水島と八重子
人材派遣会社の社員として、これまであらゆる業界の人間と仕事をしてきたので、コミュニケーション能力は高いと水島は自負していた。時には、取引先に人事に関するアドバイスを求められることもあり、鋭い指摘に感謝されることもしばしばだ。だから、八重子の転職先に、コンサルタントとして出入りすることは抵抗はなかった。
ただし、真の目的は八重子の転職を成功させること。動向を見守り、場合によっては彼女の上司――つまり社長に進言する。八重子に怪しまれないように、うまく任務を遂行しなければならない。
当たり前だが、こんな仕事は初めてだ。まるでスパイだな。いや、まるでどころか、そのものじゃないか。不安も大きかったが、同時に高揚感も覚えていた。
ついでに、今まで小早川に指示されてばかりだったが、やっと自発的に行動できそうだ。そう、上から言われた通りやるのはオレの性分じゃない。こうなったら、小早川の期待以上の成果を上げて、ぎゃふんと言わせてやる。水島は意気込んだ。
会社に着くと、応接室へと通され、間もなく社長の山田幸利が入ってきた。
50代前半の2代目。創設者である父親よりも経営手腕に長けていて、人間的にも成熟していて魅力ある人物ともっぱらの評判だ。女性関係については、清廉潔白とは言えないようだが、奥さんも器が大きく、夫のことは泳がせているらしい。山田本人のポリシーで、会社の女の子には手を出さないことにしている、と聞いたことがある。この人なら、彼女を任せても安心だろう。
「今日からしばらくの間、お世話になります。水島と申します。どうぞ宜しくお願いします」
「小早川君から聞いているよ。彼、おもしろいことを始めたらしいね。新しく来た瀬戸さんだっけ。研究職だった人を秘書に雇うのは、私としても冒険だったが、小早川君がぜひというのでね。まあ、大きな期待もしていないが、お互いにとっていい仕事ができればと思っているよ。サポートの方、頼むよ」
「はい。もちろんです」
今回の主旨について、山田は小早川から聞かされて知っている。しかも、コンサルはカモフラージュという前提を承知の上で、水島を入れてくれるというのだから、よほど信頼されているらしい。こんな人脈があったとはな。日頃の小早川は無愛想で憎たらしい態度だが、仕事では人たらしになるという話は、現役の頃から知っていた。悔しいが、その要領の良さは尊敬する。
「あと、君はあの有名な派遣会社の中でも特に優秀だと聞いたよ。コンサルというのが建前ということは分かっているが、君の得意分野である人材関係で改善案があれば、ぜひ聞かせてくれ」
「承知しました」満面の笑みで水島はいった。
応接室から出て、各部署にあいさつに回り、最後に社長の席へと戻った。すぐ斜め前が八重子の席だ。八重子はパソコンで何か資料をチェックしていた。
山田は八重子の隣まで来ると「こちらが秘書の瀬戸さんだ」と紹介した。
「あっ」八重子はすぐに立ち上がり、かしこまって礼をした。「瀬戸八重子と申します。どうぞよろしくお願いします」
八重子と面と向かって話すのは初めてだった。事務所でも、探偵まがいの事をしていた時も見ていたはずなのだが、仕事の緊張感もあって、見た目に気を取られる暇はなかった。しかし、良く見ると、普通に可愛らしい子じゃないか。ピンクのニットにワイドパンツといった服装も良く似合っている。前の会社の時はどんな格好だったっけ?もっと地味だったような気がするのだが……。
「初めまして。人材コンサルタントの水島です。今日からしばらく、こちらに出入りすることになりますので、どうぞよろしく。瀬戸さんも3日前から出社しているそうですね。聞くところによると、前職では研究をしていたとか。畑違いの仕事で不安もあるでしょうから、何かあれば気軽に相談してくださいね」
「ありがとうございます」新しい職場で気が張りっぱなしだった八重子は、好意的な言葉がうれしかったらしく、控え目に頬を緩ませた。へえ、この子、こんな表情をするんだな。水島も形式的ではない笑顔を見せた。
水島は八重子の後方の席を与えてもらい、まずは仕事ぶりを見ることにした。
八重子の仕事は、朝一番の花瓶の水替えから始まって、始業と共に山田あての電話対応、来客対応、書類作成、社長のスケジュール管理。その他にもたくさんあった。大手であれば、複数人がいて業務担当が明確に分けられているが、ここではそうはいかない。山田の昼食の手配、時には一緒に外に食べに行くこともある。社内報の記事も書くし、営業の報告資料を見やすくしてほしいからと、数字だらけの資料をエクセルで作り直す、なんてこともしている。
