無題噺
文芸サークル「空がみえる」
無題噺
文芸同人「空がみえる」作
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
――和泉式部
深紅の喪を考えると嫌悪感が沸いてくる。熟然と沈思黙考する対象ではない筈だが、
今月も鈍重な腹痛は当人の都合を構わず訪れる。彼女が感じる不条理は至極直截であった。
彼女と交わる時、彼は毎回避妊具の着用を欠かさない。彼と彼女の肌が溶け合う日、空はいつも曇っていた。地上に黙示的な無言の警句を顕出させている風に、天光を遮り、玄雲が
――私は明石?
――紫ではない
――私が貴男を看取るわ
――
――厭だ
逢瀬の数だけ左手首の傷痕が増えてゆく。一つ一つ、彼の面影を刻み込むごとく。色素沈着で浮かび上がる冷たい彼の証を、掌の中で握り締める
寝覚めに淹れた紅茶を一服だけ味わうと、また、朝に目を覚ました事実への愕然たる心痛が和らぐ。真っ白なワンピースを選び、あたかも強制収容所の囚人に見えて、裏腹では瞼の内側の色をしている。自宅の前のアスファルトの隙間に生えている十二単草、今年は開花が遅かった。彼女は散歩の帰り、一箇所に群生している十二単草の花を見下ろすと、自分の
彼が姿を見せず、暫く経っていた。誠実というよりは律儀な男で、剥き出しの本能を
阪和線に乗って北上し、堺市駅で降りると、アルフォンス・ミュシャ・ミュージアムへ行った。昇降機の中で会社員風の若々しい中年男性と乗り合わせた。彼女は俯き、スマートフォンに没頭していた。館内を一巡し、物販を冷やかし、取って返す風にして復路を辿った。三国ヶ丘駅を通過する電車の中で、仁徳天皇陵のこんもりと生い茂った木々の要塞をぼんやりと眺めていた。
自宅から徒歩半時間近く、関西国際空港と五キロメートル隔てた大阪湾の潮風を浴びる。大理石浜の波打ち際を横切りながら、彼女は昔聴いた懐かしい歌を鼻ずさむ。六人目の自分、六番目の自分、彼と垂直に向いている自分。大音響で交錯する飛行機に一人で二つ指を立ててみる。二一世紀という心境がわけもなく去来した。誰かが自分を呼んでいる筈だろう。だがしかし、彼女はこうして砂浜に孤独な足跡を点々と残してゆくだけであり、彼は市内の方で
海は今日も穏やかに波打っている。ウォルターズ美術館で観た、ピュビス・ド・シャヴァンヌの壁画のような静けさだった。彼女が振り返ると、遠くの山の方は発電用の風車が無数に稼働している。旋転として無限の時間を約束している風に。
代謝を失った細胞は、腐り朽ちてゆく。彼女は社会の有機体として機能していない。生ける屍としても不完全だった。頭脳が働いているだけに限り、肉体は意識を無視した不可思議な自律性に支配されているかに思われた。彼女は朦朧する感覚の虜であり、心身が切り離された半端な存在なのかもしれなかった。
――貴女、ずっとそんな調子で、一体この先どうするつもりなの
随分と前に母が彼女に向けて言った。
彼女のアパートはもぬけの殻になっていた。
彼女の姉の仕業だった。
彼女は絶句して物が言えなかった。
一柱の大きな電波塔は現地住民の殆どに嫌われている。彼女が転住してくる以前、一度だけ爆破予告があったらしい。逮捕された人物は他県の人間であった。
彼と交際した女性は全員が自殺しているという迷信めいた風聞があった。寝室の鏡台を通じて、煙草を
――あの電波塔……
と彼女は呟いた。彼は同じ寝台の中、作為的な瞑目で無言を突き返す。寸暇を惜しむ日々における唯一の安楽に、水中に虚脱するにも似た一時に、余計な雑音を嫌悪する沈黙であった。
――本当にどうにかならないの、あの電波塔……
――黙れ寝ろ
――貴男が
――寝ろ
翌朝、彼女が寝室を出ると、最早そこは、彼の所在しないがらんどうであった。洞窟生活から抜け出した原人のように、彼女は横溢する外光に焼き尽くされそうな絶望感に襲われる。
誰にも求められない身嗜みを整え、彼女は今日も海を目指す。途中、どちらを向いても、多種多様な虚無が色彩と形態を借りて密集し、密林の奥の古代宗教遺跡じみた
何も望まないようにしたくて、彼女は自分の内部で現実を真っ白にする術だけを特訓してきた。成果はわからない。ちゃんとやれてきた気がすると、幾度とない誘惑に負けてきた気もする。所詮、人一人の人生なんて路傍の石にも
二束三文で構わないから、誰かに自分の重荷を背負ってほしい。彼女は乾いた心で鈍く囁く。
姉の車を見た気がした。海岸沿いの道だった。追いかけようと思えば可能だったかもしれない。けれど、色々な想像が一気にふくらんで彼女はひどく億劫な気分に陥った。
立ち止まる。彼女だけが静止している。周りはめまぐるしく動いている。彼女はそれについていけないだけなのだ。ついていく必要もないけれど、そこに身を置く上では避けられない。風を浴びて、彼女は視界をくらませて……。
〈了〉
♪ Lost In Your Eyes / AOR
無題噺 文芸サークル「空がみえる」 @SoragaMieru
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