十五話   祈之十五歳の頃 Ⅶ


 外泊を繰り返した祈之もあの事件以来、学校からは定時に戻り、週末も家を空ける事無く過していたが、部屋に引き篭もり、余り姿を見せる事は無かった。

 付属高校の進学は絶望的で、成績も然る事ながら出席日数が規定に届かず、西麻布のマンションで連絡を受けた亜子は、一彦にえらく立腹で、手にするハンカチーフを苛々と握り締めた。

「高い月謝払っても何にも為らない。かえって祈之がおかしくなったじゃない。出席日数が 足りないってどお言う事…?祈之をお預けします、公私共にお願いしますって言ったのよ。 聞いてみても事態を何も把握してないじゃ無いの。祈之が頻繁に学校を休んでいる事すら知らないのよ。要するにお金だけとって放ったらかしていたと言う事よ」

 学校からランクを下げた私立高校を紹介され、亜子はそれも我慢ならず

「あんな三流高校黙っていたって入れるじゃ無いの」と怒り心頭に発していた。

 しかし寄る眉間の皺を慌てて掌で揉み押さえ、口の脇と目尻を指先で擦り、人を魅了せずには置かなかったその美しい小顔を両の掌で大事そうに覆った。容色と色気で演劇界の不動の座に君臨した女優田中亜子にとって、忍び寄る衰えは女優生命の危機説まで噂され、演技力は今一つと酷評され続け、最近興行動員数も競い合う女優等に悉く水をあけられていた。 演技力のある女優等は、其々の得意とする役柄を自分のものにしていたが、色恋物の多かった亜子にとって、役柄転換の難しいポイントに差し掛かっていた。

 田中亜子の主演の企画ものが今一つ盛り上がりに欠け、自分を包むオーラに翳りのさし始めた現実に心穏やか為らず、次々と攻め立てるようにデビューを飾る美しい若手の女優に、その座は脅かされ続け、その苛立ちも重なりエキセントリックに、散々悪態を吐いていたが、そのうち考えを巡らすように押し黙った。

 祈之の未成熟で妖しい魅力に、何人かのプロデューサーから祈之の中学の卒業を待つように、デビューさせないか、預けないかと打診がきていた。

 その中にはまさに今、演劇界を背負った敏腕の演出家からの話もきていた。現在の学校では、芸能界デビューは決して認めず、亜子は祈之のデビューに大した関心を見せなかったが、その高校に行かないと為ると事情は変る。

 少し勢いの失せてきた自分に祈之の存在がもしかすると、いい光を違う方向から当ててくれるのではないかと、フッと考えた。亜子は唇を噛み締め、策略を施すように都会の灯りで薄められた夜空を見上げた。

 そのチカチカと瞬く東京タワーが希望の灯りの様に燃え上がった。


 「早いね、お正月終わったばかりなのに、もう二月だって…」婆やは凍りそうな外の水道口で、玄関先の石畳の補正をする為にセメントと砂利を鏝で捏ねる正夫に声を掛けた。山の上の高台に位置するこの家は一年中風が吹いていた。その日ごと風は気侭であったが、朝干したシーツは昼過ぎにはからりとと乾き、婆やは取り込んだ白い大きな布を抱え小走りに台所口に遣って来て、冷たい水で真っ赤になった正夫の手を見て、感心した様に立ち止まった。

「あんた、しかしよく働くねえ。日曜日だってのに、若いのに感心だよ。ゴム手袋あるよ」

「いや、素手じゃないと旨く出来ないから…」

 正夫は白い歯を見せた。

 屈んで懸命にセメントを捏ねる背中のセーターがせり上がって微かに背中が覗いていた。

「若いんだね…」と婆やは独り言を言って戸の中に姿を消した。


  正夫は玄関前の朽ちた箇所に這いずる様にセメントを埋め込んでいた。ちょうどその位置から祈之の部屋の窓が開いているのが見えた。

 窓に寄り掛るように祈之が立っている。その眼差しはもはや差し伸ばす手すら届かなくなった、遠い過去を見つめる様に茫んやりとしていた。

 正夫は何度かその視線を捕らえたが術も無く、視線を逸らせるように屈みこむと朽ちた隙間にセメントを埋め込んだ。足りなくなったセメントの補充をして玄関先に戻ると、窓は閉められ、カーテンが引かれていた。

