十七話   祈之十五歳の頃 Ⅸ


 亜子は横浜でのパーティーの帰り、その流れで五台タクシーに分乗し、仲間を引き連れ鎌倉の家に帰ってきた。

 その華やかなドレス姿で女優の顔のまま仲間に取り巻かれ、その機嫌の良い顔をあどけなく、幼女のようにしどけなく甘え蕩けるような眼差しで居間のソファーに腰を下ろしていた。

 その眼差しこそ亜子を一線のスターで君臨させ、いまだ数多くの男達との風評を流し続ける才たるもので、その作り笑いも知る者には寒気のするほど不愉快なものであっても、まだまだ効力を発揮し、ハリウッドの肉体女優並に色香を振りまき、光沢のある翡翠色のドレスからは両乳房が飛び出すほど、胸元が抉られ周りの者を圧倒していた。

 正月以来鎌倉に戻るのは初めてで、祈之の事件も事の収拾を人に任せ、その顛末を電話で連絡を受けただけで、まるで他人事の様であった。 が、事態は少し変り、祈之に言い聞かせなくてはいけない事が種々あった。

 気侭な帰還の様であったが、真の目的はそれであった。

 既に亜子の仕事絡みのプロデューサーに芸能界入りを熱心に口説かれ、自分の企画を受け入れる事を条件に、祈之の事を任せる事にしていた。

 鎌倉の家で何度も祈之を見掛けているプロデューサーは祈之のある種、背徳的な妖しい魅力、秘めたるエロティシズムを携えたその少年に大きな関心を持っていた。

 大河ドラマに祈之のデビューすべく大きな企画が進行中で、もちろん亜子に大きな役回りは用意され、母子出演と言う話題性でドラマの企画は始まりそうであった。

 婆やに呼びに行かせてからだいぶ時間が経ち、なかなか下りて来ない祈之を気にするように、酒の支度に忙しい婆やに

「祈之は?」

と再び声を掛けた。

「戸を叩いて声をお掛けしたんですが…」

婆やは二階を窺うように、再び足を運ぼうとすると、祈之が降りてきた。

 戸口に佇む祈之に、亜子は何時に無くしげしげと見つめ、計算高い遣り手婆が遊女の値踏みをするように、眺め回していたが

「いい子にしてた?…」

と声を掛けた。

 母親の期待を充分に備えたその息子は、臆病な愛玩動物のように微かに頷いた。

「これくらいの年齢の子って、唯美的で背徳的で、淫靡で妖しくって堪らないわね。悪魔が人間の形を取るとしたら、こお言う少年に為るような気がするわ。さすが貴方の子ね、魅力的…」

誰かの言葉に笑い返しながら、充分すぎる資質を感じ取り、ちょっと妬ましげに見つめた。

 それでも充分戦力になりそうな祈之の風情に、亜子は思わぬ宝が手中に転がり込んだような、自分の運の強さに北叟笑んだ。

 余り視線を合わせず俯いている祈之が、たまにチラッと亜子の肩越しに視線を投げるのを亜子は見逃さなかった。

「もう、お部屋に戻りなさい」

二階へ戻るように促されると、もう一度亜子の肩越しに視線を投げ俯いて祈之は出て行った。

 姿が消えてから、祈之の視線を辿るように振り向くと、そこには硝子戸一面にテーブルをセットする正夫の姿が映し出されていた。

 亜子は思案するように部屋の中央に目を移し、黙々とテーブルクロスを拡げ椅子を並べて回る正夫を見つめた。


 翌日、亜子は祈之が学校に出かけて行くのと前後して、仲間を引き連れ慌ただしく東京へと戻って行った。

 朝、亜子が東京に戻ると、家の中の緊張した華やかさが煙のように立ち消え、平凡な緩慢とした空気が戻り、滞在の客達も亜子のエネルギーに触発されたように、さて…仕事に戻るか…、と明日からのスケジュール表を思案気に眺めた。

 婆やも、突然の来客達の後片付けに追われていたが、昨夜半の慌ただしさから解放され、何やらのんびりと掃除機を引き回し廊下を巡り、正夫も風呂場のタイルの目地掃除を、椅子に乗ってブラシとホースで洗い上げながら、祈之との昨日からの出来事を茫んやりと取りとめも無く考えていた。

 まったりと流れる空気が、突然脅かされるように何か慌ただしい気配が感じられ、風呂場の戸が開くと、婆やが後を伺いながら小声で

「奥様が戻ってらしたよ…珍しいね」と声を掛けた。

 昨日の疲れを癒そうと、手早く仕事を片付け、そこそこ落ち着きを取り戻した中のご帰還で、婆やは一休みしようとした出鼻を挫かれ、珍しく嫌な顔をした。

 昨夜半、大勢を引きつれ帰って来た事も然る事ながら、芝居の稽古が終盤に差し掛かり、衣装をつけてのリハーサルが始まろうとしている中、奇妙な事でよっぽどの用事の様に思われた。茶を運んで行った婆やが、パタパタとスリッパの音を立て風呂場に再度顔を出し、

「まさちゃん、奥様がお呼びだよ。今、居間にいらっしゃるよ」と、呼びにきた。

 一瞬熱を帯びた亜子の眼差しが浮かんだが、居間と聞いて少し安堵し、濡れた手足を拭うと居間に向かった。いつも亜子に呼ばれると意味無く不吉な前兆を感じ、心臓の鼓動がコト…コトコトと不整脈な音を立てた。不安と緊張を交えて、開け放たれたドアーの前に立った。コートを着たままの亜子はこちらに背を向け、冬枯れた庭先を見つめ佇んでいた。

