失敗

 人間、誰でも失敗はある。そして、均衡を保っていたバランスが崩れると、思いもしない場所のもろさが明らかになることもある。それは他人から見ると些細なことかもしれない。しかし、本人のとっては、自分の核を揺るがすきっかけになることもある。


 人間、誰でも失敗はある。そして、均衡を保っていたバランスが崩れると、思いもしない場所のもろさが明らかになることもある。それは他人から見ると些細なことかもしれない。しかし、本人のとっては、自分の核を揺るがすきっかけになることもある。


 営業部と会議をしていた山田が席に戻ってきた。

「瀬戸さん、ちょっといい?」

「はい」

「前に翻訳を頼んだ資料、間違っていたみたいだよ」

「えっ」

「早めに気付いてよかったよ。このままいくと、危ないところだった」

「すみません……」

「後で営業のやつが来るから、確認しておいて。私も不慣れな君に任せ過ぎたと反省しているよ。いやあ、でもちょっと焦ったな」

「……はい」

「今度は気をつけてね」

 山田はそれ以上、責めるようなことは言わなかった。ああいっていたけど、それほど重要ではなかったのかしら?と八重子は考えた。


 間もなく、営業の担当者が来て改めて2人で資料を確認したところ、八重子の間違いにより、まったく違う契約内容になってしまうものだった。しかもうちの会社が圧倒的に不利になる――。

 八重子は青ざめた。前職でも英語は扱っていたが、専門的な文章だったため、今の仕事で使うような英語はまだ苦手だったのだ。八重子は入社当初から英語については不安があり、時間を見つけて勉強するなどして努力はしていた。しかし、まだ未熟である上に、忙しくて確認する時間が十分に取れなかった。

 もっとも、会社としてもそういったミスを見越し、二重、三重のチェック体制は敷いている。でも、八重子にとっては大問題だった。一歩間違えれば会社に大損失を与えかねないミスなど、これまでしたことがなかった。用心深く完璧主義の自分が、こんなミスをしてしまうなんて。


 落ち込んだまま昼を迎え、その日は事務職の女子社員数人と社員食堂へ行った。

「瀬戸さん。今日、何かあったの?社長が資料を渡している横で、瀬戸さんが深々とお辞儀しているのが見えたから。それから元気ないみたいだし。今もちょっと顔色悪いわよ」

 吉田加奈がいった。経理の仕事をしながら、いつも周囲に目を光らせているうわさ好きの女だ。

 やっぱり、この子は見ていると思ったわ。普段は私の仕事の話など聞いてこないのに……。おしゃべり好きのこの子のことだ、もし話せば、翌日には加奈周辺の人全員が知ることになるだろう。

 でも、加奈は一度決めたら諦めないことを知っていたので、観念することにした。


「今日、ちょっと失敗しちゃったの」詳細な情報を出す前に、誰か話題を変えてくれないかしら、と期待しながら、ゆっくり短く話した。

「どんな?」すかさず促す加奈。これは逃れられそうもない。

「翻訳を頼まれていた英語の資料があったの。でも訳を間違ってしまって、契約の重要なポイントだったから、ちょっと危なかったというか」大損害が及ぶ危険があったことは、いわないことにした。

「そうなんだ。大変だったね。翻訳だなんて、秘書がそんなこともするのね。大変ね」

「まあね……」

 加奈は何かを考えているようだったが、八重子は気づかなかった。

 昼食から戻ると、再び山田に声を掛けられた。

「そういえば、花瓶、替えたのかい?」

「あ、すみません。今朝、手を滑らせて割ってしまって」

「えっ、割ったの?そうか……。いや、あの花瓶は私が社長に就任した時に、お世話になっていたある会社の重役に貰ったものだったんだ」

「えっ」

「まあ、仕方ないね」

「いえ、あの……、本当にすみません」八重子は顔を真っ赤にして平謝りした。

「いや、いいよ。壊れやすいものだし」

「すみません」八重子は、やっとの思いで声を絞り出した。


 その日、水島はほとんど会社におらず、八重子の身に降りかかった出来事を知らなかった。メールでクライミングに誘ったが、断られてしまった。

「唯だったら今日は行けると思います」と返信がきて、唯と2人きりなど正直なところ乗り気ではなかったが、たまにはいいかと思い連絡すると、すぐにOKの返信がきた。


「あの子、完璧主義なんですよね」

 クライミング後の居酒屋で、何の話からそうなったのか忘れたが、話題は八重子のことになり、唯がいった。

「もうちょっと気を抜いて取り組めばいいのに、必要以上に気を張って頑張っちゃうっていうか。高校でマネージャーしてたときだって、普段は超優秀なのに、たまに大事なことがスコーンって抜けちゃうの。3年生の引退試合の当日、集合場所に来なかった時は笑ったわ。ありえない事だけど、いつも真面目で完璧なあの子がヘマやらかすと、何かあったのかしら、って逆に心配してたわ」唯は笑った。

