白い敵が現れる日11

 冴と養家の両親がハルビンへ渡ったのは先の雪解けの季節だ。おじさんは戦車部品の鋳造技師で、新式戦車の実地試験に伴って向こうの工場へ呼ばれた。戦車が活動するのは基本的にだだっ広い地面の上で、すごく簡単に考えれば内地で走らせるのにうってつけなのは北海道だ。千歳演習場ってお誂えの施設もある。だけど今度の戦車は輸出に力を入れるとかで、どうしても日本以外での運用実績が欲しかった。近場で土地を貸してもらえるのが満州くらいだったのだ。戦車大国ロシアに持って行くのはちょっと気が引けるし。おばさんと冴が連れていかれたのはおじさんの赴任期間が長いからだ。春の泥濘と、夏の荒野と、冬の雪原、巡って雪解けのぐじょぐじょ。戦車を走らせるコンディションをしっかり確かめるのには結構時間がかかる。それに何より、中国との国交が悪化したら家族が離れ離れになってしまうかもしれない。たとえ敵の手に渡ることになったとしても家族はくっつけといてやろうというのが国の方針だった。それにしては僕が取り残されたけど、それは仕方がない。東京で軍の仕事があるのだし、元々家族の一員ではない。年齢的にも巣立ちの時機だったと思う。諏訪野家に育てられ、教えられることは教えられて、もう十分完成した。

 陸軍の技術研究所が相模原にあって、諏訪野家の元々の家もその辺りに買ってあった。家族が大陸に移るにあたって僕一人でそこに残ってもよかったのだけれど、さすがに広すぎるから、せっかくだったら基地の近くに引っ越ししようと計画した。近くというか、基地内の隊舎に入るつもりだったのだけれど、それを引き止めたのが上司の鹿屋だった。

 僕はてっきり鹿屋は基地に住んでいると思っていたのだが、平日は宿直で済ませるにしても休日には帰る家がきちんとあるのだった。しかも基地の近くだった。たぶん毎朝通勤がてらランニングをしようにもちょっと物足りないような距離だ。

 そこから先も即席の想像とだいたい真逆だった。せめて高級マンションの一部屋だろうと思っていたら築五十年は下らなそうな下宿だし、独身ではなく同居人がいた。僕のいうロシア人の隣人のことである。彼女がよく面倒を見てくれるだろうから、ちょうど隣の部屋も空いているし、そこに住めというのだ。これには参った。事の運びがどうというより、それを勧める鹿屋の熱心さが珍しかった。積載量の少ないスカイラインで僕の家財運びを手伝ってくれるなんて、とても彼のしそうなことではなかった。第三駆陸団司令鹿屋圭佑カノヤ・ケイスケという男は文鎮みたいに冷たく落ち着いた男のはずだった。

 僕はこの時に一度彼に対する見方を確かに変えたと思う。以来長らく彼の車に乗せてもらう機会がなかったけれど、灘見の一件で久しぶりに乗せてもらう機会が巡ってきた。

 鹿屋は灘見家の遺族挨拶に僕を連れていこうとは思っていなかったみたいだ。僕が行くと言うと感心そうな顔をした。僕の方ではてっきり強制的にでも連れて行かれるものだと思っていたから意外だった。僕が自主的に言うかどうか試したのかもしれない。

 遺族挨拶に一人だけ同行者をつけるというのは軍規だった。できる限り男女一組で行くこと。何にせよ、他の仕事がない休日を潰して行くのに、僕ならば部屋が隣で基地へ寄らなくてよいから、というわけではなさそうだった。

「どうして僕なんです?」勘ぐって訊いてみた。僕は姿見の前に立ってネクタイを締めている。鹿屋は先に支度を終えて僕の部屋の扉を開いたまま押さえるようにして待っていたが、「自分から申し出ておいて訊くのか」と不意打ちを狙われたという感じで答えた。

「僕が言い出すまで、誰を連れていくつもりでしたか?」

上野カミノさんだな。確か前回も頼んだ」

「資料室の?」

「そう。あれくらい泰然とした感じがあるべきなんだよ。俺では少し若すぎる。あと一回り年寄りなら、連れが司馬さんでも釣り合うだろうが」

 鹿屋が灘見の両親に話すまで彼が何と説明するつもりなのか僕は知らなかった。僕が殺したのだと事実を言うのか、それとも公式発表の通りにするのか。知らないでいるのは気が気でないような恐怖だったけれど、自分から訊くのも嫌だったのでやせ我慢していた。鹿屋は結局本当のことを言わなかった。灘見は僕が殺したのではない。他の六人と同じように敵との戦闘で機体を傷つけ、運悪く命を落とした。両親は彼の説明を疑わなかった。細かい所に質問を差し挟むことはあったが、鹿屋はきちんと物語を用意していた。

