白い敵が現れる日8
翌日は空が高かった。透明な小麦粉で作ったパン生地の膨らみすぎた内側に居るみたいな不思議な青だった。宇宙との境目は薄い綿雲の網目が覆っていた。下には前日より少しばかり眠たそうな紅葉が広がっていた。〈ヒューイ〉のエンジンやロータの回転が振動で感じられた。音ではない。インカム付きのヘッドホンで耳を塞いでいるからだ。反対側の窓には護衛の〈辰馗〉対戦車ヘリがつけているのが見えた。戦闘ヘリでは一番新しい採用機種で、二十年くらい前に登場した時には白っぽい灰色の塗装が特徴的だったらしいけど、この時のは三色塗り分けの国内用迷彩だった。僕が乗っているヒューイが一九五〇年代の機種だから、まあ向こうにしてみれば老人介添えみたいな感じかもしれない。二機の羽音が混ざってきーんという唸りが時々ヘッドホンを突破してきた。
僕はパイロットの座席に正面を塞がれる形で狭いキャビンに収まっていた。僕もそんなに体の小さな方ではないけれど、溝ヶ瀬は僕より窮屈そうだ。彼の腕に僕の肩が刺さっていて、彼が力を抜いているのがわかった。飛ぶのは慣れているようで、空挺部隊のパラシュート部隊とか、もしかしたらプロの経験があるのかもしれない。座席はアルミの骨に布張りで、どちらかというと溝ヶ瀬の腕の方が柔らかかった。
機体は少し右に傾いて戦場跡の空域に航跡で円を描く。溝ヶ瀬の声がインカム越しに質問をした。どれも戦闘状況の展開についてだったので、尋問を受けにきたつもりの僕にとっては些か拍子抜けになった。きっと僕が嘘をつくかどうか本番の尋問の前に確かめたかっただけ。だから僕は話を聞くよりも折角の機会に空からの景色を見ておくことにした。肢闘の動きを酷く制約する木々の幹や枝は上からだとほとんど見えなかった。ただ赤や黄色やまだ緑の葉が山の形に積もって本当の地面から浮かんだ地表になりすましていた。茶色く湿った山肌がぽっかり露出しているところもあった。榴弾が集中した所なんか、ああやって植物を根こそぎ抉ってしまうのだ。
僕はタブラで何枚か写真を撮った。
それをあとで佳折に見せると、写っている樹木の葉の色や枝ぶりや生え方から大方の種類を言い当てた。褐色系はブナ、スズカケ、ケヤキ。黄色系はイチョウとシラカバ。赤色系はイロハカエデ、ニシキギ、ハゼノキ。それは彼女の地理学的な知識の一端で、センスは測量会社を持っている父から譲り受けたものだった。植物に詳しいから戦闘でやられた所を見るのは痛ましそうだったが一葉だけ彼女の笑いを誘ったのがあった。
「へえ、任務中でも手を振ってくれるのね」
辰馗が下になった時に森を背景に撮ったものだ。うまく窓が光らずにコクピットの中が見えて、前席の鹿屋が手を振っている。
「いや、どうかな、ふざけているのでもないけど……それは鹿屋だよ。僕がカメラを向けるのがわかったからやったんだと思う。ちゃんと見てるぞって」
「鹿屋さん、ヘリコプタの操縦できるの?」佳折はびっくりして訊いた。
「え?……ああ。それは鹿屋が操縦してるんじゃないよ。パイロットは後ろの人。前はガンナー席っていって、武器を扱う人が乗るんだ」
「そうなの。へえ、はじめて知ったな。でもさ、後ろの席から操縦って前が見にくくないの?」
「どうかな、僕もやったことはないし。ただ、戦闘ヘリだから、離着陸の時に少し前が見づらいよりは、戦う時に下の敵が見えない方がいけないんじゃないかな」
「なるほど…」佳折は写真を映しているタブラを上にしてもう一周他の写真を見た。バックライトの眩しい光が彼女の顔を照らす。綺麗な紅葉と、同じ紅葉があるべき土の山肌が写っているはずだ。「それにしても酷いな」
「この間の戦闘だけじゃないよ。前にやられた所もそのまま残ってて、だんだん増えていく。そうやって山が禿げていくんだ」
「でもね、こうやっていると、胸が痛むのがわかると、人間にもちゃんと他の生き物に共感する能力があるんだってわかるでしょう。なんて、ちょっと綺麗事ね。それは木に痛みがあるならの話よね。もし無いなら、それは人間の傲慢かもしれないし。木に心ってあると思う?」
「どうだろう。構造的にはないと思うけど」
「枝が折れて、樹液が染み出て、固まったりするじゃない?」
「うん、そうだな、感情の無いものに心を想像するのは別に傲慢じゃないんじゃないかな。だって、明らかに命ではないものにだって人は共感できるだろ。僕なんか捨てられた機械とか見ると妙にじんわりくるけど」
佳折はうーんと長く唸って半分寝返りを打った。「理解できたのかなって考える時、やっぱり本当に心のあるものが相手でないとそれが虚しい努力って感じがしちゃうのよ」
「本当に心があると信じられるものにだけ共感すればいい」
佳折は頷いた。「人間と木が少ししかわかり合えないのは、やっぱり生きる時間の長さが違うからかなって思うのよ。寿命もそうだけど、人間みたいに一日の生活でひーひー言ったりしないでしょう。種類にもよるけど、一ヶ月分の水分くらい楽々貯めておけるじゃない。人間は明日のことを考えようって言うけど、木は同じくらいの気持ちで一年先を考えているかもしれない」
「なるほどね、そしたら木の思考っていうのは人間にとってはとても間延びしたもので感じ取りにくいかもしれないな」
「そうそう。再生速度を遅くしたら別の人の声みたいって、あんな感じ。遅すぎると、それは音ではあるんだけど、何を喋っているとは聴き取れないわけ。そういう別の思考速度を持つ生き物が同じ世界に共存していて、上手くかどうかはわからないけど、とにかくどうにかやっているっていうのは不思議なことよね。ひとつひとつの命じゃなくて、もっと長い種の時間の流れみたいなもので見たら何らかの秩序はあるのかもしれないけど、それを一つの命が捉えることは不可能なんだろうな」
佳折はそう言って目を瞑った。彼女が寝そべっているのは丘になった草原で、その頭上には澱みない星空が広がっている。そうしているうちにだんだんと意識が溶けて、自分がもっと大きな存在になったのを感じている。そんなふうに思える横顔だった。
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