「完璧主義か。言われてみれば、そうかも」

「周りは、そんなに気にしなくていい、っていってるのに、本人はパニックになるみたい。しばらくの間はいつも以上に気を張り詰めているの。そういうところが、かわいいんだけどねえ」

「真面目なんだな。オレみたいないい加減な人間には、理解できない」水島は冗談まじりにいった。


 その後も、山田の依頼で社内の人事について提案を求められて、忙しく動き回っていたため、水島は八重子の近くにいる時間がほとんどなかった。しかし秘書業は板についてきたように見えるし、特に問題ないだろうと安心しきっていた。

 ただ、約束の3か月も一か月を切ったから、本人の口から現状を聞いておきたい。それから、仕事でなくてもとにかく話したいという気持ちも大きく、今日こそはと思って水島は八重子を誘った。


 終業後、待ち合わせの場所に来た八重子を見ると、表情がすぐれない。

「体調でも悪い?」

「違います」と泣きそうな顔で八重子はいった。「ちょっと仕事で色々あって……いえ、でも、いいんです」

「仕事?それはいってくれなきゃ。それを聞くのがオレの仕事なんだから」

 思いつめた様子の八重子の気持ちをほぐそうと、コンビニでコーヒーを買って、夜風に当たりながら歩くことにした。どうでもいい話を少した後、そろそろいいかな、と水島は八重子に話を振った。

「仕事で何かあったの?」

 本心では誰かに話を聞いてほしかった八重子は、一気にしゃべり始めた。


 重要な資料の翻訳を間違えてしまった。それ自体は思ったほど責められなかったが、しばらく落ち込んだ。気を取り直し、英語を勉強しなければと頑張ることにした。翌日、社長の海外出張の手配をしようとしたら、止められた。その仕事は英語でやり取りをするのだが、八重子ではなく、総務の茅田沙織に頼むという。彼女は帰国子女で、英語力が高いからだそうだ。英語力に関しては確かに彼女が上かもしれないが、本来、八重子がすべき仕事を知らない間に総務の子がやることになるなんて、とショックだった。

 その昼休み、他部署の女子社員と昼食を取った時、衝撃の事実を知った。なんと経理の加奈が、沙織に英語関係の仕事をやらせるようにしたらどうかと社長に進言したというのだ。しかも、自分のおかげで八重子が楽できたのだ、と得意そうに言いふらしていた。そんなことを頼んだ覚えはない。そして沙織は、面倒な仕事を押し付けられて、明らかに嫌そうにしている上に、八重子に仕事を押し付けられたと勘違いしている――。

「加奈さんたら、頼んでもいないのに社長に提案なんて……。社長も社長よ。私に何も言わずに勝手に仕事を他の人に振ってしまうなんて、ひどいわ」

 吉田加奈は水島も知っていた。本人がいないところで、中心になって八重子の噂話をしていた子だ。八重子のために社長に提案したのかは、疑わしいところだ、と水島は思った。


 他にもあった。山田は、八重子の仕事が早いのをいいことに、大量の指示を出していた。水島が詳しく聞いてみると、2人分とも思えるくらいの仕事量だった。頑張り屋で完璧主義の八重子は、それに応えようとしていたのだ。

「そんなことがあったのか。全然、気づかなかったよ。でも瀬戸さん、それは明らかにやりすぎだよ。君は十分やっている。でも、それが原因で時間がなくて、翻訳のミスをしてしまったのも事実だろう?できないことをはっきりというのも、大事だと思うよ」

「でも、大きな失敗をしてしまったんです。社長の信用が落ちてしまったから挽回しなきゃ……。そうそう、社長の大事な花瓶も割ってしまったんですよ。それから、ランチの女の子たちが話しているのが聞こえたんです。加奈さんたら、私の失敗を楽しそうに話していて、本当に悔しくて――」八重子はますますヒートアップしていく。

 水島は思わず八重子を抱きしめた。

「分かった。分かった」八重子は水島の腕の中で、せきを切ったように泣きじゃくった。

まさか、うまくいっていないどころか、ここまで悩んでいたとは。心から申し訳なく思った。と同時に、八重子の事が愛おしくなった。八重子は優しくて繊細なのだ。このままでは壊れてしまうかもしれない。オレが八重子を守ってやらなければ、と水島は誓った。

 その場で自分の気持ちも伝えたいところだったが、今の状態の八重子には言えそうもない。八重子が落ち着くまで話を聞き、適当なところまで送り届けるに留めた。

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