 贋の子供は子供をつくれない夫婦のもとに預けられる。それはつくらない夫婦ではない。九木崎と軍の方針である。灘見は雄弁なやつだった。それに、灘見家を含む旧家の一員としての誇りを持っていた。だから家族の団結もさぞ強かろうと思ったのだけれど、実際には彼は両親のことを尊敬していなかっただろうと思う。父親は確かに厳格だったが、それは気高さを感じさせるようなものではなくて、むしろ卑賤な感触だった。鹿屋の説明に対して一々細かな事実の確定を差し挟むのだ。もしか鹿屋が弱腰だったら、息子のことだからと威張って彼の血中酸素量だとか骨密度だとかを訊き出しかねないような具合だ。もちろんそんな情報はこちらでも掴みきれない。母親はそんな夫恥ずかしそうにしながら、しかし諭すこともできずに縮こまっていた。灘見のような贋はそこそこの血統を持つ灘見一族にとって招かれざる身内だった。両親の親戚に対する引け目の原因が自分の存在であると灘見自身は気付いていたのかもしれない。タリスは自分の育て方が悪かったのだと言ったが、それは養家の選定という根底的な段階で起きた間違いだったのかもしれない。

 僕は何だかその場が嫌になった。悪魔の思い通りになっているみたいな敗北感があった。鹿屋は葬儀関係の話を最後にして茶碗の緑茶を半分くらいまで飲んだ。僕は立ち上がって長外套を羽織りながら窓の外を見た。マンションの高い階で、景色が美しいかどうかは別だけど、遠くまで見渡すことができた。神様の風呂上がりみたいに低いところまで雲が立ち込めていた。

 鹿屋が手洗いを借りている間僕は玄関で待っていたが、することもないので部屋の内装だとかチェストの上のファックス付きの電話やペン立てを観察していた。家の奥、廊下には同じようなドアがいくつか並んでいる。

「あれが息子の部屋ですよ」

 灘見母の言葉が急だったので僕は目を見合わせてしまった。続く言葉にも誰が息子を殺したのか知らないがゆえの優しさがって、真相に関わった僕を震撼させた。

「諏訪野さん、折角だから見ていかれますか」

 灘見の部屋はノンフィクション作家の書斎みたいだった。本がたくさんあってそのせいでなんしか埃っぽいのだ。本の壁に埋もれてサンスイのフルコンポがあって、横にカセットテープやCDが雑然と並べられていた。背のラベルがこちらに向いていないのもあった。あと彼らしいものといえば草野球の用具がいくつかあって、収納に仕舞われてはいなかった。喋り方は角張っているくせに存外整頓が苦手な奴だったのかもしれない。

「欲しい本があったらどうぞ持って行ってください。単に処分してしまうよりはその方がいいでしょう」

 僕は肯いた。「選ぶのが大変だ」

「あの、下らない質問だとは思うんですけど」灘見母は恐る恐る言った。

「何ですか」

「うちの子だけなんでしょうか。あなたくらいの若い人がこんなに本を読むなんて」

「そうだな……、これだけ集めるのも珍しいと思います。でも全く読まないとか、大衆小説だけとか、そういったのも居ないと思います」

「そういうものですか」僕は何を説いたつもりもなかったが、母親はそれで納得したみたいだった。

 我々は両親のもとをあとにして路肩にぴったりと寄せてある鹿屋の臙脂色のR32の助手席に乗り込んだ。鹿屋は車の流れが信号に堰き止められるのをリア側で待って運転席に乗ってきた。彼はクラッチを踏んでエンジンをかけて暖房を入れ、しばらく吹き出し口に翳していた手を額に当てて首をうしろに倒した。それから溜息。

 なんだ、鹿屋でもこういう仕事は嫌いなのか。僕はそう思って、口に出すと恐そうだから黙っていた。

 鹿屋はシートベルトを締めて右合図を出した。二速のまま六千くらいまで吹き上げ、かなり暴力的な加速をする。車種も車種だから歩道から振り向くのも一人や二人ではなかった。