その合間に、社長の雑談にもつきあっている。もと研究職だったということで、専門的な話はお手の物。社長は大手企業の現場に興味があるらしく、しょっちゅう八重子に前の職場の話を聞いていた。人によっては、仕事の手が止まってしまうし、うっとおしく感じそうなものだが、八重子は快く、そして手を休めることもなく返事をしていた。話の引出しも多く、知性を感じさせる。秘書業務の幅の広さにも驚いたが、それについていく八重子も大したものだ。
勤務から2週間が経った頃、小早川への報告の為、水島は事務所にいた。
「彼女、どんな様子?」
「いやあ、うまくやってるよ。お前が秘書なんていい出したときは、絶対に無理だろうと思っていたんだが。人間、何が合うか分からないもんだな。しかも本当に仕事が多いんだが、彼女は何でもできるんだ。化学の専門知識も豊富、数字にも強いしパソコンも使えるから、本来の秘書業務以上のこともやってるんじゃないか」
「僕の見立てが良かったわけだ」にやりとする小早川。
「らしいな」水島はしぶしぶ認めた。
「仕事以外の印象は何かあるか?」
「まだ遠くから見ているだけだから、これといってないかな」
「じゃあ、そろそろ面談とかするなりして、もう少し近づいて探りを入れてもいいんじゃないか」
「ああ、そうするよ」
翌日、水島は八重子を会議室に呼び出した。
「入社から半月以上が経ちましたが、仕事はいかがですか?」
「やる前は不安でも、実際に始めてみるとできるものですね。一つ一つの仕事は難しいことではないですから。ただ、量が多いのと、まだ社長のリズムが読めないので、そこはこれから慣れていきたいです」八重子からは前向きな姿勢が読み取れた。
「私もたまに瀬戸さんの仕事ぶりを拝見していましたが、スピードも速いですし、普通に他の会社の秘書と比べても優秀なのではないでしょうか」
いえいえ、とんでもない、と恥ずかしそうに八重子は首を振った。
「では、特に問題はなさそうですか?何か不満や心配事があればどうぞ」聞かなくてもいいかとも思ったが、念のためと思い水島は聞いてみた。
「そうですね……。不満というほどではないですが、秘書が私1人なので、仕事の相談ができる同僚がいないことでしょうか。社長は良くしてくださっていますが、やはり社長に相談という訳にはいきませんし」
「お昼ご飯は、同じフロアの女子社員と一緒に行っているようですね。何度かお見かけしたので。そこで仕事の話はしないんですか?」
「ええ、あまり。彼女たちは、経理や総務で、全く仕事が違いますし。それに、そもそも仕事の話はしませんね……。楽しいことは楽しいんですけどね」後半はやや歯切れの悪い話し方をした。
その様子をみて、水島は思い出した。
ある日、休憩所に行ったとき、女子社員が数人で話しているのが聞こえた。八重子の噂をしているようだった。
「新しく来た秘書の人、知ってる?」
「あー、知ってる知ってる」
「なんか、すごい社長としゃべってない?笑い声とか聞こえるし」
ここの会社は社長室などがなく、事務職は全員が同じフロアだ。社長と八重子の席は一番奥で、他の社員と少し離れている程度。会話の内容までは分からないが、姿は良く見える。
「何しゃべってるんだろうね?」
「しかも、前の会社では研究してたんだって」
「研究?何の?」
「化粧品とかいってた気がする」
「えー、すごーい。なんか、私たちとは違うね。ランチの時もあんまりしゃべらないもんね」。
その時は、自分たちとは異なるタイプの八重子が珍しいのだろうか、程度に思っていた。
しかし改めて思い出すと、悪口とまではいわないものの、軽い嫉妬に似た感情もあるように思えた。
ランチでは、他愛のない会話に終始しているようだが、本人も感じるところがあるのかもしれない。しかし、自ら語ろうとしない八重子に、ストレートに聞くのははばかれる。水島は、話題を変えることにした。
「今日に限らず、いつでもお声掛けください。まだ会社ではしんどいこともあるかもしれませんが、たまに息抜きして――」
水島がそこまでいったところで、八重子は何かを思い出したかのように「あっ」と声を上げた。
「そういえば水島さん、加藤唯ってご存知ですか」
加藤唯って誰だっけ……そうだ、八重子のクライミング仲間だ。なぜ今、彼女の名前が出てくるんだ?「え、ああ……。聞いたことがあるような」水島はとぼけた。
