十六話 祈之十五歳の頃 Ⅷ
「もし、もし…何処?何処にいる?」
「逗子…マリーナ…来たよ…僕…」
「すぐ行く…」
正夫はコートを羽織ると一目散に祈之の元へと飛び出した。
祈之との仲を裂いた亜子の顔が正夫の行く手を何度も阻んだがもう留まる事は出来なかった。もう祈之を放っておく事は出来なかった。絶望の淵を歩き続ける祈之を、傷だらけになって彷徨う祈之を安全な場所に連れ戻さなくてはならなかった。説得をするのか、抱きしめるのか――どっちにしても亜子からは厳しい仕打ちを受けるだろう、自分だけへの仕打ちであるのならどんな罰も甘んじて受ける覚悟はできていた――思いは走りだしていた。
凍えるような海風に吹き晒され、スカジャン一枚の薄着でポケットに手を突っ込み肩を竦めて岸壁の横でポツンと立ち竦む祈之の姿が見えた。胸が締め付けられた――冷静でいなくてはならない、自分が激情に走ってはならない――「幸せになれ」説得をしなくてはならない。その時は<説得>の思いが強かった。
この数ヶ月背を向け続けた祈之がそこに居た。込み上げる思いに「祈…」懐かしい眼差しで呼びかけた。
祈之は肩をピクッと震わせ、本当に来たんだ…そんな表情で振り返り、
正夫を見つめた。
正夫はマフラーを外しながら近付き、祈之の首を覆い込むように巻き付けコートの中に細い紀之の身体を抱きよせた。
「ちゃんとコートも着ないで、ジャンパー一枚で吹きっ晒されて風邪引くじゃないか…」
祈之は求めても求めても拒絶され続けて近寄る事も出来なかった正夫の胸に顔を押し付けしばし無言であったが…やがて、噦り上げる様に涙を溢れあがらせた。
この一瞬で二人の心は過去へと遡った、愛しくてただただ抱きしめてしまった。二人はしばし無言であった。
「何故…ママに負けたの…」祈之は呻くように呟いた。
「易々とママの言いなりになって…どんなことがあったって僕たちは離れなかったのに…僕は…まーちゃんが居なければ…まーちゃんが居なければ…この世に生きてる意味なんかないんだよ!生きてる意味がないから僕は死のうと思った、でもこの世にまーちゃんがいるから死ねないんだよ…」
「何故そんなに僕が良いんだ…祈には輝く道があるんだよ、可能性がいっぱい広がっているんだよ、どうして歩いて行かないんだ…もう、僕を忘れなくちゃ駄目だ。祈も見ただろ?…貧乏な家に生まれて、学校も行って無い、教養も無ければ、金も無い、一生何処かで汗と泥に塗れて働いていくしか無いんだよ僕は…祈の家の使用人なんだよ。身分が違うんだ…祈を幸せになんてできない…ママの言う事が最もだと思ったんだよ、祈にしてやれることは…もう何も無いんだよ」
「幸せ?幸せって何?まーちゃんに代わるものなんか無い、三つの時からずーっと僕たちは幸せだった。ママの一言で変わった。まーちゃんは負けたんだ!ママなんかに負けないで!…いつも側に居るって言ったくせに…まーちゃんが変わったんだよ、まーちゃんのいない幸せなんて想像がつかない」
祈之は亜子に易々籠絡された正夫を
「居たよ…本当は辞めた方が良いかと思ったけど…辞めなかったんだよ 祈と距離を置いても祈の側に居たかったんだ」
「話もしなかったじゃないか!」
「話をしてたら、あそこにはいられなかったよ…話をしなかったから側にいられたんだよ、側にいたんだよ…ずっと…いたんだよ、でも、僕はもう、祈に何もしてやれないと思ったんだ…祈に、幸せになって欲しかったんだ…」
正夫は腕を緩めると祈之を見つめ
「でも、とうとうママとの約束を破ってしまった…来てしまったよ…祈に会いたくて来てしまった…」
呻くようにしがみ付く祈之を抱きしめどこかで罪を感じ、今なら、もう一緒には居られないんだよと諭し別れを言えるかもしれない…でも思いとは裏腹により一層手に力を込め、胸に顔を埋めしがみ付く祈之の頭に顔を押し付け撫で続けた。
「行こうか…祈と二人で歩いて行こうか…さあ…どこまで行こうか祈の行きたいところまで行くよ…」
祈之を胸の中から離すとコートを脱いで祈之に着せ肩を抱いて頬ずりすると、船に向かって歩き出した。
