決意

 翌日の朝、水島は小早川の事務所にいた。

「ちょっと話がある」水島は、いつになく険しい表情だった。

「どうしたんだい?」

「なぜ、彼女をあの会社に行かせたんだよ。そろそろ、教えてくれてもいいだろう?」有無を言わせないといった態度に、小早川は早々に降参したようだった。

「そうだな。いいだろう。まず、そもそもなぜ彼女は前の会社、つまり化粧品メーカーに行こうと思ったか?」

「それは、化学系で大手の企業を探したからだろう」

「確かに、それが一番の理由だろう。でも、なぜ化粧品なんだ?彼女は薄化粧だし、スキンケアにもこだわっている様子はなかった」

「そういえば……」

 八重子を尾行していたとき、ドラッグストアで安い化粧品を買っていたのを思い出した。

「ね、化粧品がすごく好きという訳でもなさそうだ。だから、もう少しさかのぼって、なぜ化学の道に進むことにしたのかを考えた」

「それはオヤジさんが化学の先生だったから」

「そうだ。父親の仕事を間近で見ていて、興味を持ったんだったね。でも、それ以外の選択肢がなかった、というのもある」

「どういうこと?」

「瀬戸さんの両親は、教育熱心だったらしいね。彼女は勉強もよくできたが、他の分野においても得意な事はたくさんあった。例えば料理。弁当もちゃんと作っていただろう?でも、大学受験に関係のない分野について、両親は興味がなかった。ただ、学業で優秀な成績を修めた時だけ、褒められた」

 いつの間にそんなことを調べていたのだろう。

「両親の顔色をうかがうように、勉強だけに打ち込むようになった彼女は、高校で優秀な成績を収め、大学の専攻もそれに応じて選んだ。就職先は、大学の同級生の間で人気だった化粧品メーカーを選ぶことにした。その当時、瀬戸さん周辺の優秀な女子生徒はみんな、化粧品メーカーを目指していたからだ。彼女はどうしても化粧品を作りたかったわけではない。彼女はそれで良かったんだよ。親が喜ぶ勉強を頑張り、その中で得意な化学の道に進み、誰もが知っている有名企業に就職して、そのことも親を喜ばせた。そこまでは良かった。しかし、それ以上に彼女の喜びはなかった。就職後にしばらくして気づいたんだろう。人間関係のこじれがあったというか、それがどれだけのものか分からない。僕は、どこに行ってもありそうな、大した話ではないと想像している。ただ、それを乗り越えるだけの、仕事への情熱はなかった。30歳は節目だ。ここで一度、人生を振り返ったのかもしれない」

「それで、どうして秘書になったわけ?」

「彼女の性格は、サポートが向いていると思ったからだよ。高校の時、マネージャーだったのは君も聞いただろう?先生も感心するほどだったというじゃないか。マネージャーは向き不向きがあるからね。前に出たいタイプの人間は、マネージャーなんてせずに選手になる。マネージャーの中には、選手を近くで見たいだけ、という人も少なくないが、彼女は少し違う。裏方の仕事を全力でやって、そこにやりがいを見出すタイプだ。その傾向は、大学の研究室や前職でも発揮している。自分の仕事をやりながら、常に周りを見ていた。彼女がやる必要のない実験などもして、協力することすらあった。自分の成果より近くの人を助けたいんだよ」

「なるほど。確かに、そうかもしれない」水島は納得した。ここまで調べ上げて、考察を練って決めた仕事が秘書だったのか。自分はそこまで考えなかった。

「でも、なぜあの会社なんだ。化学メーカーならどこでもよかったんだろ?オレも行ってみて初めて分かったけど、あそこの秘書は大変だよ。お前、仕事内容とか知ってたのかよ。社長が知り合いだからって、適当に決めたんじゃないのか?」

「そんなことはない。総合的に見て、あの会社を選んだ」

「でも、彼女には合ってないと思う。彼女は完璧主義で繊細だ。社長はおおらかで優しいが、そういう性格まで分かっていない。何も言わないことをいいことに、むちゃくちゃな仕事量を頼むし、説明もなしに彼女の仕事を奪って、適当な子にやらせたりしている」

「そんなことは、慣れていけばいい話だ」

「いや、あの子は耐えられないよ」

「なぜ、そう決めつけるんだよ」

 真っ直ぐこちらを見る小早川と視線がぶつかり、水島は目をそらした。

「お前より、彼女と一緒にいる時間が長いから分かるんだよ」

「それだけか?」挑発的に放った小早川の一言に、かっとなった。

「彼女の事が好きだからだよ」水島は声を荒げた。

 先日、釘を刺されたばかりだったので、言うつもりはなかったのだが、つい口が滑った。しかし、小早川は好意を抱いた事実の善し悪しには触れなかった。

「好きだから分かるって?逆じゃないのか。冷静に物事が判断できなくなるんじゃないのか?」

「そんなこと、お前に言われたくない」

 ひた隠しにしてきた本心を暴露してすっきりしたおかげで、水島は気持ちがおさまり声のトーンも元に戻った。

「で、どうするつもり?」小早川は淡々としたものだった。

「今回の仕事は失敗だ。彼女は続かないと思う」

「そうか」

「彼女の為にも、それがいいんだよ」

「……」

 いやな間だ。小早川が何かいい返す方がまだいい。最後に、これも言っておこう、と水島は付け加えた。「彼女が辞める前に、気持ちを伝えるつもりだ」

「好きにしろ」小早川はぶっきらぼうにいい放ち、水島は何も言わずに事務所を後にした。


 水島は自分が間違っていない自信はあったが、後ろめたい気持ちもあった。外に出ると、体を吹き抜ける風が強く、いつもより冷たく感じられた。



 水島は、八重子の仕事について山田に直訴した。どうせ辞めるなら放っておいてもいいかとも思ったが、山田は八重子の事を買っている。あとわずかな時間でも、誠意を見せておくべきだろう、と判断したのだ。


