第8話 彼女の来襲
それから一週間が終わる日まで、俺は頭を休ませる暇がなかった。
ことあるごとに三河はわがままを言って、俺を困らせるし、案の定平気で教室の隅に衝立で作った更衣室を使って、俺が持ってきた着物に着替えている。
俺はそのたびに自主的に部室を出る。三河は出てくことはないと、俺を部室にとどまるように言う。でも俺は逃げる。
ある意味おいしい立ち位置にいるようだが、俺的にはどうにも無理だった。
水ノ橋京菜は顔を真っ赤にしている俺を見て、ただクスクス笑うだけで助けてくれないし、祐樹もたまに遊びに来てからかってくるし。俺は精神的にも肉体的にも、疲れていた。
とにかく俺は、疲れていた。それなのに。
今日は日曜日で、学校が休みだった。
俺の気分は最高だった。三河に振り回されないで済むから。
俺は家の居間でのんびりテレビを見ていた。お笑い番組だった。俺の好きな芸人が出ている。
「ひろちゃーん! お友達が来てくれたわよー!」
突然、店番をしているはずの母さんの声が、店になっている一階から聞こえてきた。
友達? 俺にか?
祐樹の顔が浮かんだが、休みは遊びにいくとか言っていたはずだ。
俺は、そんなことを思いながら、テレビの電源を切る。少し惜しいが、それほど熱中してはいないので、何の
俺は少しの期待と不安を浮かべながら、ゆっくりと階段を降りていく。
「あ、ひろちゃん、可愛い子ね。彼女? やーねぇ水臭いわよ」
「え?」
母さんが小躍りしながら、階段を降りた俺のほうへ向かってくる。
彼女って、一体……?
俺は母さんの言葉に疑問を持ちながら、店先に出る。
「あ! ハロー。ひろちゃん」
期待と不安を抱えた俺の前に現れたその人物。
「な、何でお前がここにいるんだ!」
俺は目を見開いたまま、驚きの声を上げた。
私服姿の三河椿がそこにいた。
三河椿が俺の家に来た。俺はその事実に打ちのめされていた。
「ふっふーん、何でだと思う?」
三河が不適な笑みで俺を見てくる。悪夢だ。
俺は顔を最大限に引きつらせた。
「着物か?」
彼女の目的なんて、それぐらいしか思い当たらなかった。
「そっ! よく分かってるジャン」
三河は満面の笑みで頷いた。
そもそもよくこの場所がわかったな。と思う。
いや。君島呉服店と看板が出ているから、調べればすぐにわかることか。
あとは俺の名前を出せば、母さんが反応する。
「着物はただで貸してやっているはずだぞ? 昨日も着たはずだし」
「やっぱ着るだけじゃつまらないじゃない? やっぱ着物って、見ることでだって、十分楽しめると思うのよねー!」
三河が、目をキラキラさせて俺を見てくる。
「あらぁ、もしかして、着物を貸してたのってこの子だったのね。良いわよー、じゃんじゃん見て良いわよ!」
母さんが、三河のことを如何わしいフィルターを掛けて見ているようだ。
俺は密かに溜息を吐いた。
「うわぁ! やっぱりすごい! すごい一杯ある!」
三河が、店に飾ってある煌びやかな着物を見て、叫び声を上げる。
「良かったら、どれか着てみる? 振袖とかもあるわよ」
母さんが、三河に話しかける。
「ありがとうございます!」
三河が、母さんに頭を下げている。
そんなに嬉しいのか。
俺は呆れた顔で三河を見ていた。
しばらくして、三河が選んだ青色の着物を着付けるのに、俺は店先に出る。
昼間の店先は、ぽかぽかして気持ちがいい。
「帯は何色があうかしら」
「緑か、紫とかかなぁ?」
そんな会話が店の奥から聞こえてくる。
俺はかんざしでも見立ててやろうかと、商品に手を出す。目立つように、赤と黄色の花のかんざしを手に取った。
「似合うかな」
俺は、呟いて、ふと店の奥を見る。
ちらっとだけ見えた着物の裾が、着替えが終わっていることを教えてくれた。
「……終わった?」
俺は、かんざしを持ったまま、店の奥へ戻る。
「あと帯だけ」
母さんが帯を付けている前で、三河がにこっと俺に笑いかけてVサインをしてくる。
俺は、着物姿の三河をまじまじと見た。
ここ数日で、どんな着物を持っていこうか毎日悩んで、持っていった着物を着た三河より、今のほうが数段可愛く見えた。
否、可愛いという表現は間違っている、綺麗だと思った。
「あのさ、これ」
俺は恐縮しながら、先程のかんざしを、三河の目の前に差し出す。
「わぁ! かんざしだ。何これ、ひろちゃんが選んでくれたの?」
「いや、その。っていうか、ひろちゃんはやめてくれ」
「えー、いいじゃん。お母さんが呼んでるんでしょ? だったら」
「恥ずかしいから」
俺は、三河から目を逸らす。顔が熱い。
「いいもーん、勝手に呼ぶから」
「な! 何でいつもそうやって!」
拗ねた三河に、俺は突っかかる。
三河がどういう人間なのか、分かりかねる。掴みどころがないのだ。
三河は俺の手から、かんざしを奪い取っていく。
「開けていい?」
「あ、ひろちゃん、それ売り物だから今月のお小遣いから差し引いとくよ」
一部始終を見ていた母さんが、こっそりと俺に釘を刺す。
「うん」
俺が頷くのを見ると、三河は早速袋から出し、さらに入っていたプラスチックケースを開けて、かんざしを取り出した。
「はい! できたよ!」
三河の後ろで、母さんが言う。
「わぁ! ありがとう、おばさん!」
「ついでに髪も結ってあげるわよ」
「お願いします!」
三河には、遠慮の文字がなかった。
母さんは器用に、三河の長いつやのある髪の毛を上げて結っていく。
数分後ピンで留めて完成した髪に、俺の選んだかんざしが付けられた。
それは着物の色に、よく映えた。
「うふふっ。似合う? 似合う?」
「ああ」
俺は少しだけ照れていた。だから三河から目を逸らす。
三河は下駄を履いて、コンクリートの上でくるっと回って見せた。
「可愛いわー」
母さんが目をきらきらさせている。
不意に、カメラのシャッター音が聞こえて、俺はその方向を見た。
その少女は、もう一度一眼レフカメラのシャッターを切る。
「何だ?」
少女は俺の声に、カメラに隠れていた顔を見せた。
「そこにいるとじゃまですー。どいてくださいですー」
少女は俺に向かって、どいてと手でジェスチャーする。語尾を延ばすのは癖なのか?
「ん? 撮って撮ってー!」
少女に写真を取られていると気づいた三河は、少女に向かって指を二本立ててピースをする。
「うふふー。とても良いですねー。あなたー、私の被写体になってくれませんですかー?」
「……被写体?」
「そうですー。写真のモデルになるってことですよー」
「面白そうね! 引き受けた!」
三河は彼女の申し出に、迷いもなくそう答えた。
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