転職
さらに約1週間が経とうとしていた。
小早川から次の指示もないので、水島はダラダラと過ごしていた。たまにクライミングに行って唯と話し、八重子の人柄はなんとなくつかめて来ていたものの、特に進展もなく飽きてきたころに、連絡が来たので、事務所に向かった。
「なんか分かったか」どうせ小早川も何もなかっただろう、と水島は期待していなかった。
「いや。今日は報告じゃなくて、彼女の面談の日だ。転職先を決めたよ」
「は?」あまりの急展開に水島は言葉を失った。
「いつの間に?どういうこと?」矢継ぎ早に問いかける水島だったが、小早川は手元の資料を目で追うのに必死で、聞いていないようだった。
「おい、小早川――」再度、聞こうとすると、ブザーが鳴った。
「瀬戸さんだ。水島、隣の部屋へ。早く」水島は追い出されてしまった。
恐る恐る、といった感じで、八重子は事務所へと入った。一体、何を言われるんだろう、と不安と期待が入り混じっているようだった。
「瀬戸さん。お仕事が決まりました」
「は、はい。なんでしょうか」八重子は、膝の上で握った手に力を込めた。
「転職先は、化学メーカーの秘書です」
「はっ?」八重子と、隣室にいた水島は同時に声を出し、水島は慌てて口を押えた。前回の反省を踏まえて、今日は事務所にBGMを流していて良かった。水島の声はうまい具合に、かき消されていた。
しかし、心配は無用だった。八重子は水島の声など聞こえていようがいまいが関係なく、目を見開いて放心しているようだった。
「秘書、ですか?」八重子が聞き返す様子を、モニター越しに見てうなずきながら「そうだよ、なんで秘書だよ」と水島も小さな声でいった。
「そうです。転職先の会社は、今のところと比べると規模はかなり小さく、従業員150人程度です。秘書はあなた1人。ちょうど欠員が出たので補充ということです。初めての職種なので不安でしょうが、仕事内容は今に比べるとずっと簡単ですし、給料も悪くない。製品も高品質と評判で、海外含めてシェアも高い。なかなか、いい会社です」小早川は優しくいった。
「そこの会社はよく知っています。いい仕事をしているところだとは思います。でも、どうしてまた……。前回と同じ職種を希望と言ったはずですが」八重子は少しイライラした。そりゃそうなるよな、と水島も同調した。
「はい。それは承知の上です。ご希望の職種――つまり研究職を探すことも、もちろん可能でした。ただ、それを選ぶと、同じことの繰り返しになりませんか?また、いずれ、辞めたくなりませんか?」
水島には、小早川の台詞の意図がつかめなかった。どうして、そこまではっきり言えるんだ、と思いながら八重子を見ると、目を伏せて唇を結んでいた。痛いところをつかれた、ということだろうか?
「瀬戸さんについて、様々な角度から検討した結果です。まあ、誰もが羨む優良企業を、思い切って辞めたあなたです。なんでも挑戦してみれば、いいんじゃないですか。一応、3か月という期限もありますし。嫌なら辞めて、うちからお金取って、次に行けばいいですよ」明るく小早川がいうと、それでもいいかという気もしてくる。モニターを食い入るように見つめながら、水島は考えていた。
八重子もそう感じたのかもしれない。どちらにしろ、もう契約を交わしてしまっているから、引き返す選択肢もない。それなら、小早川の言葉を信じた方が賢明だ。
八重子が覚悟を決めるのに、時間はかからなかった。入社日や仕事内容など、事務的な話を聞くと、「では、よろしくお願いします」と、スムーズに手続きを終えて帰った。
「お前って、つくづく人が悪いな。いつの間に決めてたんだよ」戻ってきた水島は文句をいった。
「ちょっと前に決めた。口で説明するより、行動した方が早かと思って。説明したところで、納得してもらえる気もしないしね」と適当な返事をした後で、水島の不満を察して「最後には分かってもらえると思うから、信じてほしいんだ」と真剣な顔つきでいった。
小早川の奴、絶対、自分が一番賢いと思っている。思慮の浅いオレのことなど、小馬鹿にしているんじゃないか。そう思うことが昔から多々あって腹が立つのだが、たまにこのように誠実なそぶりをする。嘘くさいことしやがって……。などと思いながらも、人のいい水島は、堪忍袋の緒が切れるギリギリのところで許してしまうのだった。
「ここからが本番だ。水島、君の仕事がカギを握る」
「次はなんだ」水島は半ばヤケになって聞いた。
最後まで手の内を明かさない上に、想像の斜め上を行く要求をしてくる小早川のやり方に、水島は慣れてきたつもりでいた。なんでも来い、と。
「次は、君が瀬戸さんの転職先に潜入するんだ」
「えっ?」また、小早川に間抜けな顔を晒してしまった。
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