「瀬戸さんの仕事量、少し多くないですか?彼女、無理して頑張ってしまうタイプなので何とかやっていますが、キャパオーバーです。先日の翻訳のミスについても聞きましたが、時間が足りなかったのも大きな要因だと感じました」

「そうか?何も言わないから、問題ないかと思っていたよ。それならそうと、言ってくれれば良かったのに」

「本来であれば、彼女から言うべきでしょうね。ただ、来たばかりの会社で、まだ遠慮している節があります。社長がお忙しいのは承知していますので、相談できる人を間に置くなりするのも手かと」

「そうだな。考えておくよ」

「それから――」八重子の扱いについて、水島はいくつか進言し、山田も大筋で納得した。


「ところで、もう約束の3か月だね。彼女、このまま続けるかな?」

「そうですね。それは何とも……。近々、面談をして確かめます」水島は、しらばっくれた。


 あの日から、水島は何となく八重子に声を掛けることができずにいた。

 職場での八重子の様子は見ているが、落ち込んでいる風にも見えなかった。我慢しているのか、それとも、もう吹っ切れたのか?水島は気がかりだった。最後の面談で、全部聞けばいい。それから自分のことも――。


 会社で形式的な面談をする前に、ざっくばらんに話したいから、外で食事でもしながら話をしよう、と八重子を誘った。

 早く本題に入りたかったが、しばらくは他愛のない話をした。空気が温まった頃、八重子から切り出した。


 「社長に私のこと、話してくれたんですね。今日、社長に呼び出されました。しんどい思いをしていたのに気付かず、すまなかった、って。私が仕事をしやすいように、色々と提案をしてくれました。それは、水島さんに指摘されたからだって。ありがとうございました」

「ああ、別に。オレはオレの仕事をしただけだよ」八重子に感謝され、内心、心が躍っていた。気まずかったらどうしようかと心配していたのだが、大丈夫なようだ。

「仕事は続けられそう?」

「早いですよね。3か月間、あっと言う間でした。短期間に色々とあり過ぎて、疲れちゃいました」そこまで言って、八重子は口をつぐんだ。カクテルのグラスを回しながら、氷をじっと見ている。


「お疲れさま。瀬戸さんは頑張ったと思うよ。十分、頑張った。でも、合わない仕事を無理に続ける必要はないよ。この仕事は、転職エージェントで見つけてもらった、って言ってたっけ?そこの会社の担当者は、瀬戸さんの何を見ていたんだか。本当にバカなやつだ」小早川のことを思い浮かべ、必要以上に毒づいた。「そうだ、何なら次は、オレが一緒に探してあげるよ。オレのコンサルももう終了することだし」一旦、切って息をのみ込んだ。

「そう、この会社の仕事は瀬戸さんもオレも終わり。でも、これから先もこうやって、いや、もっと君と一緒にいたい。この流れで言うのも何だけど――、オレと付き合ってくれませんか?」水島はいった。

「えっ?ちょっと何、いってるんですか。嫌ですよ」

「えっ」

 水島は頭が真っ白になった。断られた?しかも、「嫌」とは。完全に拒否されたということか――。


「あっ、すみません。仕事は辞めるつもりはありません。こないだ、水島さんにぶちまけた時までは、本当に嫌で辞めてしまいたいと思ったんです。でも、秘書の仕事はしんどいですけど、楽しいんです。自分のこれまでやってきた知識もスキルも生かせるし、幅広い業務にも関われる。社長の自由さに振り回されることもあるけど、だからこそ可能性も感じているんです。もしかしたら、普通の秘書業務より、もっとおもしろいことができるんじゃないかって」一気にしゃべると、カクテルを一口くいっと飲んだ。水島は、気が抜けて聞いているのか分からない状態だったのだが。八重子は、ふう、と息を吐くと、水島を振り返った。

「もう少しやってみたいんです。そう思えたのは、水島さんのおかげです」

「え?」

「今まで、私、あまり人に仕事の悩みを言ったことなんてなかったんです。弱みを見せるのが、どうしてもできなくて。でも、水島さんがずっと見ていてくれて、親身になってくれて……。あくまでも仕事、というのは分かっていたんですけど、それでも心強かったです。あの日、みっともない姿を見せてしまって、帰ってから情けないやら恥ずかしいやらで、もう死にたいくらいでした。でも、同じくらい、うれしかったんです。一晩明けたら、自分でもびっくりするほどすっきりしてました。水島さんのおかげだったんだ、って気づきました」八重子ははにかみながら言った。

「そう……。そういえば、事務職の女の子たちとの関係は?」

「彼女たちに思うことは、前からあまり変わらないですけど。加奈さんのおせっかいも大変だったし。でも、そこまで気にすることはないかな、と思うようになりました。やっぱり、仕事に集中できるようになったからでしょうか。無理して合わせるのも止めて、たまには1人でランチに行こうかな、なんて」

「なら、いいけど」自分から聞いておいて、水島は上の空だった。

「それで、仕事は辞めないんですけど……。はい、よろしくお願いします」

「よろしく、とは……」言葉の意味が分からず、さっきまでの八重子の台詞を辿りながら聞き返した。

「おつきあい、です」

「えっ」

どん底からのどんでん返しに、理解するまでに少し時間を要した。

「そっか……。ありがとう」水島は静かに喜びをかみしめた。
























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