Episode Ⅹ 『怠惰』

「起きてください、もうお昼ですよ」


 身体を優しく揺さぶられながらスフィアが声をかけてきた。それでようやく眠りから覚醒し、瞳を開ける。すると、小窓から差し込んでくる光がちょうど顔面を照らしていて、あまりの眩しさに目が眩む。


 瞳への刺激が和らいだところで再び瞼を持ち上げると、スフィアの姿が視界に映る。可愛らしい大きなリボンがあしらわれた純白のブラウスに、鮮やかな色合いの赤いスカートを纏った彼女の髪は湿り気を孕んでいる。どうやら水浴びをしてきたらしい。


「もう昼か、おはよう」


 強い倦怠感は寝起きというのに加え、体内の魔力が枯渇しているからだ。それを思い出してディアは小さく溜息をつく。


「おはようございますっ、今日は良い天気ですよ」


 スフィアは蕾が綻ぶような笑顔を浮かべる。しかしディアはニコニコと笑う彼女から、どこか儚げな印象を抱いた。それが何故かは分からないが、手の中にある砂が徐々に零れ落ちていく様な喪失感さえも感じ、一抹の不安を感じる。


「なぁ、なんかあったのか?」


「えっ? あ、いえ! 平常通りですよ。どうしたんですか、そんな藪から棒に」


 一蹴の動揺を見せながらも、スフィアは笑顔を取り繕って笑う。


 前から嘘をつくのが苦手なんじゃないかと思っていたが、想像以上にわかりやすいヤツだと、ディアは内心思った。ぎこちない言動を繰り返しているところから察して、ディアが眠りこけている間に何かあったと見て間違いは無さそうだ。


 それでも、相談して来ないという事はあまり話したくない問題だろう。ひとまずはそっとしておくべきと判断して、ディアは追究するのを控える事にした。


「とりあえず顔洗ってくるわ」


 ディアは重い体を引きずる様にして小屋を出る。顔を洗うと言うのは方便だ。外に踏み出したところで、周囲を観察して何か異変が無いかと様子を探る。


「……なるほどね」


 地面に残された異質な足跡を見つけ出してディアは訝しんだ。自分のものでも、スフィアのブーツの物でも無い。


 足跡が地面に深く沈むのは、鎧を着込んで体重が重くなった証拠。その痕跡は戦場で良く見たものだ。それに馬と思われる動物の蹄の跡も確認できた。


 自分が暢気に寝ている隙に誰かが訪れ、スフィアと会話した。相手はおそらく騎士で、ディアではなくスフィアに用があったのだろう。ディアに用件があるのなら寝ているディアを取り次いだスフィアが起こすはずだからだ。


 ディアは湖に向かいながら、さらに思考を加速させる。


 先程のスフィアの態度から察するに騎士から告げられた内容は芳しくないものと想像できる。スフィアに用事がある騎士でなおかつ彼女に不利益をもたらす存在。スフィアが望まない婚約を結ばされる相手、ヒュレール王国第一王子ハビルの使者だろうか。それ以外には考えられない。


  湖の畔にある大きな岩へと腰掛け、ディアは鏡の様な水面へと視線を投げた。そこに映る自分の顔が苛立っている事に気付いて笑えてくる。


 背後に人の気配を感じて振り返ってみると、スフィアが浮かない表情でゆっくりと歩いてきていた。


「……その、魔王」


「どうした?」


 スフィアは直ぐには答えない。言い出しにくい事なのだろうとはわかったが、ディアは彼女の言葉を待つ事にする。じっと見つめているとスフィアが顔を上げ、サファイアの瞳と交錯する。


「私、帰らないといけなくなってしまいました」


 スフィアは言いながらディアの隣に腰掛けた。


「ハビルか?」


「はい。式の予定が早まったようで。それに合わせて帰らないといけないんです」


「お前はそれでいいのか?」


「……はい。仕方ありません。私の私情で国の人達を困らせる訳にはいきませんから。そうなったらきっと私のこころは重圧でダメになってしまいます」


 力なく笑いながらスフィアは一差し指を水面に向ける。柔らかな風がそよぎ湖に波紋を生み出すと、鏡面に映り込んでいた二人の姿が掻き消えた。


「なぁ、お前は――」


「大丈夫ですよ、魔王! 私は大丈夫です!」


 言いかけたところで、わざと言葉を被せる様にスフィアが言った。彼女は岩から飛び立つと、くるりと踵を返してディアに向き直る。


「私の我が儘に付き合って頂いてありがとうございました。とても楽しかったです! それでは私はもう行かないといけませんので。さよなら、魔王」


 まくし立てる様に言って、彼女は再び踵を返す。空気を孕んでひらりとスカートが翻り、彼女の美しい金髪が揺れる。きらりと光るものが零れ落ちた。ディアはその涙に気づきながらも見ない振りをする。


 小走りでディアの元を離れていくスフィアの背中が、木々の中に消えていくのをぼうっと眺めながら、ディアは下唇を強く噛む。


 どれだけ悔いが残ろうと、悩み抜いた末に絞り出した答えならば、自分がどうこう意見をするのは筋違いだと思う。


「なぁ、スフィア。お前、本当はどうしたいんだ?」


 ぽつりと漏らした言葉は誰の耳に届く事も無く虚空へと消える。


 スフィアは言った。国の人々のためだと。それは確かに彼女の意思だが、全てをかなぐり捨てた本心ではないはずだ。そうで無ければあの場で涙は流さない。


 ただ〝助けて欲しい〟と言われればディアは魔王へと戻る覚悟がある。自分の魔力が枯渇しているだとか、国一つを敵に回すだとか、そんなものは問題ではない。しかし、スフィアはそれを望まなかった。だからそれまでだ。


 小屋に戻って扉を開けてみても聖剣使いの姿は無い。彼女の持ち込んだ荷物は綺麗に無くなっており、ディアが寝ている間に掃除したのか部屋は綺麗に片付いていた。まるでスフィアが最初からいなかった様に感じる。


突然押しかけてきて、穏やかな生活をぶち壊されたが嫌な気はしなかった。一緒に過ごした時間は本当に僅かで、戦場で剣を交えていた方が長いとさえ言える。


 だからこそ、もう少しだけ彼女の事が知りたかった。読みかけの本を他人に取り上げられたような気持ちだ。


 やりきれない気持ちでベッドに倒れ込むと、太陽の光を受けて輝く金糸が視界に飛び込んでくる。スフィアが確かにこの部屋にいたのだと実感でき、ディアのやるせなさは加速する。


「やめとけ、今のお前じゃどうお足掻いても追いつけねぇよ」


 自分に言い聞かせる様に声に出して言った。


「そうだ、それでいい。今のお前は魔王でもないんでもねぇ、ただの干涸らびた吸血鬼だ。そんなヤツに何ができるんだよ」


 ディアは自分で言っていて情けないと嗤った。魔王の名が泣く。かつて数多の戦場を蹂躙し尽くした存在と、今の自分が同一人物だとは思えない。


「……つまんねぇな」


 ディアは仰向けになると、腕で顔を覆って瞳を閉じる。スフィアが自分で考えてそうしたのだから、もうどうでもいいかと考えるのをやめる。沈む気持ちに比例して、意識は重くなり闇へと溶けた。


 自分だけが寝そべるベッドが嫌に広く感じた。

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