第5話 VSお嬢様

 四階の一番南に、とても日当たりのいい空き教室があった。


 俺と三河はその教室の扉を、緊張した面持ちでゆっくりとノックする。


「はい」


 部屋の中で、小さな声がした。俺たちは、扉を開ける。


「何か用ですか?」


 窓際で、日の光に照らされてウェーブのかかった黒髪が少し茶色に見えた。少女が、椅子に座って本を読んでいた。


 少女は俺たちを無言で見ると、本を閉じて傍にある机の上に置いた。


 整った顔立ちのその少女は、水ノ橋京菜。水ノ橋財閥のご令嬢だ。


 何か良く分からないが、すごい金持ちのお嬢様という認識しか、俺にはない。

 確か貿易会社か何かで……。


「何か用? じゃないわよ。あなた何で勝手にこんなところ占領してるのよ」


 三河が靴の裏を鳴らしながら、水ノ橋さんのところへ歩いていく。


 おいおい、恐れ多くも水ノ橋のお嬢様に向かってなんて口の利き方だ。


「……何を怒っているのですか? 許可はちゃんと取っているはずです」


 水ノ橋さんは、顔色一つ変えずそう言った。


「誰の許可を取ったのか知らないけど、ここはあたしたちが使おうと思っていた教室なの。だからちゃんとあたしの許可も取りなさいよ」


 三河はそれが当然だとでも言うような態度をとっていた。


 おいおい、お前どこまで自己中心的なんだよ。


「それは、あなたの許可を取る必要性が感じられません。出て行くのはあなたたちの方では?」


 水ノ橋さんが言う。冷静な判断。まさにその通り。


 俺は三河の後ろで、少しだけ頷いた。


「いいえ、あるわ。あたしとあなた、どちらがこの教室を使うかってことだもの。あたしはあなたに勝負を申し込むわ!」


 三河が叫ぶ。いきなり何を言い出してるんだこの女。


 俺は三河をまじまじと見つめる。


「勝負ですか? いいですよ。受けてたちます」

「望むところよ!」


 今にも何か始まりそうな雰囲気に、俺はさすがにこれ以上は野放しにしてはいけないと、二人の間に割り込む。


「って、ちょっと待て。三河、話し合いじゃなかったのか?」


 俺は眉をひそめて三河を見る。


「話し合っても無駄だと判断したの!」


 三河の言葉に、俺は呆れてため息を吐いた。


「水ノ橋さんも、乗らないでください」

「売られた喧嘩は買う主義なので」


 ほほほっと、お嬢様笑いをする水ノ橋さん。


 この人、思っていたよりも好戦的だ。


「分かった。俺が穏便に水ノ橋さんと交渉するよ。だから三河はしばらく黙ってろ」

「……はーい」


 三河が拗ねたように、水ノ橋さんから目を逸らし、近くにあった椅子に座る。

 俺は立ったまま、水ノ橋京菜との交渉を始めた。


 ここは俺がフォローするしかない。


「三河の言いたいことを要約すると、三河はこの教室を、新しく作ろうと思っていた部活の、部室に使いたいと思っていたんだ」

「ふーん。それならそうと早く言ったらよかったですのに」

「言ったわよ」


 三河が不機嫌にそう言う。


「それで、何の部活ですか。場合によっては、明け渡しても良いですよ?」

「本当?」


 水ノ橋さんの言葉に、三河の顔が一瞬にして明るくなる。


「ええ」


 水ノ橋さんが静かに頷く。


 俺も、どうやら上手くいきそうなので、思わず笑顔になってしまった。


「あのね、和道部を作ろうと思って。着物を愛でたり、ついでに日本文化を学ぶのもいいと思っているの」


 三河の言葉に、水ノ橋さんが少しだけ首を傾げる。

 お茶とお花は日本文化という言葉に吸収されてしまったらしい。


「それは……誰が得をするのでしょうか?」

「え? あたし!」


 三河は自信満々に答えた。


 俺は、水ノ橋さんの様子が少しおかしいことに気づいた。


「あ、あのさ、水ノ橋さんは何で潰れた文芸部を、もう一度作り直したんだ。本が好きなのか」


 俺は、机の上に置かれたままの本を見た。


 アンデルセン作の人魚姫だ。


「ええ。本は好きです。物語を書くのも好きですし。だから文芸部に入りたかったんです」

「それで、先生たちに頼んだのか」

「そうです。だから方向性が違うのなら、私はあなたたちにこの教室を明け渡すことはできません」

「えー。何でよ?」


 水ノ橋さんの言葉に、三河が顔をしかめる。


 俺はこのままだとまずいと思い、一生懸命に頭の中で言葉を捜した。俺が発言する前に、三河が口を出す。


「日本文化を学ぶんだよ? 本も日本文学とかで、すっごい役に立つと思うし。そっち系は嫌いなの?」

「いえ、嫌いじゃないです」

「じゃあいいじゃん! お願い、あたしたちに頂戴」


 三河の言葉に、水ノ橋さんが考える仕草をした。


 俺は意外だった。三河がそんなことを言うなんて。何も考えてないようで、ちゃんと考えているのかも知れない。


 しばらくの沈黙の後、水ノ橋さんが静かに口を開いた。


「私の力が貸せるかも知れないので、条件付きでこの教室を和道部に明け渡しましょう」

「本当? やった!」


 水ノ橋さんの言葉に、三河が椅子から立ち上がって、喜ぶ。


 俺も一安心したが、条件付きというのが気になる。


「条件って?」


 俺が水ノ橋さんに聞くと、三河が思い出したように水ノ橋さんの言葉を待つ。


「私も部員にしてください。源氏物語なら読んだことがあります」


 水ノ橋さんは真剣な眼差しを、三河に向けた。

 

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