした。彼女は学生証の電子パスがあるから堂々と入れるけど、僕は部外者なのでこっそりやらなければならない。既に何度かやっている手口だった。

 佳折は受付で書庫から出してもらう蔵書のメモを渡して、準備ができるまでの間開架の間をうろうろした。たまたま二人で同じ通路の書架を探す機会があって、少しだけお互いを意識した。

僕は彼女が本を探す時の仕草が好きだった。目当ての本があるかないか、彼女の棚の列を追っていく視線には期待と不安が混じっている。右手の人差し指は中途半端な位置に吊り上られて時折唇の下に触れる。その肘を左手が支えている。足の爪先が時間を気にして床をつつく。彼女は視野を広く持って、他人が背後を通る時には相手と示し合わせたくらいの精度でにゅうっと少しだけ体を書架の方へ倒した。別に彼女が避けなくたって普通に歩けるだけの幅のある通路なのだから、これが一歩踏んでしまうと少しオーバなのだが。

「こうやって個性を擦り減らしていくの」僕が横に並ぶと佳折は気付いてそう言った。叢書の書架なのでほとんどの本が布打ちで、金字の題があったようだがほとんど禿げ落ちていた。

「中身はどれも違うだろ」僕は訊いた。

「それをどう見抜くのかしらね、私たちは」佳折はなぜか笑った。それも雲間の太陽みたいにすぐ隠れて、彼女は何も持っていない手を僕に向けて広げた。「だめ、見つからないわ。自分で読みたい本のメモも作ってくるんだった」

 佳折が時々哲学的なことを口走るのはたぶん彼女の性格ではない。僕が居るからそういうことを言うのだ。僕は贋だし、贋の中でもとりわけ贋であることを強く意識している。贋の視点を観察しながら彼女も人間というものを客体化している。人間がバードウォッチングするのを贋は観察しているし、その時佳折は贋も人間も観察している。彼女は人間だけど、人間の視点にちゃんと疑問を感じられる人間だ。

 佳折は受付に戻って貸し出しの手続きを済ませた。十冊くらいあったので半々くらいに分けて二人の鞄に収めた。佳折の読みたい本ではないということだけど、では誰が読むかというと、それはタリスだった。電子化されていないニッチな書物を図書館で探して基地のスキャナに掛けるのが学生である佳折の副業なのだ。「私がまだ学生やってるって知ってね、タリスさん大喜びだったわね」と佳折が皮肉を言うとタリスも間髪入れずに抗議した。

「司馬さん、いいですか、私の手伝いをしてくれる教授クラスの人間もいらっしゃいますよ。ただ彼らにはあなたほどの機動力が無いというだけのことです」

 空の下に出る。学内の木々は着々という感じで冬支度をしていて、それで思い出したのでさっきのもみじをどうするのか僕は訊いた。「ここに置いていったら?」

「だめよ。これはちゃんと持って帰らないと。だって、生まれた場所に戻るのが一番でしょう。そうでなくても、せめて母親の目の届くところに居たいと思わない?」

「思うだろうね。いつか土になって大木を養えるようにって」

「こういうのだってそうよね」彼女は休日で庭師さんが居ないのをいいことに、植え込みに沿って吹き溜まったソメイヨシノの落ち葉をわしゃわしゃ踏んで歩いた。「こういう落ち葉って集めて何に使うんだろうって思わない? 焼き芋をするならいいけど、袋に詰めて焼却場に持って行かれるのは嫌だと思うの」

「なるほどね」佳折が子供っぽいことをするので、僕も対抗して植え込みの煉瓦の垣に乗ってあぷなく平衡を取って歩いた。

「植物だけじゃない。川に卵を産みに来る魚だってそこで死んで川や森を豊かにする。そのへん人間は自由よね。埋葬、水葬、火葬。土か水か、はたまた空に還るか。選べるんだもの」

 佳折はもみじを取り出して茎を持ってくるくる回した。

「葉っぱにも唯一無二の個性があると思うけど、それを私が基準にして選んだわけじゃない。ここへ来たのは本当に偶然なんだ。でも、ここまで来てしまった以上は君は他大勢の家族とは全然違う。特別なんだ。選ばれているのに、それは何の必然でもない。一体何がそんなに運命を分けるんだろう」

「それ、葉っぱに言ってるの?」

「そう。ある種の責任みたいなものが生じてしまった気がするのよね。偶然見つけられた最初の一枚が妙に愛おしくなってしまってね、それを失ってしまったあとでは、どんなに探してもこれというものはないの。そして、探しているうちに一枚目の代わりを探している自分がとても卑しく思えてくるのよ。拾ったのに違うって思ってしまう葉っぱに対してとても失礼な感じがするの。小学校の時、委員会の課題で、ラミネートフィルムと和紙と、それから拾ってきた葉っぱを使って配布用の栞を作ったことがあって、その時のこと。すごく綺麗だなって思ったカエデがあったんだけど、馬鹿だから眺めているうちに風に持ってかれちゃったのよ」