「唯は私の友達です。クライミングが趣味で、2人でよく行くんです。こないだ行ったときに、水島さんの話が出てきて。名前が一緒だし、唯がいっていた見た目の特徴が似ていたから、もしかして、と思って」
まずい、探偵ごっこがばれたか?「加藤さん……。あ、会ったことあるかな」水島は内心、気が気でなかった。
「わたしと同じところに行ってたなんて、すごい偶然。水島さんもクライミングが趣味なんですか?」と八重子。偶然と信じているようだ。水島は、胸をなでおろした。
「はい、そうなんです。最近、興味を持ちまして。あれ、東京五輪で正式種目になったじゃないですか。ニュースとかでよく見るうちに、やってみようかなという気になりまして」つい早口になった。
「じゃあ今度、一緒にいかがですか?これも何かの縁ですから」
意外な展開になってしまった。いや待てよ。スポーツで汗を流せば、オープンな気持ちになって、本音も出やすくなるかもしれない。その方がこっちも都合がいい。「そうですね、ぜひ行きましょう」平常心を取り戻した水島は、元気にいった。
ジムでの八重子は、会社では見せない明るさがあった。こっちが本来の八重子なのだろうか。普段、真面目で難しい顔をしているだけに、その違いは明白だった。
「水島さん、すごい。最近、始めたばかりっていってたのに。私なんてすぐ抜かれちゃった」などといいながらコロコロとよく笑った。
水島としては、会社の外で会うのは一回きりのつもりだったが、八重子も唯も楽しんでくれたようで、以降、よく誘われるようになった。汗を流した後は、一杯軽く飲みに行くのが決まりのコースになりつつあった。そこでは、興味深い話も聞けた。
「八重子が前の会社を辞めるっていった時もびっくりしたけど、秘書をやるっていったときは、もっとびっくりしたよ」と唯。
「まあね。心機一転、ちょっとやってみようかな、ってね」
ナリワイヤのことは、契約で口外禁止を約束している。どちらにしろ、他人にルールをいったところで、止められるのは目に見えているし、そんな転職エージェントを利用しているとなると、頭がおかしいやつと思われるのが関の山だ。
「でも、よく考えたら八重子に合ってるかもね」唯は感慨深そうにいった。
「昔から、初めてやるようなことでもすぐ器用にこなしちゃうし、手際も良かったもんね。そういえば高校の時、テニス部のマネージャーだったじゃん。選手たちの特徴をノートにメモしてアドバイスしたり、参考になる資料とか探してきてくれてたよね。必要な道具が欲しいと思って気づいたら、もう出してくれていたり。かゆいところに手が届くんだよねー。先生も、八重子は名マネージャーだ、っていってたわ。思い返せば、意外とそういうサポート役に関しても、昔から才能を発揮してたんだよね――」
水島には初耳だった。
「そんなの忘れてたわ。でも、言われてみればそうね。テニスをするのも好きだったけど、裏方で皆を盛り上げていくのが楽しかったのよ」八重子は過去を懐かしんだ。
ジムに行くのは3人の都合が合えば、ということだったが、2、3回もすると八重子もずいぶん打ち解けたらしい。八重子からの誘いで、水島と2人きりでも行くようになった。
仕事の話をするには、2人の方が探りやすい。ここは遠慮せずに行くのがいい。
「会社の女の子とは、最近どうなの?初めて面談をしたときは、何か気になることがあったようだけど」
「ああ、そのことですか。しょうもないことなんですけど、みんなが集まった時に多い社内ゴシップとか噂話とかいう話題がどうも苦手で……。あと、美容とかグルメの話も私は疎いから、ちょっとついていけないこともあったりして。話を合わせるのに勉強しなきゃ、って思うんですけど」
「そういうの、あるんだね。でも瀬戸さんは瀬戸さんだから、無理しなくてもいいんじゃない?」いいアドバイスが思いつかず、当たり障りのないことをいってしまった、と水島は後に反省した。
「そうですね。そうします」
仕事に関係のない話題も増えた。
前の職場の失敗・成功体験、大学時代のサークルの話。料理好きが高じて、有名な料理研究家の教室に通い、独自レシピを考案してブログにアップしているということ。調査だけでは知りえない話をしてくれた。
「私の話ばかりじゃなくて、水島さんのことも聞きたいわ。どうして、コンサルタントになろうと思ったんですか?」八重子は、水島のことも聞きたがった。
今は身分を隠して、コンサルタントということになっているため、会社の話はできなかったが、内容的には被る部分が多かったので、自然な感じで話せた。
学生時代から迷うことなくこの道を目指し、今なお情熱を注いでいる仕事だ。話は尽きることがなかった。
