白い敵が現れる日4
灘見の死が決して小さくない問題だと痛感し始めたのは基地に着いてからだ。
透き通った藍色の夜が来た。鹿屋に報告を済ませた僕は一階下の露台に出て煙草を吸った。輸送機のための滑走路と手前の駐機場が一望できる。北の端に引き込み線が見える。青梅線との分岐点まで昭和記念公園の地下を通るので線路の周りが少し掘り込まれた形で傾斜している。車庫の手前にまだ操重車と交換用のディーゼル機関車が見えた。短時間で回収できた五機を連れ帰ったが、そのうち一機が電解液漏れを起こして格納庫を目前に倒れていた。幌も被せられない量だ。
後ろを見ると高い管制塔の下に鹿屋の部屋の明かりが点いているのが見えた。彼が今日の戦闘のせいで頭を抱えているのは考えなくてもわかる。第三駆陸団が装備する弓狐の定数は二個肢機隊で二十。そこから三機を損失した。検査次第では使えなくなる機がもう少し増えるかもしれない。
鹿屋は第三駆陸団の司令官で、歳は四十過ぎ。鷲みたいに精悍で、ウェーブのかかった髪をいつもジェルで固めている。
僕は自分の機体を格納庫に収めてシャワーを浴び、それから報告のために鹿屋を探した。彼は医務室に居てベッドに寝かされた連中に話を聞いていた。軽傷のオペレータは基地に戻って神経系の診察を受けていた。贋のための医療機器ならそこらの病院より基地の方が整っている。放っておくと記憶が飛んだりするから、これは鹿屋の流儀だろうが、健常者より負傷者の話を先に聞くことにしているようだ。鹿屋の用事が済むのを待ちつつ僕は空調機の吹き出し口の下に立って温風で頭を乾かした。
鹿屋はサキのことにはあまり興味がないようだった。どこの組織に属するわけでもなく、まるでフリーランスの記者のように、懲悪的な活動を貫いて世論を煽動する異端のオペレータ。国家権力にとっては厄介者だと鹿屋は前に言っていた。どこかの紛争地で白い鍵鮫が両成敗する姿をテレビが流した時、僕と鹿屋は別段重要でもない業務連絡をするために二人で休憩室に居て、僕が満州で会ったことがあると言うと、その時は続きを聞きたそうな反応をしたのだ。
それが今日、鹿屋は灘見の一件を重大な問題だと捉えていて、しかし白い鍵鮫に関しては触れようとしない。僕は何か繋がりがあるのではないかと思ったから、彼の態度はやっぱり不自然だった。医務室から鹿屋が使っている第三駆陸団の事務室に上がるまでに僕は戦闘の粗筋を説明して、部屋に入って応接セットで詳細の話を続けた。鹿屋は灘見の行動について細かく質問した。彼がどこへ行こうとしていて、目的が何で、味方に銃を向けたかどうか。それを僕に伝えたかどうか、僕が認識していたかどうか。僕は戦闘中の灘見の行動については知っていることをきれいに話したが、早朝に川原で話したことは言わなかった。少し鹿屋のことが信用できなかったからだと思う。
変だと思ったことがもう一つ。普段なら報告書の類しか置かれることのないテーブルのその隅に写真立てが寝かされていて、硝子が光って何が写っているのかは見えなかったが、鹿屋は時々そいつを気にして仕舞いたそうにちょっと手を伸ばした。ほとんどの場合その指先は僕の視線に撃墜されてほんのちょっと写真寄りに、テーブルの縁に不時着した。
「白い鍵鮫を見ました。今日、まるで僕と灘見がやり合うのを観察するみたいだった」僕はもどかしくなって言ってしまった。
「ああ、矢田(ヤタ)と保科(ホシナ)も言ってたな。変な動きをするオブジェクトがレーダに映ったって」鹿屋はサキのことなんてすっかり忘れていたみたいな言い方をした。「でも、この一件には関係ないだろう」
「他に接触した機は?」
「いや、おまえだけだ。いいか、今俺が訊いた通りに調査官も訊くだろうから同じ通りに話せ」と鹿屋は言った。「それまでは基地を出るなよ」
「僕が聴取を受けるのか……」
「ああ。灘見が死んだ以上、真相に一番近いのはお前だからな。我慢しろよ」
僕は扉の前で一礼して部屋を出た。鹿屋は窓辺に行って煙草を咥えたところだった。彼の姿は逆光の陰に沈んで、けれど斜めに向けた目には細く鋭い光があった。
僕は露台の端で風神様みたいにぷーっと煙を吹き出した。寄りかかったステンレスの手摺は水垢や砂で手触りがざらざらになっている。
「おそらく証拠は出ないでしょう」タリスは言った。
「証拠って、灘見が君に背いた?」
「左様です。彼は私には閉ざしていました。見守られているのが逆に苦痛であるということもあるのです。案外旅するのが好きだったのかもしれませんね」
