白い敵が現れる日6

 僕は猫みたいにびっくりして振り返った。というのも、ずっとそばにいた他人の気配を長い間感じることができなかったからだ。三堂ミドウがパイプ椅子を立てて脚を組んでいた。ズボンが電気ストーブの赤い光に染められている。僕が潜っている様を背後でずっと観察していたらしい。俯いた顔の中で目だけが僕の方へ向いていた。それは味方殺しに向けられる咎と軽蔑だと僕はすぐに気付いた。

 彼は顔の横で手を広げて挨拶をする。「ひゅう、諏訪野くんらしくないなあ。さっぱり警戒心が薄れちゃってるじゃないか」

 僕も「やあ」と返す。「見つけられてたか」

「君の面白いとこはさ、そういうリアクションの薄いところだよね」彼はにっこり笑う。性格のくせに優しげで淡泊な外見をしていて、絵本によく出てくる北欧の小さな王子様みたいな感じなんだ。だから制服の上に長いコートというのが似合っている。

 僕らはその場を後にして階段に向かって歩いた。三堂はストーブの電源を切ってプラグを抜き、椅子と一緒に壁際へ寄せてそのままにした。すぐに使う予定でもあるみたいな片づけ方だった。

 僕が驚いたのは彼がこっそりしていたというのだけが理由ではない。彼は空軍の依頼で一週間ほど硫黄島に飛んでいたはずだ。関係のない僕には詳しい仕事内容は教えられていないけれど、飛行機に投影器の技術をスピンオフするための研究関係というのは簡単に想像がつく。各務原基地が西側の攻撃でぼろぼろになってからは開発関係部署が入間と硫黄島に避難していた。そのあたりのいきさつは僕より三堂が詳しい。本格的な飛行試験は硫黄島に持って行ってやるらしい。出張はどうだったかと訊いてやると、彼は空自の接待は鬼だと散々愚痴った。硫黄島の雰囲気が気に入らないとか、輸送機の乗り心地が悪くて痔になりそうだったとか、そういった酷い弱音だ。

「飛行機っていうのはすごいよな。肢闘の手足と同じに、こう、主翼と尾翼に神経が行き渡るんだろう」僕は訊いた。我々はキャットウォークを降りて格納庫を閉じ、そのまま裏手を本部棟に向って歩く。

「あんなもんはべつに生身だって変わりゃしないぜ。人間だって両手を広げれば掌の向きを変えるだけでロールできるんだからね」三堂は荷物を肩にかけて両手を広げてみせた。

「それはそうかもしんないけど、落ちていく時の話だろ。自分の力で地面を離れた後も昇っていけるっていうのがすごいと思うんだよ」

「そりゃあね、君、なんたってエンジンは難しいよ。人間でいうところの心臓だって豪語する奴がいるけど、全然違うな。体に穴が開いてて、ものすごい量の血液が心臓に流れ込んで後ろから噴出されているわけじゃないからな」

「うわ、それはなんだか……とてつもないな」

「だからエンジン様は気高くて気難しいお方なんだよ。そこを理解できるのが僕の努力と才能ってこと」三堂は腰に手を当てて鼻を高くした。薄目を開けて僕を見下ろす。背は僕の方が高い。「なんだよ、君も自慢してみたらどうだ」

「自慢って何を?」

「もう、とぼけないでくれよな。さっき潜ってタリスと話してたんだろう。君の目がどんなふうなのか僕も興味があるんだ」

「へえ、そういうのは佳折だけかと思ってたけどな」

「うん、僕も彼女から聞いたんだな。いいなあ、私も見てみたいなあってきらきらしてたぜ。なにしろ、機械に体を入れるのと、電子世界って非現実を捉えるのとじゃあ、次元が違うよ。僕は結局別の目で現実を見ているだけだからな。潜っても目を開けて水の中を見られるっていうのは、彼女にとっては大きいじゃないか。だから彼女は君を選んだんだろう?」

「プラグマだな」僕は首を傾げた。

「げ。本気で言ったのか? 言っとくけど僕のは冗談だぜ」

「僕は冷たい男だよ」

「まさか。君、自覚がないなら言ってやるけどね、口の割に司馬さんに甘いぜ」

「どうかな。三堂、おまえそんな話をするために待ってたのか?」

「おいおい、怒るなよ」

「報告だろ。長居しなくてもいいのに」

「そうだよ。この時間だったらまだ起きてるだろうと思ったんだけど、居なかったな、鹿屋。ドアに今日は帰りますって張り紙なんかしちまってさ、その下に電話番号まで書いてんだよ」

