第16話 思わぬこと

 グラウンドから声が聞こえる。


 薬品の匂いが鼻につんとする。擦りむいた右膝が痛い。


 五月の連休明けの今日、体育の授業で球技大会の練習が行われていたはずなのに。


 俺は何故か保健室にいた。


「パスしたボールに躓いて、盛大にこけるとか。お前っ。くくっ」


 声を押し殺しながら、俺をここまで運んでくれた祐樹が笑っている。


「頼むから、笑うならしっかり笑ってくれ」

「くくっ。いや。怪我をしたお前に気をつかって。くくっ。もうだめだ」


 限界を迎えたのか、祐樹がついに大声で笑いだす。


「うるさい」


 三河が笑っている祐樹にチョップをかました。


「何すんだよ。というか、なんでお前までここにいるんだ」


 邪魔されたのを不快に思ったのか、祐樹が三河を睨む。まあ、いつものことだがこの二人は仲が悪い。


「別にいいでしょう。クラスメイトなんだから」


 むっとした顔をして三河が言うと、祐樹がすかさず一言。


「つまりは、お前のことが心配だったんだってよ」


 三河が祐樹に殴り掛かる。


「心配してくれるのはありがたいけど、授業さぼるのは感心しないなぁ」

「別にいいのよ。あたし、保健委員だし」

「あれ。そうだったっけ」


 俺が言うと、三河は頷いた。


 誰が何委員になったかは、いちいち覚えていなかった。俺は美化委員になってしまったが。


「保健の先生、もうすぐ来ると思うから、とりあえず消毒だけしておこうか」

「悪いな」


 三河は棚から消毒液を出して、長椅子に座っている俺のほうへくる。三河が俺の目の前でしゃがむと、俺の膝を触った。


「痛いけど、我慢してね」


 三河はそう言うと、消毒液を傷口に塗った。


 俺は言われた通り、我慢してそれを受け入れた。


「それにしても、元気ねぇな」


 祐樹が言う。俺はどきりとする。


「顔色悪いしね」


 三河も言う。


 これ以上隠し通せないなと俺は思った。それに二人になら話せるかもしれない。


 俺は観念して、わけを話すことにした。


「フラッシュバックしたんだ」

「え?」


 三河が首をかしげる。


「中学三年の夏。サッカー部だった俺は、学生最後の試合中に転倒。そのまま棄権した。怪我が原因で、残りの中学校生活はまともに送れなかった。いや、怪我というより心の傷みたいなもん。チームメンバーへの申し訳なさが尾を引いて、それ以来一度も部活に顔を出さなかったから。それで、そのときのことを思い出して、どうしてもパスボールがうまく取れなくなった」


 俺は顔を俯かせていた。


 どうしてもっとうまくできなかったのだろう。たくさんの後悔をした。周りは大したことではないと言うけれど、それでも俺にとってはすぐに立ち直れないほどのことだった。


「そう」


 三河が消毒液を勢いよく俺の膝に押し付けてくる。


「いってぇ」


 俺は思わず声を出し、足を押さえる。


 予告なしに消毒液をつけるのは、勘弁してほしい。何度も針で刺されたような痛みが俺の膝を襲っていた。


「今の予想してなかったでしょう」


 そう言って三河がほほ笑む。


「当たり前だろう。何するんだよ」


 俺は顔をしかめて三河を見た。


 祐樹の「うわぁ」という声が聞こえた。


「ね。今みたいに、人生って予想外のことばかり起こるでしょう。君島くんにとっては怪我がそうだった。球技大会の種目がそうだった。でもね。悪いこともあればいいこともある。楽しいこともあれば、悲しいこともある。それと一緒じゃないかな。なーんて。そんなこと言っても何の解決にもならないか」


 三河の言葉に、俺は首を横に振った。


「いや。ありがとう」


 彼女の言葉に、俺は心のどこかが楽になった気がした。


 考え方の問題だったのかもしれない。


「三河のくせに、まともなこと言ってる」


 祐樹が茶々を入れる。


「何よ、悪い?」

「いや。全然。ただ、お前がそれを言うのかと思って」


 祐樹のほうを見ると、彼はそう言って一瞬だけ真面目な顔をした。


 三河は言葉に詰まった様子だった。


 二人の間にいつもと違う空気が流れているような気がした。


「祐樹?」


 見かねて俺が声をかけると、祐樹はいつものへらへら笑いをした。


「ま、三河の言うとおりだ。何が起こるかわからないし、楽しめばいいんじゃね。いや、むしろ俺が楽しませてやるよ」 


 祐樹の言葉に、俺と三河は首をかしげる。


「あんた、何か企んでいるんじゃないでしょうね」

「お前らにとってはいい提案だぞ」

「何?」一応、聞いてみる。

「球技大会で俺らのクラスが優勝したら、和道部に入部してやるよ」

「は?」


 祐樹の提案に、俺と三河は顔を見合わせる。


「蔵元先生に聞いたらさ。部活動の掛け持ちは、問題ないんだってよ」

「俺らのクラスがって。俺たち同じクラスじゃないか」

「おう。だから、部員が欲しかったら勝てよ。安心しろ。俺も手は抜かねぇから」


 祐樹は言いながら、俺の肩に手を置いた。


 入るなら素直に入ると言えばいいのに。何を訳の分からないことを言い出したんだこいつは。


「どういう、風の吹き回しよ。和道部には入りたくないって言っていたじゃない」


 三河は眉間にしわを寄せていた。


「気が変わった。お前らを見ていると面白いから。ただそれだけ」

「あたしは、嫌よ。あんたの入部は認めない」

「だったら、球技大会で手を抜けば? お前が本当にそれで良ければの話だけど」

「ずるい。そんなの。そもそも、その提案に乗るとは一言もいってないでしょ」


 険悪なムードが流れる。


 俺はもうどうしたらいいのかわからず、あたふたするしかなかった。


「お前が乗らなくても、浩彦は乗るだろう」


 祐樹が話を俺にふる。


 俺は頷いた。


「うん。三河には悪いけれど、祐樹が入ってくれれば四人だし。あと一人いれば充分なんじゃないかな」

「むぅ。ばか!」


 頬を膨らませて、三河は叫んだ。


 そしてそのまま保健室を出て行ってしまった。


 祐樹は笑いだす。


「くくっ。ばかだってよ。やっぱあいつ、面白くなってきたじゃん」

「祐樹。ほどほどにしておいたほうがいいんじゃないかな」

「いいんだよ。これぐらい。そうじゃないと面白くないからな」


 祐樹は真顔でそう言った。


 俺は胸の奥で何かもやもやしたものを感じたが、今はそっとしておいた。


 その後、しばらくして保健室の先生が来たので俺は膝を手当てしてもらった。

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