八重子はそれをいつも楽しそうに聞いていた。「そんな風に過ごせたら、毎日が楽しいでしょうね」憧れに似たまなざしを感じた。
八重子という人間のさまざまな側面を知る度に、魅力が増してゆく。自分の任務を全うせねばと、彼女の事を熱心に聞いていたのが、知らないうちに水島個人として興味を持っていた。八重子も以前より笑顔が増えたようだ。
八重子と会うのが楽しみになってきていることに、水島は自覚がなかった。
「彼女、高校の時はマネージャーだったらしいよ。知ってた?」
「ああ」
「『ああ』?なんだよ、知ってたのかよ」2回目の報告のため、事務所に来ていた水島は小早川の返事に顔をしかめた。
「君が彼女の通勤を尾行していた頃に、僕も色々と調べていたから」
水島はじろりと小早川をにらんだ。
「まあいい。ところで、彼女、かなり慣れてきているよ。仕事の覚えが早く、社長や、他の部署――営業や技術系の社員との関係もいい。早くもいろんな人に頼られて、会社に不可欠な存在になりつつある。一方で、仕事に支障をきたすほどではないものの、女性社員とは少し性格が合わないようだ。彼女に嫉妬している人もいるようだし。でもまあ、流せる程度じゃないかな」水島は楽観的だった。
「うまくいっているなら何よりだね」
「そういえば」ふと水島は前から疑問だったことを思い出した。「彼女って付き合っている人はいないんだっけ」
「いないよ」
「どうして知ってるんだ」
「それは、知る必要があったから聞いたんだ。既婚か独身か、独身であっても結婚する予定はあるか。逆に、離婚はしないか――。これらは仕事に影響するものだからね。客が必ずしも真実を教えてれくるとは限らないけど、幸い、彼女は特に隠すこともなく教えてくれたよ。独身で、結婚の予定もなく、そういう相手もいないと」
「そうか。行動パターンを見ていれば、そうだろうとは感じていたけれど、それにしても意外だな」
「どうして?」
「だって、いてもおかしくないだろ」
「ふーん」小早川は横目で水島を見た。「好きになったとかいうなよ」
「当たり前だろ。そういう意味じゃないよ。いてもいいんじゃないかなと、単純に思っただけだよ」
「なら、いいけど。あまり状況を複雑にしないでくれよ」小早川は釘を刺した。
「分かってるよっ」水島はむきになった。
とは言ったものの、小早川に言われて初めて水島は気づいたのだった。八重子に対して恋愛感情が芽生えていたことを。
今回は、かつてのライバルだった小早川の下で事実上の初仕事。自分のプライドに賭けて、失敗は許されない。恋愛感情などに振り回されて、失敗するなど言語道断だというのに。一瞬、水島は自分の鈍感さを呪った。
しかし、考え直した――というより、自分に言い聞かせた。
八重子の転職活動を応援するのが本来の目的だ。好意むき出しで迫るわけでなし。仕事ついでに、2人の時間を楽しむだけのこと。他に男もいなさそうだし、焦る必要もない。先の事は置いておいて、今は楽しむ程度でやり過ごすことにしよう。
「小早川?何しにここへ?」
いつも通り出社し、久しぶりに山田に呼び出された水島は、会議室にあったその姿に驚いた。
「やあ。いってなかったっけ?瀬戸さんとの面談だよ」
「聞いてない。来るなら来るって言えよ。そもそも、オレがいるのに面談なんているのか?彼女のことは、報告してるじゃないか」
「君は、彼女の同じ職場の相談相手として、僕は転職エージェントとして。だから面談の主旨が違うよ。近くにいる君だからこそ、言わないこともあるかもしれない。それに、顔を合わせなきゃ分からないこともあるしね」
「じゃあ、オレも同席させてもらうよ。あくまでコンサルタントの立場としてね」
「それは遠慮してくれ。彼女に1ミリでも僕らの関係を疑われたら終わりだ。そこは慎重にやらなきゃ」
「大丈夫だよ。うまくやるよ」
「いや、だめだ」
小早川は頑なに拒んだ。
水島は小早川の言葉が引っかかっていた。すっかり心を許してくれていると思い込んでいたが、八重子はまだ自分に隠していることがあるのだろうか。そんなことはないと確認したい気持ちもあって、同席したかったのだが、小早川の態度は変わりそうになく、諦めるしかなかった。
八重子は小早川と約1時間ほど面談をしていた。勤務中の休憩時間や終業後に会ったときに、水島は八重子から何とかその時の話を聞こうとしたのだが、大した話は引き出せなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます