Episode Ⅸ 『蜂蜜酒の誘惑』

 目を覚ましたディアが目にしたのは、見慣れたボロ小屋の天井だった。ひとまず自分が生きている事に感謝し、深い息を漏らす。身体に痛みは無く、完治している事を確認して上体を起こす。


 部屋を見回すと案の定スフィアが眠りこけていた。自分の身体と同じほどの樽に身を寄せて、すぅすぅと寝息を立てている。大樽の上には水の入った桶に、濡れたタオル。汚れた包帯が床に散らばっているのを見ると、看病途中に寝落ちたらしく、ランタンにも火が付きっぱなしだ。


 身体が鉛の様に重く、強い違和感を覚えた。無理も無いかと溜息をついた。白龍のブレスを受け止め、自己治癒のために体内の魔力は全て消費されてしまったらしい。内的魔力が回復しない吸血鬼族にとっては死活問題だ。


 小窓から外の様子を伺うと、満月が大地を照らしているのが見えた。意識を失ってから半日といったところか。白龍から受けた傷と消費した魔力を鑑みれば妥当な時間ではあるが、スフィアが滞在できる期間を考えれば申し訳無い事をしたと思う。


「んっ……、起きたのですね」


 大樽に寄りかかって寝ていたスフィアが目を覚まし、腕で眼を擦りながら起きる。


「助かったぜ、ありがとな」


「守って頂いたのですから、当然の行いです。しかし、吸血鬼族の自己治癒能力は凄まじいですね、あんな酷い傷がもう治ってます」


 スフィアはのそのそと這い寄ってくる。それからディアの側まで寄ると、包帯を取った腕をさすりながら言った。流石に距離が近い。ディアは彼女を直視しない様に視線を巡らせる。


 すると、大樽以外にも自分の小屋に見慣れない物がある事に気づく。ベッドの脇に置かれた小さなテーブルの上には純白の角笛があり、出口となる扉の近くには幾つもの袋が積まれていた。


「あのクソドラゴンはどうした? それとこの角笛は?」


「魔王のおかげで白龍様は正気に戻られましたよ。その角笛はお詫びにと言っておられました。吹けば一度だけ力を貸してくれるそうです」


 ディアはなるほどと頷く。袋の方は大方エルフの村からの物だろう。注文通りなら、中身は日持ちする食料だ。これで数日は食べ物に困る事は無い。そうなると大樽の中身は蜂蜜種か。


 白龍を呼び出して一発殴り飛ばしてやろうかと考えるが、今の自分の戦闘力では殴ったところで自分の拳を痛めるだけだと撤廃した。昼頃から半日ほど眠ってしまったせいで、日付を跨いだというのに眠気は全く無い。


「なぁ、スフィア。お前酒は飲めるか?」


 ディアはベッドから這い出ると大樽へと向かい、樽の封を破る。中には並々と黄金色の液体が満たされており、それから放たれる香草と蜂蜜の混じった香りが部屋を充満する。


「年齢的には飲めますが……」


 スフィアはおずおずと答える。


「よし、じゃあ飲もうぜ」


 ディアは小さな棚から鉄製のコップを二つ取り出し、大樽から酒を汲むと片方をスフィアに渡す。それから自分の分を豪快に飲み干して次を汲む。


「あぁ、やっぱあの集落の酒はうめぇな!」


 上機嫌に次々と蜂蜜酒を飲み干していくディアと違い、スフィアは両手で持ったコップをまじまじと見つめるだけで口をつけようとしない。


「飲まねぇのか? 美味いのに」


「の、飲みますっ。ですが心の準備がありますので」


「心の準備? そんなもんいるのか? まぁ、飲みたくねぇなら無理はするなよ。酒は楽しく飲まなきゃ意味がねぇし」


 スフィアは目を瞑って、一気にコップを煽る。それからスフィアはピタリと動かなくなった。ずっと俯いて空になったコップに視線を落としたまましばらくの時間が経つと――、


「ふぇへへ、おいしいれすね」


「おい、スフィア……?」


 顔を上げたスフィアの表情は赤く、瞳はとろんとしていて焦点が合っていない。体温が上がったせいか息も荒い。ディアは心配になって彼女の側に寄ると、頬に手を当てて体温を確かめる。


「妙に熱い。もう酔ったのか!? たった一杯だぞ? くそ、酒に弱いなら最初にそう言えばいいのに」


「なぁに言ってるんれすかぁ? 私なら……ひっく。うぅ、大丈夫れすよぉ?」


「わかったわかった。もう寝ろ。看病ありがとな」


 そう言ってスフィアの元を離れようとするが、不意にスフィアがディアの腕を引っ張った。ディアは体勢を崩してベッドに背中から倒れ込む。その先で待ち構えているのは勿論スフィアだ。


「何しやがる、俺は一人で酒盛りを続けるんだ。酔っ払いは寝てろ」


「えへぇ、一緒に寝ましょうよお~」


 呂律の回らない舌で喋りながら抱きついてこようとするスフィアは潜り抜け、ディアは彼女とは反対側のベッドの隅へと逃げる。そのままベッドから抜け出そうとするが、スフィアはそれを逃がさなかった。


「だぁ、酔うとめんどくせぇタイプだな!」


 抱きつかれたディアはスフィアを振り払おうとするが、スフィアはディアの腕を強く抱きしめて全く離れようとしない。そのまま引き込まれて添い寝をする形になった。


「すぅ……」


 今度は突然動かなくなったと思えば、すっかり寝入っている。幸せそうな寝顔に文句を言う気も失せてしまい、ディアは諦めて寝る事にする。ランプは長い炎を灯していたせいで油が切れそうになっており、少し勿体ないが放置で良いだろう。


「俺は抱き枕じゃねぇんだなぁ……」


 ぼやいてみるが当人は知るよしもなく夢の中だ。


 そう時間をおかずにランプの灯りも尽き、部屋を照らす灯りは満月のみとなった。


「あと二日か」


 スフィアに残された時間は少ない。彼女の置かれた境遇を思えば、肩を持ってやりたくもなる。スフィアは名家に生まれたがために、隣国の王子との政略結婚を強いられている。断れば国家間の関係は悪化し、受諾すればスフィアの想いは踏みにじられる。


 告白されて、今まで秘めていたスフィアの感情を知ってしまった以上、ディアとしては望まない相手との結婚は何とかしてやりたい。しかし、今のディアには国を脅かせる程の戦闘能力は無く、手段が限られていた。あるいは血を取り込んで魔力を回復するか……。


 ディアの視線は自然と無防備に眠るスフィアの首筋に行く。作り物みたいに整った顔に、歳不相応に発育した身体。美しい金髪からはほのかに甘い匂いが漂ってきて、ディアの吸血衝動を誘う。


「クソッ」


 自分の中の芯が熱くなっていくのを感じ、首を振って思考を払う。ディアは瞼を閉じると、一切の思考を放棄した。スフィアの心を救う方法は、また明日考える。今日はもう寝よう。


結局それから二時間ほど、ディアは悶々とする気持ちを抱えたまま寝付けないでいた。

しかし、夜は更けていく。

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