「帰るか? どこか行くなら送ってやるよ」鹿屋は最初の信号に差し掛かる前に訊いた。

「いいですよ、別に」僕は断った。

「親切で言ってるんじゃないんだよ、この仕事の後にすぐ帰りたくないんだ」

 僕はちょっと鹿屋の方に目をやる。

「いいから」

「じゃあ、基地まで。司馬さんに呼ばれているから」

「なんだ、あるんじゃないか」鹿屋は目を細めて前方を睨んだ。「わかった。基地まで乗せてやる。」

「助かります」

 鹿屋は細かく頷いて「…ああ、いまのとこ左だったな」と舌打ちした。それから少し間を空けて訊く。「これに乗るの、久しぶりじゃないか。前は引越しの時だったか。お前の家族がハルビンに移るので」

「結構昔のことですね」

「今年の三月だろう。まだ一年も経ってないじゃないか」

「一年っていうのは長い時間だと思うけどな。一年ではないでしょう、何ヶ月ですか」

「九ヶ月。三十六週、二百六十日。悪いな、おまえより二十年も長く生きていると相当時間の感覚が違ってくるもんだ」

「実年齢よりは長い時間を経験していますよ、僕も」

 鹿屋は頷いた。「贋は生まれながらにして鮮明な記憶を持つ。人間は違う。人間、生まれてから五年分くらいの記憶は十歳の時点でもほとんど消えている。いわゆる物心というやつだ。言葉で思考することを始めるまでは記憶を捕まえておく網ができていないから、記憶すべき時に経験が感覚の中を素通りしていく。それは網の形成は喚起するが、経験としては無意味だ」

「時々、動物の歳を人間に例えることがあるじゃないですか。猫の十歳は人間の六十歳だとか。人間と贋もそれと同じです。うん、同じというか、関係は似ている。贋には生身を与えられる以前があるんですよ。そこでまず意識というものを手に入れるんです。それから生身になってこの世界に出てくる。人間が生まれるのと贋が生まれるの、それぞれ一生という期間での位置が全然違う」

「人間と猫より贋の方が遠いみたいな言い方だ」

「そうです」僕は何のためらいもなく答える。

 鹿屋は唸った。僕の反応が理解できない、呆れたといった調子だった。彼は贋のことをよく理解している。それは佳折のように贋と人間を同一視する方向性ではなくて、逆、差異を認める方向性だった。例えば、初対面は武道の実習の時だったが、彼は教官として贋の力を抑制するのではなく出す時に出せるようにするという方針だった。贋の方が身体能力が優れているのだから、本気でやって自分を怪我させるくらいでなければ駄目だ。もっとも、実際には怪我をさせられる贋が後を絶たなかったけれど。

 彼は贋が人間とは違うということを肯定的に捉えていて、その姿勢を僕は尊敬に値すると思っていた。そんな彼でもまだ時々は驚かされることがあるのかもしれない。

「どうだ、おまえの家族は元気にしてるか」鹿屋は訊いた。

「妹が時々近況報告の葉書をくれます。手紙も時々」

「メールじゃなくて?」

「国際電子メールも面倒になってしまったでしょ。まあ、それでも封書よりは楽だから、なんでかな、とは思うけど」

 鹿屋は首を捻った。アスファルトのパッチワーク化した荒れた路面に差し掛かったので左手をステアリング戻す。「まあ、理由があると思うから難しくなるんだろうな。わからなくなるんだよ。灘見はそういう男だったんじゃないか。たぶん。……昔の俺もそうだった」

「論理主義者だった?」

「そうだ」

「今のあなたでも十分理屈屋だと思うけどな」

「理屈が全てではないと知った上で、あえて理屈をやっているんだよ」

「やっぱり理屈にこだわってる」

「それがどうしてかは知らんが、その方が生きやすいからだろ」

「じゃあ、少なくとも変化はあったわけですか」

「だろうな」

 確かに「どうしてかは知らん」なんて真の理屈者は言わないことだろう。僕は何となく若い頃の鹿屋を想像した。

「その変化にサキは関係ありますか。あの日、どうして帰って来たんです? ユリアさんのところに」

 鹿屋は口を閉じたままだった。僕にはそれが癪だった。なぜサキのことを考えている時の鹿屋は弱そうに見えるのだろうか。

「僕は知りたいだけです。サキが何者なのか。灘見のこととサキがどう関わっているのか、あなたならわかるんじゃないですか」

「あの時の写真、見たか?」

「あの時って?……あ、報告の時に」戦闘報告の時に鹿屋が気にしていた額入りの写真か。

「そうだ。あれがサキだ」

 それは確かにサキの写真だった。夏のさっぱりした服装で海岸線のガードレールに寄りかかって、つばの広い帽子に手をやっている。その腕や肩や首筋がペンキでも塗ったみたいに異様に白い。写真機を持った誰かに笑ってと言われて無理矢理笑ったような、ぎこちない顔を少し横に逸らして写っていた。