「鹿屋が?」

「そう。平日なのに珍しいよね。それで仕方がないから、他に誰か知り合いが残ってないかって、ちょっかいを出しに来たわけ」

「で、誰か居た?」

「まあね、目の前においしそうなのが一匹」

 僕は少し振り向いて三堂の目を盗み見た。さっきと変らない印象だった。

 すると彼は大股で僕を追い抜いて目の前に立ち塞がった。「諏訪野くんさぁ、君、ぼうっとしてるぜ。自分でわかってんだろ。灘見のせいで桑名(クワナ)のことでも思い出したんじゃないのか」

「違う、あいつは違う」僕はポケットに手を突っ込んで眉間の皺を険しく見せて三堂を避けた。

 我々はその位置関係のまま本部棟裏手の駐車場に着いた。三堂のトヨタ・カルディナがぽつんと一台だけ見えた。

「一応誘っておくけど?」と三堂。駅前のバーに行って見ず知らずの女の子から可愛がってもらうのが彼の趣味だった。おしゃべりが上手だから結構すぐものにしてしまう。僕は司馬佳折との付き合いをここ半年断る理由にしていた。

「それに、ここで待っていないと逃亡者扱いだ」

「そうか」

「じゃあな」

「じゃあ。…ああ、戻ってきたら君に渡そうと思っていたものがあったんだけどな、その調子だと心配だから、また今度にしておくよ」

 僕は休憩室に戻り、押入れから毛布を出してソファの上で巻物になった。正面にストーブが見えた。ダイカストに重ねた白い塗料が角の所で剥げている。操作盤の蓋が歪んできちんと閉まっていない。そこへ触れるつもりで手を動かしてみた。毛布が邪魔をした。僕はスフィンクスのミイラみたいに閉じ込められている。肢闘に乗っている時と同じ。

 なぜ僕は肢闘に乗っている時の感覚など知っているのだろう。贋の体はその時機体そのものになるのに。贋は生身を忘れられるから贋なのだ。だから人間と違う。でも、時々無性にあの狭いコクピットの中に閉じ込められたくなる。あそこに安らぎがあるのを贋は誰でも知っている。

 二年前の夏から翌々年の春にかけて幹線鉄道の入札問題を発端にした国際紛争が中国東北部で勃発していた。中国とロシアを巻き込んだ結構大きな戦争だ。日本は現地の日本資本企業や工場を守らなければならなくなって、僕ら肢闘回しも三ヶ月の交代制で瀋陽を拠点に大連からチチハルにかけて結構広い地域で活動していた。桑名と知り合ったのは初めての冬、二期目の部隊編成の時だ。弓狐のオペレータというのは同じだったが、贋ではなかった。いわゆる「端子付き」としては贋は三代目のブロックCに当たるわけで、その前身ブロックBのうちの一人だった。つまり歳上の先輩だ。学校のクラスみたいに自己紹介の時間が用意されていたわけではないし、誰と親密になるかなんてことの成り行きで話すことになるかどうか、そういう偶然でしかない。桑名が自殺したのは僕と知り合って間もなくのことだったが、僕のことを知る前から死ぬことは決めていたのではないかと思う。錦州の戦闘から瀋陽に戻ってすぐの夜に宿舎の部屋で首を切った。僕はとある事情からそれを目撃していて、次の朝から夜中まで参考人として牢屋に閉じ込められた。今思えば乱暴な扱いを受けたものだが、当時は連日のように出撃があって、被撃墜でもないのに一人のオペレータを失ったのは痛手だった。拘留が一昼夜で済んだのもそのせいだった。僕はたちまち戦線に戻された。

 牢屋に居る間、尋問以外の唯一の出来事がサキとの接触だった。サキは鉄格子越しにものすごい力で胸倉を掴んで頬を殴った。拳を難なく格子の間に通してきたことに僕は驚いた。サキの白い鍵鮫の目撃情報はそこかしこから上がっていて、どの企業の誰を狙っているとか、誰が差し金とか、そんな話題は食事の時によく耳にすることで、実際に瀋陽の司令部に出入りしているらしかったが、僕が会ったのはこの一度だけだ。背が高く面長で彫が深く男性的な顔立ちだった。鼻柱を中心に雀斑が酷くて、目の周りに皺があった。サキは僕が桑名の自殺を防げる立場に居たと思っていて、戦場の外でオペレータを死なせたことに酷く腹を立てていた。「なぜおまえが救ってやらなかった」サキはそう言った。僕の足を掴んでもう一度引き寄せ、おまえが味方の戦力に穴を開けたんだぞと罵倒した。二度は殴らなかったが、一度目のせいで顔面がもう駄目になったみたいなおかしな感覚がして鼻血が出ていて、何も返事ができなかった。僕はサキの声を訊いたが、サキは僕の声を聞かなかった。

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