無題噺

文芸サークル「空がみえる」

 

無題噺

                     文芸同人「空がみえる」作




あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

――和泉式部




 深紅の喪を考えると嫌悪感が沸いてくる。熟然と沈思黙考する対象ではない筈だが、しかれば彼女はふと、苦々しい表情で終日を過ごし、刺々しい皮膚の鎧を衣服の下で剥き出すのである。彼女の紅らんだ眼睛は感情の残滓として瞼の間で物憂げに潤み、世界は涙に充たされている。彼女が泣いているのではない。浮世の歔欷きよきに沈溺し、滴る雫が肌身を隅々へと這っている。神経細胞が濡れる感覚。天地はクロイツフェルト・ヤコブ・ディジーズに罹患した。全てが泡沫と化し、灰燼に帰する。蜘蛛の糸が垂らされるのを待っている人々は、仮に仏の皮を被った羅刹であったとしても、現世に下される壊滅の審判から逃れようと一も二もなく喰らいつくのだろう。

 今月も鈍重な腹痛は当人の都合を構わず訪れる。彼女が感じる不条理は至極直截であった。すなわち彼女は全身の血液が乾燥し、微塵と化している筈だと自覚しているのであるから、宿命的な月の盈虧えいきは有り得ないのである。乾涸らびた粘膜は下腹部の奥の生命の揺籃器にも及んでいる筈であり、皹割れた子宮はあおぐろく蹲っている。血管に固形化した大量の粉末が敷き詰められ、時間が凍結したごとく、彼女は肉体の内部から世界の静止を認識していた。彼女は最早、何事をも歯牙にもかけず、怪物化した自己の内面に沈下しながらでもつて生存していた。昔、奈良国立博物館で展示されていた地獄草紙を観た時、世界の実像模型を目の当たりにした強烈な衝撃を受けた。それは彼女にとって絶対的な真実との逢着であったのだ。西暦一八九三年、アルチュール・ランボーは言葉を棄てた。その後の九一年、マルセイユの病院でこの稀代の異邦人は世を去った。そして百年後、彼女が生を受けた。黒檀の分娩室で母の陰唇を押し拡げた体温の吐瀉物は、皐の畳の下で午後四時の寝泣きに喉を震わせていたのである。二〇世紀末、少女の彼女も理知から脱皮した。彼女はパンドラのはこを開けたのではなく、匣の底の片隅で腐蝕した希望としてひっそりと佇んでいただけだったのだ。

 彼女と交わる時、彼は毎回避妊具の着用を欠かさない。彼と彼女の肌が溶け合う日、空はいつも曇っていた。地上に黙示的な無言の警句を顕出させている風に、天光を遮り、玄雲が蜷局とぐろを巻き、昼も夜も、明けても暮れても、断末魔にも似た沈黙で彼女は彼から愛され疲れていた。

――私は明石?

――紫ではない

――私が貴男を看取るわ

――ややもせば

――厭だ

 逢瀬の数だけ左手首の傷痕が増えてゆく。一つ一つ、彼の面影を刻み込むごとく。色素沈着で浮かび上がる冷たい彼の証を、掌の中で握り締めるたび、世界に対する信頼を持てない自分の呻吟を、絶え間ない人生という名の拷問に耐え忍ぶ押し殺した呼吸を、屈辱的な没落体験として反復させる。生きている、ただそれだけが、極限的な自死の完成形であるから、彼女は解体された魂の弥縫びほうとして今日をいつまでも繰り返す。

 寝覚めに淹れた紅茶を一服だけ味わうと、また、朝に目を覚ました事実への愕然たる心痛が和らぐ。真っ白なワンピースを選び、あたかも強制収容所の囚人に見えて、裏腹では瞼の内側の色をしている。自宅の前のアスファルトの隙間に生えている十二単草、今年は開花が遅かった。彼女は散歩の帰り、一箇所に群生している十二単草の花を見下ろすと、自分のくちびると同じような花の色をしていた。

 彼が姿を見せず、暫く経っていた。誠実というよりは律儀な男で、剥き出しの本能を気障きざに虚飾する性癖の持ち主であった。そんな彼を若気の至りで恋慕っていた時代もあった。目から鱗が落ちた今、彼との関係は手と手を取り合い泥濘ぬかるみを踏み歩く苦行に思われた。彼女が彼と知り合ったのは、十四歳、中学二年生の時分であった。八年間、性情の加点方式を排した二人の歳月は、のっけから何も始まっておらず、延々と失われた時の壁に囲まれているのであった。

 阪和線に乗って北上し、堺市駅で降りると、アルフォンス・ミュシャ・ミュージアムへ行った。昇降機の中で会社員風の若々しい中年男性と乗り合わせた。彼女は俯き、スマートフォンに没頭していた。館内を一巡し、物販を冷やかし、取って返す風にして復路を辿った。三国ヶ丘駅を通過する電車の中で、仁徳天皇陵のこんもりと生い茂った木々の要塞をぼんやりと眺めていた。

 自宅から徒歩半時間近く、関西国際空港と五キロメートル隔てた大阪湾の潮風を浴びる。大理石浜の波打ち際を横切りながら、彼女は昔聴いた懐かしい歌を鼻ずさむ。六人目の自分、六番目の自分、彼と垂直に向いている自分。大音響で交錯する飛行機に一人で二つ指を立ててみる。二一世紀という心境がわけもなく去来した。誰かが自分を呼んでいる筈だろう。だがしかし、彼女はこうして砂浜に孤独な足跡を点々と残してゆくだけであり、彼は市内の方で齷齪あくせく阿漕あこぎな真似に現を抜かしているのだろう。