「どうしてあんな所に置いてたんです?」

「違う。本気で忘れてたんだ。急に呼び出されたから、慌てていて片せなかった」鹿屋は眉と唇を斜めにして愛嬌でごまかした。

「でも、帰ってきたのは僕が写真を見たからじゃないでしょ?」

「無関係ではない」

「サキのことを考えていて、どうして他の女のところへ行くんですか」

「どうしてだか、わからないか」

「なんで僕が」

「部下の履歴なら一通り知っておくのが上官なんだ。まったく、知っているというのは人を卑屈にさせるよ」

 僕はしばらく目を閉じた。闇を背景にしてまた吹雪が見えた。

「サキは」

「ブロックA-8。強化人間だ。十五歳の時に千歳の第一肢機隊に配属された。俗に言う実験中隊だな。いろんな試作品を扱う、軍の中でもずば抜けて九木崎の息が強くかかっていた部署。あそこは投影器適性の高いのばっかり集めてたんだが、あいつは例外だった。てんでだめだったな。適性の高い奴が使えるだけの肢闘なんて実戦では役に立たないから、平均以下の才でも扱えるかどうか、たぶんそのテストのための人材だった。実戦ではほとんどミズチにしか乗らなかったらしいけどな。しかし、あいつはとんだ落第生だったよ。癇癪持ちで命令は聞かないし、協調性はないし、俺も一回喧嘩吹っ掛けられた。これ、その時の傷」

 鹿屋は顎を持ち上げて首筋を見せた。綺麗に剃られた中に太いケロイドが一筋走っている。

「刃物を持って喧嘩ですか」

「そう。ちゃんと頸を狙ってくるんだよ。そういうとこ動物的だったな」

「猟奇的だな」

「でも頭がない女じゃなかった」

「脳味噌がなかったら肢闘のオペレータなんかやってられないと思うけど」

「普通の人間だって頭がないとやっていけないだろ。サキはちゃんと考えているんだ。何が人間的で、何がそうではないか。諏訪野、投影器技術の終着点がどこにあるかわかるか」

「人間の身体の拡張、あるいは新しい形態の模索」

「平たく言えば、人間がなぜ人間の体に収まっているのか、別の体を与えられた時に人間はその心性まで変化するのか、その探求というわけだ。投影器を介して、まずは肢闘という人型の別の身体から、だんだん人型から異なる形態へ広げていく。三堂が空自と組んでやってる実験なんかはその走りだ。じゃあ、これをどう思う。九木崎は前に一度肢闘の無人化を試したことがあるんだが」

「それは……ナンセンスだ。まったく無意味じゃないですか。ロボットを作っているのと同じ。投影器は関係ない。人間が蚊帳の外に置かれていて、人間に利益がない」

「独自の思考を行う機械を人体に収めてみるというのもまた人間の探究だと思わないか。古典的だが」

「でもそれはなんだか人間の自滅行為みたいだなあ」

「サキもそう思ったんじゃないかな」

「え?」

「だからAIを積んだ試験機に決闘を申し入れた。実際の事態はもっと複雑だから、比喩的な表現だがね。同じミズチ同士潰しあって、サキが勝った。九木崎に居られなくなったあいつは、だから軍を去ったんだ。今は広島に居るだろ。友達の実家があって、煮雪って言うんだけど、彼女から時々便りが来るんでね。サキはもうオペレータを本職だとは思ってないみたいだ」

「じゃあ、連絡がつくんですか」

「つかない。サキ自身は俺のことを嫌っているだろうから」

 僕は窓の外を見た。鹿屋の横顔を努めて見ないようにしていた。「好きだったんですね、サキのこと」

「ああ」

「愛していた」

「ああ」

 僕はじっと外を見ていた。低い太陽が太腿の上に落ちてじりじりと焼いていた。鹿屋がサキを愛していたのだとして、報告の時に灘見の件とは関係ないと言い張ったのは彼女を庇うためだったのだろうか。違う。庇うということを思いつくほど鹿屋はサキの現在の事情を知らない。鹿屋はたぶんサキのことを考えたくなかっただけだ。だとしたら、なぜ……。