何処まで行こう、行くとこまで行こう…それは船の行く先だったのか、自分達の行く先だったのか、祈之が自分を求めて止まないのだからの望むようにしてやろう、もう無理して離れる事は無い…そうだ、離れる事は無いんだ、正夫の思いは祈之との覚悟へと変わって行った。
もはや空は真っ赤に燃えるような朱に染まっていた。
そこにいる人々はどの顔もロマンティックで、岸壁に寄り添う恋人たちは、寄り添ってその破滅にも似た西の彼方を見つめた。日没寸前の燃え上がるような夕陽の中に、船は異次元を彷徨うように漂っていた。
祈之は正夫のその大きな胸の中に顔を押し付けると「あ~懐かしい日向と枯れ草の匂いだ…まーちゃんの匂い…」とくぐった声で呟いた。
それは二人が信頼し合い、見つめ合った頃の懐かしい匂いだった。
二人の愛は行く先知れず先の見えないまま走り出していた。
「わあー凄い!真っ赤だ。まーちゃんもっと行こう。夕陽の中まで行ってみようよ」
祈之はその瞳をきらりと輝かせて叫んだ。絶望に打ち沈んでいた祈之が正夫の腕の中で、愛らしさの片鱗を取り戻していた。
夕映えの空に幽玄なる輝きを見せ、艶かしく緋の帯を広げ神の姿にも似て、入日の後光の中を二人の顔を切ない程の朱さに染め、船は突き進んだ。冬の夕暮れは、その悩ましいほどの朱さを引き摺り、紫紺の闇へと早回しの時計のような変幻を見せる。
二人が横須賀線に乗り帰途に着いた時は、陽はとっぷりと暮れていた。
電車の中で祈之は激しくせき込んだ。
正夫は祈之の顔を抱きこみ額に手をやると微かに熱っぽく、
「祈、熱いなあ… 夜熱上げるんじゃないか、風邪薬飲まないと駄目だよ」と案じた。
祈之はそんな事に大した興味を示さず、曖昧に首を振り、
「家に帰りたくない…。何か嫌な事が起きる感じがする…」祈之は何かに怯えるように帰るのを恐れた。
「まーちゃんち、ねえまーちゃんちで二人で暮らそうよ、帰ったら悪い事が起きる」
「今はまだ無理だよ。会えなくなる事なんて無いよ。同じ家の中で暮らしているんだから…ずーっと永遠に祈の側にいるよ。もう離れる事は無いよ、大丈夫だよ、ただ作戦が必要だよ――」
駅に着いても不安げな祈之を
「祈は高校、大学と行くんだろ?」
「学校なんて行かない――」何で今そんなこと言うの?と言うように怪訝な顔で見つめる祈之に、
「いや、行った方が良いんだよ、長い人生を考えてもね、僕はその間にお金を貯めるから、二人の仲を秘密にして時を待とう、大人になるまで待とう…」と説得した。
亜子に知れたらどんな形で二人を引き離すか、正夫もその危惧は充分感じていた。 祈之は正夫の胸に顔を押し付けて暫く無言であった。
「今日、一緒に帰るのは拙いから、一足先に祈は行きな…風邪薬、婆やさんから貰って飲むんだよ」
正夫は祈之に裏口に着いたら外の植え込みにコートとマフラーを置いておくように言い中まで絶対に着て入っちゃ駄目だと言い聞かせた。
祈之は正夫に背中を向けたがすぐに向き直り
「まーちゃん、祈は、祈は何が起きてもまーちゃんと一緒だよ…離れる時は死ぬ時…」正夫が大きく頷くと安堵した表情を浮かべ…「そしたら…」と何か言いかけ、口をむっと結び、正夫を気にして何度も振り向いて、それでも足早に線路沿いの道を歩いて行った。
ホームのベンチで時間を潰した正夫は、二十分ほど祈之に遅れて裏木戸に着くと、約束通り隠すように置いてあるコートとマフラーを手に取り、台所の入り口に顔を出した。
居間で常連の客達の甲高い声が聞こえていた。
「そこにご飯用意してあるよ」婆やは台所と居間を忙しく行き来しながら、盆の上に乗った冷めかかったカレーライスと鳥の唐揚げを指差した。
正夫は盆を持ち、小屋に戻りながら祈之の部屋を見上げると、灯りが点り祈之の影らしい雰囲気が感じられた。
表玄関に近い亜子の部屋にチラッと視線を投げた。亜子は正月を終え、自分の誘惑に乗らない正夫に柳眉逆立てて怒って以来、西麻布のマンションに戻ったまま一度も帰ってきていなかった。亜子が鎌倉にいない限り事は起こらない、しかし祈之との事は誰にも悟られてはならなかった、どんなルートからも亜子の耳には入っては為らなかった。
正夫は暗い電灯の下、うっすらと温もりの残ったカレーを口に運びながら、祈之を思った。
祈之の手を引いて何処まで行けるか…祈之を守り、何を叶えてやれるのか…見えぬ不安に心彷徨わせながら想いはそれを超え、その儚さをじっと抱き締めた。