「見えるようになってすぐの頃?」

「そう。あの頃はいろんなものが鮮明で、綺麗で――」

 佳折は風が怖くなったのか、そこで言葉を止めて慎重な手つきでもみじを手帳に戻した。

学内を東へ抜け、不忍池を回って上野と御徒町の境目あたりの古い市街に入った。進むほど休日の気配もだんだん遠ざかって、とうとうどんな種類の喧騒もなくなった。誰が目印にするのかも知れない複雑な道路標識とか、支柱の曲がったカーブミラーとか、電柱の上の変圧器や余って適当に巻かれた電線とか、どことなく鬱蒼としていた。でも同じ静けさでも新宿や渋谷の一本路地裏に入った時のじめっとした感じとは全然違って、ちっとも不気味ではなかった。一面に迷路が描かれた大判の絵本を開いた時の感じに近いかもしれない。

佳折は僕の横には並ばずに二三歩先をすいすい大股で歩いた。踵の高い靴でもなくて、足の運びがとても綺麗に見えた。

「うち、新しいでしょ?」

「なに?」僕は訊き返した。たぶん佳折にとっては文脈のある言葉なんだろうけど、僕に彼女の無言の思考が見えているわけではなかった。

「今の司馬家は築二年くらいで新しいの。その前はこの辺りに家があって、もっと昔、私が小さい頃もこの辺に住んでいたの。この辺が地元なの」

「だから詳しいんだ」

「その間はお父さんの仕事がら札幌に行っていたのね。だから疎開って言っても戻ってきただけね」

「お父さんの仕事って?」佳折父とは面識があった。二人きりで話したこともある。軍関係の人なんだろうと見当はつけていたけれど、正確な職業は把握していなかった。

「軍に地図を卸すの。偵察衛星がことごとく落とされちゃったから、航空測量がものを言ったのよ。時々前線の陣地まで出向いて行かなきゃならなかったから、肩書よりは危険な仕事だったらしいわ。私はその頃もうこっちに居て慰めになってあげられなかったってわけだけど」

「よく憶えているね、そんな昔のこと」

「そんなことないわ。戻ったって言っても、確か九歳の時だから、ほとんど初めての場所よ。それをお母さんに連れて歩いてもらって、すごく長い時間をかけて自分の頭の中で地図を埋めていくの。あとは友達と遊んだり、彼氏とデートをしたりして復習するの」

「へえ……、彼氏?」

「あ、諏訪野くんでもそういうの気にするんだぁ」佳折は久しぶりに振り返った。僕はおもいきし罠を踏み抜いてしまったみたいだ。

「万一彼女だったら僕の立場がないと思ってさ」

「彼氏よ。一コ上の。割と長い間その人のことが好きでね、中学生の時から片思いしてたの。六年くらいかな。大学に入ってから駅でばったり会って、その時初めて長く話してね、決めたの。優しかったし散歩も好きだったけど、でも時々、この人は私のことを尊敬していないって思う時があったの。付き合いに尊敬なんて言葉を持ち出すのは不遜だって自分でも思うけど、でも単に動物みたいにいちゃついているっていうのが私には受け入れられなかったのよ。ちゃんとお互いのことを尊敬しているって人間の高尚さが欲しかった。私は尊敬してほしかったのね。つまり、私は尊敬してほしいのにどうしてあなたにはそれがわからないのって見下していた。実際に相手を尊敬していないのは私の方なのよ。自分の方から自分の恋愛観に背いているわけ。それで、ああ、私はこの人のことを本当に好きじゃないんだって、気付いた」

「尊敬していないって、どういうこと? お世辞を言ったり、時々体だけを求めていたり、そういうのは僕にもあるんじゃないかな」

「ううん、もっと根本的な、愛の波長の中に隠れた細くて青いノイズのようなものなのよ。尊敬というのは、自分がどうしてもどうしても欲しくて、でも決して手に入らないもの、そういったものを本質的なところに持っている相手に向けられるものなんじゃないかな」

「随分明晰なんだね」

「だって考えたもの。いけない?」

「いいよ。ただ、未練があるから、そんなふうにして筋の通った理由を考えなきゃいけないんだろうな。そう思っただけ」

「やめてよ。私はあなたのこと好きよ」

 佳折が怒って肩をぶつけてきたので僕はよろけないように少し踏ん張って曖昧に頷いた。

 佳折の目当ての店は小奇麗な感じだった。予想と違ったのだ。昭和初期に建てられた埃っぽくて床の傾いているような土間の店を想像していたのだけれど、車のショールームを古い街並みに押し込んだみたいな近代的デザインの建物だった。壁のガラスケースにずらずら並んだ中から何本か店員に選んでもらって、そこから佳折と二人で相談して最終的に僕が書き味を確かめて、白地に七宝で鶴を描いたパーカーの万年筆に決めた。贈り物にと言うとクレープ加工の青い包み紙と赤いリボンをつけてくれた。

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