 鹿屋は見通しの良いバイパスの直線で速度を上げた。踏み込んでから「少し出すぞ」と僕に忠告した。停車状態で訊かれていたらドアを開けて降りていただろうけど、今は天井の取っ手に掴まるしかなかった。

 左カーブに差し掛かる。そのままの速度で突っ込むのかと思った。ぎりぎりのところでブレーキを踏んで、すぐアクセルを開く。タイヤが鳴く。エンジンが唸る。ひっくり返らないか心配なくらい右に傾く。ちょっと浮いた感触があって、急に内側に切れ込む。大回り気味だったコーナリングが一気に半径を小さくする。スリップやドリフトではなかった。タイヤが路面を噛んでいるのはわかった。

 僕は遠心力の中で目を丸くして前から対向車が来ないことを祈っていた。直線に戻ってようやく安心できた。ちらっと見てみると鹿屋は少し楽しそうだった。仕事にしろプライベートにしろ、誰かと話している間には見せない表情だった。人間というのは他人が居るかどうかで性格の変わる生き物だと思う。彼とは逆に、大勢に囲まれている時はよく喋るのに、一人になった途端険しい顔をして黙っている人間というのも居る。

「曲がっている間に緩めたら駄目なんだ。こいつはもともとフロントヘビーだから、ブレーキで重心を前に送ると余計にアンダーステアが出る。コーナは加速しながら抜けるような気持ちで行くんだ。そうすれば縁石にキスする前には急激に切れてくる」

「後輪にトルクが集中する?」

「そうだ。でも、後輪一軸だったら今のはスピンだ。四駆だから今のができる。ジンクスだけどな、俺は四駆しか乗らないんだ。ずいぶん恐ろしそうだったが、バイクじゃこんなことしないか?」

「バイクだったらコーナリングではバンクするから、横には力がかからない。ハンドルだけ切ったら掴まるものがないから、そのまま倒れる。助手席もないし」僕はちょっとヒステリックに答えた。

 鹿屋の危険な運転はその一度だけだった。すぐに市街地に入ってしまったから、勝手な運転ができるような空いた場所がそれ以降なかったというだけかもしれない。

 それと、どうやら彼は運転中に音楽を聞くタイプではないらしかった。ダッシュボードの中まで覗く気にはなれなかったが、CDだとか、特にそれらしいものが見当たらない。キャビンはエンジンの振動と排気音が満ちていた。それは声だ。ドライバは車を完全な他者にしたまま理解しなければいけない。肢闘にはそれがない。バッテリの唸りは心臓の鼓動、オペレータの体の中にある感覚。機体はもはや自分自身に他ならない。

 車にもコンピュータが積まれて人間の感覚に順応するようになった。新しい車が運転者の技術が悪くてもそれなりの動きをする一方で、古い車は操作がシビアでそれだけ角が立っている。まるで人間の身体感覚など通用しないような道具機械の集合体である。操作は複雑で、ひとつの動作にいくつものプロセスが必要とされる。ドライバはそのために感覚を研ぎ澄まして本来の身体を忘れていく。

 肢闘は、というか身体機械投影器の技術はもともと人間が人体以外の形態に適応していくことができるかどうかを知るために研究されていた。それは同時に人間が人体の不自由を甘受するべくして機械を発展させてきたユビキタス思想と対になるものなのかもしれない。

 鹿屋は僕たちのような肢闘のための生き物に長い間接してきた。その経験が彼を特別な人間に変えたことは間違いないと思う。

「諏訪野」鹿屋が次に口を開いたのは基地に入る検問所を抜けてからだった。

「はい?」

「近々千歳から鍵鮫を一機借りてこようと思う。アンリストは軍にとっても災厄だから、許可は下りるだろう。少し動かしてみて特性を掴むといい。お前に任せるよ」

「いいんですか、僕」僕は急にわくわくしてきた。

「実戦がだめだからって、肢闘の操縦が禁止されたわけじゃない。機体の試験扱いでやる」

「ああ!」

「浮かれるなよ。あくまで非番なんだから。暇になった分、他の仕事はしてもらわないと困る」

「はい、もちろん」

「次の水曜日、横須賀だ。詳しいのはそこに送るから」鹿屋は一瞬だけ目を動かして、左手で僕の手を指した。

「それ、とは私のことですか」

「そうだよ、タリス」鹿屋は僕の手の中にあるタブラに答えた。

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