正夫は汚れた食器を小屋の流しで洗い、母屋の台所に持って行きながら、8時を回る台所の時計を見て二階に上がったままの祈之が気に掛かった。
「坊っちやん、ご飯終わりました?」少し後ろめたくはあったが聞いてみた。
婆やは何の頓着も無く、それより客の用事に追われ
「さっき帰っていらしたけど、ご飯要らないって部屋に行かれたよ」
気も漫ろにビールの栓を開けると、パタパタと忙しげにスリッパの音を立て、居間に運んでいった。
それでは風邪薬も飲んでないなと、食の細い祈之を思いやり、外に出て二、三歩歩き掛けながら、灯りの点いた祈之の部屋を見上げた。
北風に追いやられるように小屋に戻り、ストーブに火をくべ、新たな薪を押し入れてると、人の気配を感じ、戸口を見るとどこかで待っていたのか後ろを気にしながら祈之が音を立てずに入ってきた。
「誰かに見られたら駄目なんだよ…そんな恰好でふらふらして…薬飲んだのか?」
祈之はそのことに返事をせず、板壁を摩りながら二人で過ごした部屋を懐かしげに見回した。
祈之の買ってきた正夫の故郷のポスターがまだ貼ってあるのを確認すると祈之は嬉しそうに振り返り、
「絶対まーちゃんはこれを毎日見てると思ってた…僕たちの絶対消す事の出来ない場所だもの」
そして愛しそうに病院と滝と正夫の家のある山道を指で擦った。
二人はくっ付くようにストーブに手を翳した。正夫は祈之を抱え込むように額に手を当てるとやはり熱かった。
「これ…僕が遣ったんだよね」正夫の手首の甲についた大きなケロイドの傷を指で擦った…。
裏山で危ないからと制止する正夫の手を逃れ、ふざけて木に登り、細い木の枝にぶら下がった。そしてその重さに耐えられず、木がバリッと音を立てると同時に枝と一緒に祈之が落ちてきて、落下する瞬間、正夫は駈け寄り祈之を身体で受け止め、折れた枝の先から祈之を守るように抱え転がって、正夫の手にその枝が突き刺さって、何十針も縫う程の大怪我となった。
祈之が七歳頃の事で、何でも正夫じゃ無くては為らず傷口が塞がらないまま祈之の面倒を見続け、正夫の手の包帯が何度も赤く血に染まっていたのを、祈之は覚えていた。
何度も傷が破け、大きなケロイドの痕になってしまった。
目の上の傷も、祈之を苛める上級生から、祈之を守り戦った傷跡である。祈之は一つ一つ手で擦った…。
「まーちゃん…」祈之は正夫に凭れ
「あの、切り株まだあるかな…あの滝凄かったよね、遠かったね山の奥の奥にあるんだよね…」
母と外出の少なかった祈之は、正夫の故郷で過したあの夏の思い出を掛け替えの無いものとし、事在るごとに話題にし懐かしがった。今もまた、遠い眼差しで二人だけで寄り添うように過した日々を口にした…。
あの頃…祈之だけが全てだった。何にも替えがたく、五感の苦しみを超え、祈之を守る事に何の苦痛も厭わなかった。
それは自分の腹から命分け与えた、無償の愛に似てまさしく母性愛に類似するものだったかも知れない。
「あの時初めてまーちゃんとキスしたんだよね…」
「噛み付いたんだろう」正夫が笑うと
「違うよ…」と祈之は真顔になり
「二人は結婚するって約束したよね…」
「そうだな…」と正夫が頷いた時、カサカサと早足で落ち葉を踏んで近付いて来る足音を聞いた。
「まさちゃん、寝た?ちょっと…」
それは婆やの声で、正夫は慌てて祈之をアコーディオンカーテンの裏に隠すと戸口を開けた。
「奥様が急にお帰りになったんだよ、十四、五人もの人連れて。すまないけど、テーブルのセットするの手伝って!休んでいるとこ悪いね」
「あっ…すぐ行きます」と返事をして戸口を閉めると、母親の帰宅で不安そうに見つめる祈之に、
「何時も祈の側にいるからね、淋しがらないんだよ。心は一緒だよ。僕が出て行ったら、急いで部屋に戻って…」
正夫は行きかけて、足を止めた。畏れ立ち竦む祈之を振り返り、二、三歩戻ると頬を両手で挟んでしっかり口づけた。そして抱きしめ「これ結婚の証…結婚しような…時を待とう…出来るね?祈…」と白い歯を見せた。頷く祈之を残し慌ただしく母屋に向かった。
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