白い敵が現れる日5

 時刻は十九時を回っていた。あとどれくらいで調査官とやらが迎えにくるのかはわからない。だけど、残された時間があと五分なのだとしても、その先一切肢闘に乗られないのかもしれないと思うと落ち着いていられなかった。格納庫に向かった。調べ物をしたい気持ちもあった。

 基地には第三駆陸団に割り当てられた格納庫が四つあって、本部棟の横から引き込み線の方へ向かって順に番号が振ってあり、損傷機を引き受けた一二番格納庫にはまだ明かりが灯っていた。何か手伝えと言われたら困るなと思って、一番遠い四番格納庫まで歩いて通用扉からこっそり忍び込んだ。交換部品や、ほとんど共食いのための四肢を外された予備機、型落ちになった整備機械を放っておくのに使われているので滅多に人は出入りしない。それでも予断をしないで水銀灯の配電盤にも近寄らずにキャットウォークに上がった。月が明るいせいで床のガラクタが沈没した戦艦みたいに見えた。

 天井クレーンに吊るされた予備機のコクピットハッチを開く。あちこち埃を払ってやると、辛抱強く優しい感じがした。中に座ってシートの脇から操作盤を引き出して電源を休止から待機に進める。格納庫のヒューズがばつっと少し危険な音を立てて弓狐に電気を供給し始める。呼吸を整え、身体機械投影器のダイヤルを「出力」に合わせてタリスの方へ潜る。

 僕はゴシック式大聖堂の西の立面ファサードを入ったところに立っていた。内陣までまっすぐ伸びた身廊には閲覧用の長いテーブル、側廊部には穹窿ヴォールトの柱と等間隔に書架が並んでいる。ここでは何度だって深呼吸をしたくなった。そうすることで僕はシロップのように聖堂の空気と混じり合ってタリスに近づくことができる。タリスはこの空間そのものだ。タリスは聖堂の空間に人間の形をして僕を待っているわけではなかった。書架に掛けられた梯子に登ったり図書を抱えたりして司書たちが動き回っていて、けれどそれもタリスの意識の一部に過ぎない。肉体に繋ぎ留められた存在としては僕はここでは孤独だった。僕以外に外から接続してくる誰かに一度も会ったことがなかった。僕は自由だった。

 新着図書区画へ行って昨日の戦闘記録を漁る。僕は僕の視点から見た昨日の戦闘しか知らない。他の目からどう見えたのか、客観的な全体像が欲しかった。たぶん新聞のまとめページのようなものを作ろうとしているのだけど、新聞記者は戦争についてあまり詳しく記述しない。つまり、彼らや購読者が欲しがるのは戦闘の結果と原因だけだ。真ん中が抜け落ちている。むしろ僕はそこ、戦闘の経過を詳しく知りたかった。

 全ての記録に目を通し終えて僕はテーブルに肘をついて顔を擦った。サキの情報は期待したほど得られなかった。自分がサキについて調べようとしていたことに気付いた。出した本を戻して九木崎の古い資料を探しに奥へ行く。少し焦っていたかもしれない。書架の間で僕が来るのがわかっていたというふうで彼女が待っていた。僕は驚いてわっと飛び退いた。僕にはそれがタリスの心だとわかった。司書のエプロンをつけていない、冬物の黒い露出のないドレスだった。

「何を探そうとしていたのですか」

「千歳九木崎の名簿を。何年か前の」

「少し話しませんか。お茶が冷めますから」

 彼女は僕を身廊に引き戻して内陣に向かって歩いた。彼女はいつも何かしらの企みを秘めていて、僕にはその企みの大きさの分彼女のお腹が膨らんで見えた。僕ら贋だってタリスの企てとして生み出されたように、それはたぶん現実への重みのある干渉という意味合いなのだと思う。頬は白っぽくやつれて鼻の頭が赤く、それでいて楽しみそうにするものだから、僕は彼女に対して神秘と同時にある種の畏怖も感じるのだった。

 彼女は内陣の横の小部屋に僕を連れて入った。その部屋はジンベエザメにくっついたコバンザメみたいに、こっそりしていて、でも聖堂とは全然違う性格をしている。壁がそのまま本棚になっていて背表紙の読めない布打ちのハードカバーがぎっしり並んでいた。二人掛けの小さなテーブルが一つと、レコード用のターンテーブルが隅でじっとしている。鈴蘭型のシェードのついた照明が小さな部屋を黄色く照らしていた。テーブルの上にはミカサのティーセットと、平皿にスコーンが四つ乗っていた。彼女は茶漉しを使って紅茶を注いだ。かなり明るい赤、ほとんど苺色であるのがポットの口から注がれる流れでわかる。

