白い敵が現れる日13

 思うに、僕は人間の世界を黙って眺めているのは得意なのだけれど、そこへ分け入って何かするとなるとどうにも手段がわからないのだった。だから冴の誕生日の贈り物にもいいアイデアが浮かばなくて、まずは隣で鹿屋と同棲しているロシア人に訊いた。彼女は娼婦で、背が高く、髪は黒いが瞳は青く、鼻梁がヒマラヤ山脈みたいに高かった。顔を合わせるのは決まって朝のベランダだったので、その日はいつもより多めに洗濯物をして、ハンガに掛けるのから部屋の外でやった。布団も干した。床のコンクリは幽霊を踏んづけたのかと思うくらい冷たく、室外機の下が結露で湿っていた。けれど南がちょうど駐車場なので昼になれば日当たりは良好だ。二階の高さでも結構眺めが良くて、通りの電線にツグミがとまっているのが見えた。少し風があったけれど雲は無い。ガーゼみたいに僅かに地平線を覆っている程度で、人工衛星を見つけられそうなくらい空が澄んでいた。

 隣人は手摺に寄りかかってこちらを見ていた。そうしないと仕切り板が邪魔になってお互いの領域が見えないようになっているのだ。僕はひとまず「おはよう」と挨拶をした。彼女は歯ブラシを口に突っ込んでいて、手に持ったコップに口の泡を出してから「おはよう」と答えた。それを見て歯磨きの時にコップを使う習慣のない僕は少し感心した。でも考えてみると僕にはベランダで歯磨きする習慣も無かった。

 彼女は随分眠たい顔をしていた。仕事に行く時のお化けみたいな化粧をすっかり剥がしてすっぴんだった。化粧を剥がすと眠たい顔になってしまうのかもしれない。でも僕は化粧をしていない時の顔の方が良いと思う。たぶん、普通の人間でも大勢がそう思うだろう。それから、寝癖のせいで前髪がアンテナみたいになっていた。近所ネコの狩猟本能が気にしそうな具合だ。

「今日、晴れるの?」

「天気予報で洗濯を勧めるくらいだから、崩れないんじゃないかな」

「ふぅん」

 僕は畳んでいたタオルを洗濯かごに戻して手摺に腕を乗せた。向こうも僕が話す態勢になったのはわかったみたいだ。僕は単刀直入に冴のプレゼントを何にしたらいいか訊いた。

「シャネルのアリュール」彼女は大袈裟に唇を動かしてそう言った。

「香水? 切らしたの?」

「口紅よ」

「それはあなたの欲しいものじゃないか」

「それなりの見返りは欲しいわ」

「うーん、相手は十六歳の女の子なんだけどな」口紅じゃ三堂のイヤリングと同じだと思った。

「だって、ハルビンでしょう? 男にはわからないかもしれないけど、乾燥にもいいのよ」

「使い終わった口紅の入れ物って、取っておく?」

「なんでよ、捨てるでしょう、普通」

「記念にとっておけるものがいいんだよな。できればずっと使えるもの」

「あのね、君、私がこれって言ったら、それにするのかしら?」彼女は歯ブラシの柄を教師の白墨みたいにして僕に突きつけた。

 言われてみると確かに僕は参考にできる意見を探していただけで、決定打を求めていたわけではなかった。冴本人はもとい、佳折やタリスや、近すぎる存在に頼るのが情けなかっただけだ。僕がはっきりしないでいるうちに隣人は奥に引っ込んでしまって、僕が洗濯物を干し終えるまで遂に出てこなかった。嫌われてしまったのかもしれない。僕が出掛けたと知るとベランダに出てきて、バイクを引き出しに行った僕にべーっとべろを見せた。彼女が気難しいロシア人だからじゃない、人間同士の関係って、本当にひょんなことで決まってしまって取り返しのつかなくなるものなんだ。それはたとえ見かけの上で二人の関係が戻ったとしても、どちらかの心に一生残る傷をつけてしまうことなんだ。

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