第26話 お嬢様のこと

「あら。夕涼みですか」


 俺が縁側で腰を下ろして庭の池を眺めていると、廊下を歩いていた女性の使用人に、声を掛けられた。夕日はもうほとんど沈んでいて、辺りはもう暗くなり始めていた。


「あ、もう夕ではないですね。すみません」


 そのことに気づいて、使用人はクスクスと自分の発言に対して笑う。


 俺は苦笑いで返す。


「この家は、広いですね」


 使用人が、俺の横で静かに正座をする。


「そう思いませんか」


 使用人の問いかけに、俺は戸惑いながらも答える。


「はい。……そうですね。びっくりしました」


「実は私、この家で一番の古株なんですが、未だに広すぎて全部の部屋を把握し切れていないのですよ」


 そう言って、使用人はもう一度笑う。


「そう……なんですか」


 使用人はそれほど年を食っているようには見えなかったが、若作りでもしているのだろうか。


「そうなんです。ですから……京菜お嬢様のことは、赤ん坊のころから知っているんですよ」


 そう言って、彼女は俺のほうを見る。俺はまたも、そうなんですかと繰り返す。


「京菜お嬢様は本当に物静かな方でしょう? 昔から本の虫で、私も彼女を見習わなければと、何度本を読もうとしたか。全部途中読みで置いてありますけど」


 クスクスと、使用人は笑う。よく笑う人だ。


「あの旦那様の娘に生まれたというだけで、周りからはとても大事に扱われて、けどそれが、いつしかお嬢様の負担になってしまいました」

「負担……?」


 俺はその単語が気になった。やはりそうなんだと、俺は眉を少しだけ潜めた。


「……正直私は驚きました。今日、久しぶりに会った京菜お嬢様を見て」

「え?」


 俺は、使用人の目をまじまじと見た。とても優しい目で、俺を見ている。


「お嬢様のあんなお顔、初めて見ました。笑顔まではいきませんけど、大分表情が柔らかくなっていて……楽しそうでした。あなた達のおかげですね」


 使用人の言葉に、俺はなんだかうれしい気持ちを覚えた。


 ――楽しそう。


 俺たちのおかげで、水ノ橋さんが楽しいと感じてくれているのなら、それはどんなにうれしいことだろう。


「この先、あなた達がお嬢様にどんな影響を与えてくれるのか、楽しみではあります。これはきっと、良いことだと思うんです。ありがとう。他の皆さんにも、伝えてくださいませんか」


 使用人がそう言って、優しく笑う。


「はい。少しでも、役に立てれば嬉しいです」


 俺と使用人の後ろの部屋から明かりが漏れていたので、暗くても、お互いの顔がはっきりと見て取れた。


「一つ、お聞きしていいですか? その、マルク坊ちゃまのことなのですが。連絡をもらった時、ご一緒だと聞いて驚いたのです。上手くいっているのでしょうか」


 使用人の顔は、不安そうだった。


「上手く……いっていると、思いますよ?」


 俺は一生懸命考えながら言った。


「そうですか。あ……お嬢様は学校でもいつもあの絵本を読んでいらっしゃるのですか?」


 使用人が聞いてくる。


 あの絵本。あの絵本っていつも水ノ橋さんが読んでいるあの人魚姫の絵本のことだろうか。


「人魚姫の絵本なら、ずっと」

「そうですか。やはりまだお嬢様は想っておられるのですね」

「想って?」


 俺が首を傾げると、使用人は話してくれた。


「あの絵本は、小さな頃マルクお坊ちゃまからお嬢様へプレゼントなされた物なんです。お嬢様はすごく喜んでおられて。今でもそれを大事にしていらっしゃいます。でもマルクお坊ちゃまはいつしかお嬢様に辛く当られるようになってしまって。マルクお坊ちゃまのお爺様が亡くなられた時期からでしょうか……」


「そうだったんですか」


 あの絵本はきっと水ノ橋さんにとってとても大切なものなのだろうとは思ってはいたが、まさかマルクに貰ったものだったとは。


「私は、二人に幸せになってほしいのです。許嫁とは言え、このままの関係でいていいはずがありませんから」

「――そうですね」


 俺は頷いた。


「ふふっ少し話しすぎましたかしらね。では、そろそろ仕事に戻ります」

「あ、はい」


 使用人は立ち上がり、廊下を歩いていく。俺はその姿を横目で見ながら、庭に目を戻した。

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