 海は今日も穏やかに波打っている。ウォルターズ美術館で観た、ピュビス・ド・シャヴァンヌの壁画のような静けさだった。彼女が振り返ると、遠くの山の方は発電用の風車が無数に稼働している。旋転として無限の時間を約束している風に。

 代謝を失った細胞は、腐り朽ちてゆく。彼女は社会の有機体として機能していない。生ける屍としても不完全だった。頭脳が働いているだけに限り、肉体は意識を無視した不可思議な自律性に支配されているかに思われた。彼女は朦朧する感覚の虜であり、心身が切り離された半端な存在なのかもしれなかった。

――貴女、ずっとそんな調子で、一体この先どうするつもりなの

 随分と前に母が彼女に向けて言った。

 彼女のアパートはもぬけの殻になっていた。

 彼女の姉の仕業だった。

 彼女は絶句して物が言えなかった。

 一柱の大きな電波塔は現地住民の殆どに嫌われている。彼女が転住してくる以前、一度だけ爆破予告があったらしい。逮捕された人物は他県の人間であった。

 彼と交際した女性は全員が自殺しているという迷信めいた風聞があった。寝室の鏡台を通じて、煙草をんでいる彼の姿を一瞥すると、黒い女の臭いが、顔のない女の亡霊が、粘着く快楽の後の気怠い彼女の視界をぎるのであった。化粧の落ちている瞼を上下に往復させると、彼は眠っていた。彼女は遊離していた感覚を我が身に取り戻す。鏡の自分自身に視線を戻すと、生々しい死相を浮かべた顔貌が無表情で自分を凝視していた。やがて孤独な朝の蒼暗い寂寥に嗟咨さしする予感を抱きながら、操り人形のように彼の隣に身を滑らせる。ピエト・モンドリアンの抽象絵画のように、彼女は彼と直截な線引きの平面の上で無気力に四肢を投げ出す。五体が満足していても何かが欠落していた。彼女の胎内で卵が割れる。血塗れの黄身が未生誕の悲嘆を上げるが、白く濁った脂肪の中では音が漏れ出ない。綱渡りの静寂に張り詰めた空気は、彼女の透明な亀裂に覆われた皮膚の裏側にも図々しく侵入し、彼女の暗順応した全身に忌々しい実物の気配を伝わせる。色褪せた情緒を更に窮屈に結束して来る風な疲労感は、彼女にいつも二律背反な感情を催させる。蛹から孵化した翅のない畸形の蝶と化し、再び重力の墜落に貶められる。真っ逆様の空転の下に、魚として夜洋を彷徨う退化の夢想に迷い込む。方向の概念が損われ、自由の充満に肺腑から窒息しそうになる。彼女は神経に活を入れた。未明の午前二時二八分、彼女は背中越しに彼の寝息に耳をそばだてるが、毎夜のごとく無意味な足掻きであった。彼は頭が眠っていると、体が起きている男であった。さながら戦地の最前線で指揮を執る司令官でもある風に、二時間体制の心身を保持していた。彼の無防備な一瞬を赦さない行動原理は、自然として彼女に相応の距離感を置かせる間隙を生み出していた。

――あの電波塔……

 と彼女は呟いた。彼は同じ寝台の中、作為的な瞑目で無言を突き返す。寸暇を惜しむ日々における唯一の安楽に、水中に虚脱するにも似た一時に、余計な雑音を嫌悪する沈黙であった。

――本当にどうにかならないの、あの電波塔……

――黙れ寝ろ

――貴男が

――寝ろ

 翌朝、彼女が寝室を出ると、最早そこは、彼の所在しないがらんどうであった。洞窟生活から抜け出した原人のように、彼女は横溢する外光に焼き尽くされそうな絶望感に襲われる。

 誰にも求められない身嗜みを整え、彼女は今日も海を目指す。途中、どちらを向いても、多種多様な虚無が色彩と形態を借りて密集し、密林の奥の古代宗教遺跡じみた幽糊ゆうこたる廃墟の様相を呈している。自分もその一部なのだと思うと、彼女は空々漠々とした観念も受け容れられる心持ちがした。自己を墓石と看倣みなし、全生涯の白紙として慢性的な四苦八苦を伴う精神的飢餓の。

 何も望まないようにしたくて、彼女は自分の内部で現実を真っ白にする術だけを特訓してきた。成果はわからない。ちゃんとやれてきた気がすると、幾度とない誘惑に負けてきた気もする。所詮、人一人の人生なんて路傍の石にもすぐらないものなのだ。自分とそっくりの他人がいれば、そっちに主役の座を明け渡してしまっても何ら差し支えない。

 二束三文で構わないから、誰かに自分の重荷を背負ってほしい。彼女は乾いた心で鈍く囁く。

 姉の車を見た気がした。海岸沿いの道だった。追いかけようと思えば可能だったかもしれない。けれど、色々な想像が一気にふくらんで彼女はひどく億劫な気分に陥った。

 立ち止まる。彼女だけが静止している。周りはめまぐるしく動いている。彼女はそれについていけないだけなのだ。ついていく必要もないけれど、そこに身を置く上では避けられない。風を浴びて、彼女は視界をくらませて……。

                                 〈了〉




♪ Lost In Your Eyes / AOR

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無題噺 文芸サークル「空がみえる」 @SoragaMieru

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