「灘見が亡命を試みたって証拠は無いんだな。亡命たって、国内じゃなあ」
「軍は彼の死を事件化しないでしょう。する必要性もありません。表向きにはただの殉死です。しかしそういった処理で問題が無かったことにはなりません。贋の一人が離反的な行動を起こしたこと。あるいはそれを唆されたこと」
「タリスはどうなると思う?」
「生きている誰かに責任を問うでしょう。一見確証も無く撃ったあなたか、それとも彼の思想を育ててしまった私か」
「灘見の責任では終わらないか……」
「それはつまり、私の責任です」
「僕もタリスもこれからはきちんと機能する。それで満足できないんだろうか」
「でも人はそれをするのですよ」
僕はまたもどかしくなって爪先で床を叩いた。タリスはあの時止めてくださいと言ったのだ。僕が灘見を殺さずに生け捕りにしていれば話を聞くことができたのだ。
「タリス、どう処理するつもりだ」僕は訊いた。手摺に置いたタブラを覗き込む。
「IFFの誤認による誤射というのが妥当でしょう」
「それじゃあ、だめじゃないか」
「なぜです?」
「機体のエラーにしたらメーカが追及されることになる。九木崎も、もちろん君もだ。それは嫌だな。だから、できれば僕のせいにしてほしい。灘見の行動が敵対的に見えたから僕は咄嗟に引き金を引いた。そう言うんだ。それが事実だから」
自分の尊厳よりもタリスへの愛情のために僕はそう言った。けれど彼女は何も答えなかった。タブラの中の表情もそのまま。それが意外だった。僕は見返りを欲しがった僕に気付いた。
吸殻を地面に押しつけて灰皿に入れた。鞄から霧吹き付きの香水瓶を取って真上に吹きかける。煙草の後味みたいなものが僕は嫌いだった。放っておくと頭が痛くなってくる。
ノーズアートに描かれた天使のように、目を瞑って額から天に伸びる。
きっとタリスに愛が無いわけではない。彼女は平等な愛を灘見にも注ぎ、そして裏切られたことに傷ついたではないか。ただ僕に教えたのだ。見返りを求める愛は美しくない。最も美しいのは感情さえ忘れた失意の底に注がれる愛だ。
「諏訪野くん」佳折の細い声だった。彼女は出入口の手前に立っていた。僕はどきっとした。彼女が黒っぽい恰好をしていてよかったと思う。詰襟のシャツにビロードのジャケット、トランペットスカートにメリージェーン・パンプス。軍属だが軍人ではない。
彼女は鹿みたいに走ってきて腕をクッションにして僕にぶつかった。僕は肩を持って離れないようにして、少しリンスの匂いのする髪に頬をつけた。
「死んじゃったかと思った」佳折の唇が鎖骨をしゃぶるみたいに言った。
「生きてるよ」
「どこも怪我していないの?」
「するわけないよ」
「ああ、よかった。あなただけでも無事で、本当に」
「死にかけてもないんだ。僕だけは、本当に。心配したの?」僕はちょっと吹き出して、肩を掴んだまま顔を離した。佳折は僕を見返さないままの角度で黙っていた。仕方ないので僕も黙って彼女の背中に手を回した。脇の薄い肉の下に肋骨の感触があった。肩は少し震えて尖っていた。頭の後ろに手をやって髪のひんやりとした感触を確かめたくなるくらいに、彼女の体はどこもかしこも温かかった。きっと報告の前にシャワーを浴びていたせいで湯冷めしてしまったのだろう。
佳折が下腹部を僕に押し当てた。
「したいの?」
「したいっていうか、もういけそう」
彼女は時々唐突に破廉恥なことを言う。僕がタリスのことを心配するように、彼女も僕のことが心配なのだ。その心配の分の安堵が噴出しているだけだろう。
「はしたないな」僕は口にかかりそうな彼女の髪をよけて軽くあしらった。
「いけない?」
「僕は上品だと思うけれど」
「本当?」
「うん」
「その科白は女を傷つけるわね」
「どうして?」
「ほらね。理屈攻めにされるとげんなりなの。特に甘美な気分になっている時は」
「じゃあ、いいよ」
「いいって?」
「このビッチめ」佳折が少し顔を上げたので、鼻が当たるくらいまで近づいて眉間に皺を寄せて言った。
「ひゃあ!」彼女は両手で僕を突き飛ばしてけらけら笑った。まったく曇りの無い笑いだ。「ねえ、本当に心配してたのよ。ニュース見た? 両軍に被害なんて言って騒いでてね、撃破された弓狐も映ってたの。四時くらいかなあ。本当に酷かったみたいだから、うん、あなただけでも無事でよかった」
「そう、ありがとう」僕は応えながら灘見のことを意識していた。胸に細い針が刺さったのだ。やっぱり、罪なのだろうか。
「どういたしまして」と佳折。そういう挨拶をしっかりやりなさいと強要したのは彼女だ。