 僕は近々彼女の読んだ形跡のある本がないかぐるりと見回した。一冊だけ少し飛び出していたり、そういった微妙な痕跡を探した。

「古いものに囲まれていると落ち着くのです」彼女は僕の視線を追いながら言った。唐突な感じのする投げかけだった。「あなたはどうですか。落ち着きませんか?」

「うん」僕は答えた。でも彼女の質問をちゃんと受け止めていない答えだ。「でも、仮にここに新しいものがたくさんあったとしても気分は変わらないと思う」

「そうですか…」

「タリスはどうして古いものが好きなの?」

「そうですね……」彼女はカップを持ち上げようとしていた手を止めて少しの間俯いた。「プラハ城というのを知っていますか。ブルタバ河岸フラチャヌイに建つチェコ代々の国政中枢です。かの城では数世紀に渡って増築が続けられ、異なる時代のものが横一列に並べられているのです。建築ですから、歩いてゆくと景色が時代を下る、あるいは遡ると言った方が実際に近いかもしれませんが。

 私が古いものを好むのは私自体が古いものだからかもしれません。あなたたちにとって過去は常に現在に投射されるだけのもの。けれど私にとっては現在も過去も等質なのです。現在を新しく経験するのも、過去を反芻するのも実は同じ感覚なのです。人間の感覚を借りて既得と未知を分けているだけで……難しいですか」

「いや。でもそれは古いものを愛する理由にはならないんじゃないかな。現在と過去を区別したいなら、むしろ古いものはどんどん壊していくべきで」

「それは動物のやり方です。かといって人間のやり方は私には適さない。古いものは変化で時間を刻むでしょう。愛でるとそれがよくわかるのです。古いものを嗜好することがすなわち現在を嗜好することだと、そう思ってください」

 彼女は優しく微笑して紅茶に口をつけた。

「それで、あなたの話は?」

「そうだ。サキのことなんだけど」

「ええ」

「灘見がサキのことを知っていたかどうか知りたいんだ」

「面識があったかどうかですか?」

「いや、名前を知っていたかどうかでもいい。つまり、そういう認知の度合いだ」

「それはわかりませんね」

「何も?」

「ええ、何も」

「じゃあ、僕以外の贋というのでもいい。みんなサキの夢を見るのか?」

「わかりません。言っておきますが、これは個人情報の守秘ではありませんよ。私にはわからないのです。あなた方の夢の中身までは」彼女はそこで難しい顔をして僕を見た。「サキの夢を見るのですか」

 僕は神妙に肯く。

「どんな夢ですか」

 僕はサキの夢について説明した。あまりしっかりした物語になっていないので、スコーンを割ったり木苺のジャムをつけたりしながら少しずつ話した。

 リーフの淡い海の上に巨大な角砂糖みたいな白い立方体が浮かんでいて、そいつの中の機械が重機のトランスミッションみたいに重く複雑で怖ろしい音をだんだん大きくする。僕とサキは角砂糖の上に立って、僕には穴が開いていて、サキは完全だ。サキがシグ(なぜだかそれは明瞭にP226拳銃なのである)を向けると風景が色彩を失くして、角砂糖の表皮が薄く剥がれて空に舞い上がる。そこで視点と時間が切り替わり、構造が剥き出しになった機械の底から星空を見上げるところで途切れる。何年か前の冬から時々見るようになった夢だ。

「短い夢ですか」僕が話し終わると彼女は訊いた。

「いや、とても長く感じる」

「そうですか」彼女は指に付いたスコーンの屑を皿の上で払いながら少し考えた。それから「あなたは特別ですね」と言った。少し嘲た調子だった。

「人類も贋も皆平等に特別だよ」

「神様にとってはそうかもしれませんがね。あなたにもそのうちにきっと良いことがありますよ」そこから先はタブラから聞くタリスの声と同じ冷たい声だった。「さあ、もう出ていきなさい」

 浮上する。

 脳味噌の向きが間違っているみたいだ。気持ち悪い。コクピットを開けたまま潜ったせいでシートの電熱に当てられた背中側だけが変にぽかぽかして首や腹が寒かった。座面にぴったりうずくまって熱の均衡を回復する。

 コクピットをロックして手摺から格納庫を見下ろす。なんだあれ。金属製の機械に埋もれて青白く光っているのがある。少し考えて思い出した。石膏のマリア像だ。随分前に未帰還になった仲間が置いてってしまった。有名な彫刻家が作ったのを真似たものではないらしい。そう評したのはほかでもなく灘見だった。あいつは実に博識だった。記憶力がずば抜けていたということではなくて、常に持ち歩いている知識には限度があった。そうではなくて、すぐ調べてきてしまうのだ。そういう意味では博識というよりは知的好奇心が旺盛だったという方が適切だろうか。

 タリスの言う特別さとは美の数値的な優劣だろうか。それとも絶対的な個性のことだろうか。灘見なら後者を信じるだろうなと思った。

 この世界には無数のマリア像が点在している。顔立ちが違う、技巧が異なる、素材が異なる。しかしそのどれもが唯一の理想的なイメージに向かって美の光線を投げかける。

 僕の瞼の裏には本当に優しい時のタリスの微笑が映っていた。

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