 祈之が朽ちる様に様変わりして行くその姿が痛ましく、差し伸べる手を引き寄せ思い切り抱き締めてやりたい、その思いに囚われたが、しかし、ここまで堪えた。もう少し、もう少し眼を瞑っていれば、祈之は自分の道を探し歩き始めると、想いは複雑に交差し巡った。

 正夫は再び屈み込もうとして、ハッとするように手を止めた。瞬間、鏝をその場に置くと勝手口に走った。

「坊ちゃんは?」白菜の漬物樽から上がってきた水を取り除いていた婆やは、正夫のただならぬ様子に吃驚しながら

「い、今お出かけに為ったよ」と眼を丸くした。

「学校の忘れ物取りに行くって…」婆やの声を最後まで聞かず、正夫は身を翻すと全速力で祈之の後を追った、急な坂道を降り、右へと走ったが祈之の姿は見えず、金網の張り巡らした細い砂利道を走り円覚寺の前の踏切から東京行のホームを見ると俯いて佇む祈之の姿が見えた。

 突然、カン、カン、カン…と踏切の警報が鳴った。

 正夫は裏の改札口から走り込みホームの祈之に向かって「祈!」と叫んだ、大きく手を振って又「祈!…行くな!祈!戻れ…」と叫んだ。周りの電車待つ乗客たちが気付いて訝しそうに正夫を見てると祈之が顔を上げて正夫を見た。電車が入ってくる瞬間、正夫は耳に手をかけ電話を掛ける様をして「電話!電話!…電話して!迎えに行くから…何処へでも迎えに行くから!」電車が轟音を響かせてホームに滑り込んできた…正夫は改札口を飛び出して円覚寺前の道を電車と並行して走り、電車の窓越しに祈之を見つけようと走った。が、電車は動き始めると加速を増して走り去っていた。


 正夫は無力感に襲われ、やり掛けの補修を終えセメントを片して、積まれた枯葉の押し詰められたごみ袋を燃やしに山の中に居た。 正夫は燻り続ける枯れ葉に、命与えるように棒切れで隙間を作ると、めらめらと炎が滾った。

 祈之は正夫に気が付いた、視線が合った。声が聞こえただろうか…踏切のけたたましい警戒音、そして最後は電車の爆音に消されてしまった。

 大きくなったら正夫のお嫁さんになると言い続け、その想いの行き所を失い、狂うように哀しみ、彷徨い続ける祈之。

 祈之と離れたのは去年、満々とした桜の木が、そよと吹く風に花びらを散らしている頃だった。又桜の老木は再び蘇ろうと生まれ出るその芽を膨らませ始めている。僅かな命の為に桜の花は又咲くのだろうか。正夫は今まだ落葉し纏うもの無しの枯れ枝を、微かに震わす大木を見上げ、その中に脈々と流れる命を見つめた。

 あれから小一時間が経った。もし、声が聞こえたとしても信頼関係を断った正夫には電話はしてこないだろう…。祈之は何処に行ったんだろう…悪い友達たちに会いはしないだろうか…と、 行かせてしまった事が悔やまれてならず祈之の補導された店に行ってみようかとも思った。

 と、正夫の耳に通りの悪い婆やの声が、遠く微かに聞こえた。

「まさちゃん!電話だよ!」今度ははっきりと、精一杯張り上げる婆やの声が聞こえた。

 正夫は立ち上がると「祈…」こみ上げる思いで燻る薪に水をかけ、逸る心で山を駆け下りた。 

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