僕は冷たい男で、彼女は僕に温かさを求めている。例えば、僕が屋内に向かって先を歩くと、彼女は追って来て僕のジャケットのポケットに手を突っ込んでくる。するとそこには先客の僕の手があって煙草とライタを隠している。
「今日はうちに来られるの?」と彼女は訊く。
「行かれないな」
「なぜ?」
僕は階段の防火扉の敷居の辺りで立ち止まってじっと正面から佳折の目に見入った。灰色の虹彩だった。言わないでいた方がいいのだろうけれど、でも秘密を作りたくなかった。たくさんの人間が言いたいことと言えないことの間で苦しんでいるような気がするのだ。
「灘見が死んだ」
「何?」
「僕が殺したんだ。責任の話じゃない。物理的に、僕の銃があいつのコクピットを撃った。職務上の必要性でやったことで、僕の行動に問題はない。あいつには何か考えがあって作戦から外れて、つまり、味方ではなくなったんだ」
「そう、灘見くんが……」佳折は動揺していた。
「僕の処分はまだどうなるかわからない。何もないかもしれないし、謹慎になるかもしれない。でもとにかく事情聴取があるから今夜は一人で帰ってくれよ」
基地の本部棟の一階にはちょっとしたお屋敷のリビングみたいな休憩室があって、食事用のテーブルと談話用のソファスペースとテレビ、簡単な調理台と冷蔵庫、食器棚、それから北側の壁に暖炉のように大きな旧式のストーブが据えられていた。空調が足されてからは真冬に相当な底冷えでもしない限り稼働しないやつだ。時間が遅いせいもあって人気はなかった。アラートで泊りになる時は別に宿直室を使うから、人の話し声が耳に入る休憩室で仮眠を取ろうとする奴はあまりいない。
僕らは部屋の明かりをつけ、購買で買ったおにぎりと唐揚げ、それからお湯を沸かして緑茶を入れてささやかな夕食にした。冷蔵庫にはビールもあったけれど、もしかしたら夜が明ける前に帰れるかもしれないし、佳折は車で通っているのでどちみち二人では飲めなかった。
彼女が目を瞑っているので僕はその顔をなんとなく眺めていた。西洋的に額が広く、下に切れ込んだ目頭の間が近く、鼻は小さく尖っていて、輪郭は縦に短く下顎が若干引っ込んでいる。どこか動物的な印象の顔立ちで、表現としては「かわいらしい」が当てはまるのではないか。髪は長く、少し赤みのある柔らかい黒に染めていた。
贋が生まれてからオペレータになるまでに軍人としての常識を身につける場所として、保育園と初等・中等教育機関である教養学校が設けられている。一応軍学校の系列として準学校の扱いを受ける。もともと九木崎研究所の本拠である千歳にしかなかったものだが、鷲田大将の移転計画で東京にも創設された。九年制の教養学校は娑婆だが、保育園は保護の観点から基地内にある。司馬佳折は父方の叔父を第三駆陸団の副長に持っていて、その伝手で保育園で見習いをしている。本業は大学院生で週に三日ほどは上野まで通っている。単に子供が好きというよりは、彼女なりの教育論があって色々と試してみたいようだ。研究者らしからぬ明るさがあって、贋とも積極的に話をする。基地で働いている女性は他にもいるが、彼女たちは話をするならやはり贋よりは整備工といったふうなのだ。これには生理的要因も大きいが、以前に一時期軍と九木崎の仲が険悪になったことがあって、九木崎出身の贋と単なる陸軍従事者との確執でもあるのかもしれない。佳折はむしろ九木崎寄りの人間で、その辺りをほとんど気にしないので贋からはジャンヌダルクみたいに崇められていた。でも実際のところは、聖女というよりは、例えば、人種は違うけれど自分と同じ言語を喋れる人みたいな、微妙な気安さを感じられるのだろう。
食事を終えて、今日別れたら次にどういう形で会えるかわからないという思いが起きていたらしく佳折はしたがったけれど、僕は彼女がセックスで燃え尽きるのを知っていたので体力を消耗した後で夜道を運転させるのは恐かった。キスで説得した。
流しで湯飲みと急須を濯ぎ、多少とも海苔の散らかったテーブルを拭いて佳折は帰った。硝子戸越しに手を振った。扉をくぐる前に一度、見えなくなる前にもう一度。もし僕が本部棟の前まで出ていったなら、基地の門まで出ていったなら、彼女はもっと際限なく手を振っただろう。
「司馬さんのことは大切にしてあげてください。彼女は貴重な存在です。あなたにとっても、私にとっても」とタリスは言った。度々そう言うのだ。
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