 突然、脳裏に祈之との結婚の証の口づけが蘇った…。


「お呼びですか…」

正夫の声に亜子は振り向き、それは穏やかな笑顔を湛え

「ドアーを閉めて、こちらにいらっしゃい」と正夫を招き、一通の手紙を指し示した。

 それは見慣れた文字で田中亜子様と記され、裏を返すと差出人は故郷の伯母からであった。

 亜子は、どうぞ、呼んでごらん…、と言うように手で示し頷いた。正夫は季節の挨拶で始まるその手紙を読み出した。亜子への敬意が繰り返し払われ、くどい程の世辞が並んでいた。そしてその手紙は付きましてはと続いた、正夫の父母の墓を建てるに当たって援助の以来であった。 塔婆だけの墓に墓石を置きたいので、少しお助け願いたいとその手紙は稚拙に続いていた。

 正夫が中学を卒業すると、伯母からは、事あるごとに金の無心は続いていた。僅かな金額でも送れと手紙は届いた。正夫の僅かな給料は仕送りへと消えた。何かに託けては金をせびる伯母夫婦の賤しさは、纏わり付くように正夫の人生を食い尽くしてきたが、尚且つ、亜子に縋らなくてはならない現状に溺れるような息苦しさを感じ、正夫はその手紙を握り締め俯いた。

 どう?と、問うように見つめる亜子に

「すいません…。伯母には僕の方から言います。すいません」

「ううん、お墓建てなさい。私が出します、この件は了解しました。それでね、貴方はこれから伯母さんの家に行って、自分の手でお墓を建てる算段をしなさい。お前はもう十八なんだから自分の家のお墓ぐらい自分で遣りなさい。ご両親の事だからね」意外な返事が返ってきた。

「早く、支度をして行きなさい」

「今から…ですか?……良いんですか?…」

「良いわよ。家は婆やがいるから大丈夫。これ、伯母さんへの手紙の返事。持って行って」

 それは分厚い封書で、返事にしては妙に嵩張り、何か大袈裟に思えた。正夫はそれを受け取ると、感謝を述べ居間を出た。

 どんな事情でも殆ど正夫の帰郷に関心を示す事無く、それ故故郷の土を踏む事の無かった正夫に、墓の問題があったにしても、突然の成り行きに正夫は少し戸惑いを感じたが、何よりも今日正夫が家を空ける事に、祈之が動揺をするのではないかと気掛かりだった。遣り残した風呂場の掃除を終え、封書を抱え勝手口に行きかけたが、思い直したように、台所の奥の洗濯部屋の戸を少し開け、中を覗いた。婆やは午後からアイロン掛けやら、繕い物等、この部屋で過ごしている事が多かった。テレビ等置いてあり、菓子缶等も隅に置いてあった。

 しかし今日は、亜子の帰宅のせいか、婆やは部屋には居らず、諦めて行き掛けると、表玄関の方から靴のブラシを持って、廊下を忙しげに遣ってくる婆やの姿が見えた。正夫は周りを窺うように、廊下を通り過ぎる婆やを片隅に呼び寄せた。

「僕これから、両親の墓の事で伯母の家に行かなくては為らなくなったんです。今日ちょっと戻れないと思うんですが…明日、遅くとも明後日には帰りますので、迷惑掛けますがお願いします」婆やは吃驚したように大きく頷いて

「伯母さんの家?…随分急だね。気お付けて行ってお出でよ、今はあの辺りは一番雪が深いんじゃ無いのかい?風邪引かない様にね…。どおせ帰るなら暖かい時がいいのにね」婆やはちょっと、声を潜め、

 「奥様も、直ぐ出掛けるので車呼んでくれって…いったい、何しに帰ってらしたのかね、まさちゃんのその、墓の事かね」

 確かに、公演の初日を数日後に控えた忙しい時に正夫も、ふっと浮かない顔をした。しかし、今日は祈之の事だけが気掛かりで、

「もし、僕の事を聞く人がいたら、明日、遅くとも明後日には帰ると言って下さい」正夫はくどい様に婆やに伝えた。

 婆やは頷きながら“暖かくして行きなよ”と寒さを案じて、行き掛けた廊下をまた、忙しげに歩いて行った。

 墓石を置くのは雪解けを待って先の事になるだろう、漠々と想いながら。それでも母には母に似合いの可憐な花を、父には生前好きだった酒を持っていこうと、久し振りに帰る故郷に思いを馳せた。母の葬式以来始めての故郷であった。

 裏木戸を出るときチラッと祈之の部屋を見上げた。泣き虫の祈之は正夫がいない事で不安がって泣くかも知れない、明日は帰ろう掛け替えの無い祈之の為に “祈、行って来るよ”そのとき正夫の胸に切ない痛みが走り、得も言われぬ不安が過ぎった。

 祈之の部屋の窓は、午後の冬の陽射しに包まれて、硝子に映った小枝の先がカタカタと震えるように微かに揺れた。

  

 祈之は裏木戸を息を切らして潜り抜けると、冬木立の中人の気配の感じられないプレハブ小屋を、荒い息遣いのまま見つめた。今日正夫は帰って来る筈だった。

 二日前、まーちゃん,まーちゃんと切ないほど逸る心を抑え、もどかしい程にその坂道を早足で学校から帰ってきた。急いで鞄を部屋に置くと、何やら香ばしい匂いの流れてくる階下に下りた。台所では、婆やが明日の節分用の豆を乾煎りしている最中で、祈之は婆やの背中に視線を投げ、テーブルに置かれた柊の葉を取り上げながら

「ママは?」と聞いた。

「東京にお戻りですよ」

 婆やは豆の煎り加減に気を取られ、大した興味も示さず答えた。祈之は 一瞬目を輝かせ

「これ、入り口に差すの?僕が遣る」

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