十四話   祈之十五歳の頃 Ⅵ


 それは何か切迫した感じがあり戸を開けると、トレーニングウェアーの上にコートを羽織った亜子のマネージャーが立っていた。

 少し母屋を気にして振り返って、身を隠すように部屋に入ってきた。

「祈之君が…警察に捕まった。薬だ、麻薬だよ…。ディスコでふらふらに為っていたって言うんだけどマスコミにばれたら大変だ…亜子の女優生命は終わりだ。困ったよ…とりあえず警察に行く」小声で正夫に告げると、口許に人差し指を立て

「すまんけど…運転頼む…表門の前にいるから」マネージャーはかなり動揺して外を窺うと、足早に木立の中を門の方に歩いて行った。

 棍棒でがーんと一撃された様な衝撃を受け頭の中が真っ白になった。

「まーちゃん…」祈之の呼ぶ声が聞こえた、項垂れるか細い首が正夫の脳裏を過ぎった。 


 警察の遮断された重厚な厚い硝子の表扉には、両脇に交代の見張りの警官が何やら手持ち無沙汰な様子で立っている。マネージャーがその扉の奥に消えてから、一時間程が経過していた。

 正夫は車の中から表扉の中を窺った。


 遠い昔…毎日祈之を待った。

 北鎌倉の駅のホームに電車が滑りこんでくると正夫は一番前の扉を見つめた。ドアーが開いた途端、祈之は小石の様に跳ね飛んで、一番で改札口を飛び出してくる。正夫を見つけると輝くような表情を見せ、嬉しそうに正夫に跳びついてきた。三つ違いのまだ年端も行かない正夫の胸に顔を埋めた。

「まーちゃん、立ってね、本読んだよ」気の弱い祈之は転校当初、席に蹲ったまま誰からの問い掛けにも返事が出来ず、周囲を困惑させていた。 正夫は裏山で拾った白い小石をズボンの裾で何度も擦っては磨き上げ

「これねお守りだよ、これを握り締めると勇気が湧いてきて祈は何でもできるよ」と朝ポケットに滑り込ませた。

 それを握り締めて学校に行った日、国語の教科書を皆の前で起立して読んだと興奮して帰ってきた。

「まーちゃんが一緒にいたからだよ]祈之は上機嫌で顔を輝かせた。

「あれはね、石の神様だよ」正夫が笑うと

「ううん、まーちゃんだよ」と握り締めた掌を広げた。平ぺったなその石にまーちゃんと祈之の幼い字が躍っていた。

 僕には何時もまーちゃんがいると得心し”何時も一緒でしょ…”と繰り返し、問い掛け続けた祈之。小さい時から愛に飢え、人の温もりに飢えた祈之は、不安げに情緒の安定を欠いてる所があった。

 亜子が祈之に関心を示し、毅然と状況を処理したのは、祈之の為にならないと助言を受けて、正夫を遠ざけたあの時だけだった。

 もともと子供に興味を持たない亜子は、一彦に祈之を預けると又何の関心も示さなくなった。

 多額な手当てで始め熱心に通ってきた一彦も、余りなつかない、無口で扱いずらい祈之に関心も薄れ,魅力は多額な報酬だけと言う関係に陥り、尋ねてくる回数も極端に減り、勉強の指導も形だけとなり相変わらず高校進学は難しい状況にあった。

「船に乗りたい…」とマリーナから連絡をよこしたあの日…。

 追い縋る祈之の手を跳ね除けてしまった。

 あの日祈之は帰って来なかった…あの日から祈之の外泊が始まった。

 

 正面玄関の扉の向こうに何度も頭を下げるマネージャーの姿が見えた。腰を折るように挨拶を繰り返している。暫くすると、マネージャーに腕を取られた祈之が出てきた。力の無い空ろな眼差しで、霞んでしまいそうなその啾々たる様を正夫は見つめた。

 眩しげに刺すような朝日を避けるように顔を傾げた祈之が運転席にいる正夫の姿を捉えた。凍りついたように祈之は動かなくなった。

 マネージャーに腕を取られてもなかなか動こうとはせず、正夫の見つめる眼差しに祈之は弱々しく視線を伏せると、観念したようにマネージャーに引っ張られるまま後部座席に乗り込んできた。

 マネージャーは肩の荷を下ろした様に、先程の重苦しさとは打って変わって晴れやかに、表玄関に立つ見張りの警官にも車の中から頭を下げ、車が走り出し警察の建物が視界から消えると、

「良かった、良かった、亜子さんが知り合いに手を回して無かった事にしてもらった。麻薬は出なかった。良かったよ、ホッとしたよ…睡眠薬飲み過ぎたらしい、それに未成年だし初犯だからね、無罪放免だ…」

大事にならずに済んで、それはまるで燥ゃぐ様に雄弁に正夫に話しかけた。ミラー越しに祈之を見ると臆するように見つめる祈之の視線とぶつかった。

 家に着くまで二人の視線は何度もぶつかり合った。

「年長の悪餓鬼と一緒にいたらしいよ、周りの悪餓鬼が田中亜子の息子だと言っていろいろ連れまわし利用されたらしい…わかると皆寄って来るらしいよ…悪い友達はすぐできる…だから…気をつけなくちゃ駄目ですよ…何処で知り合ったの?もう会っちゃ駄目ですよ…判りましたね、大変な事なんですよ。今回は学校への連絡もストップして貰いましたけど、本当は鑑別所行きですよ。お母さんに感謝しなくては、今度こんな事があったら、お母さんが大変な事になるんですよ。まだ子供で解らないかも知れないけれど、大変な事なんだよ。お母さんは世間から抹殺されてしまうんだから…」

 マネージャーはお母さん、お母さんと連発し、祈之に言い聞かせた。

 亜子が傷つかぬようそればかりが気掛かりの様であった。

 家の裏木戸の前に車を横付けすると、正夫は前を見たまま二人が降りるのを待った。乗る時になかなか乗りたがらなかった祈之が、降りるときには愚図々々と降りたがらず、正夫の座席の背にしがみ付く様に顔を押し当てた。

「祈之君早く、皆が気付いちゃうし…後から車が来るよ」

 マネージャーに催促されると顔をあげ、引き摺り出される様に降りる祈之を、正夫はサイドミラーで見つめた。弱々しく窺い見る祈之を無視するように横顔を見せたまま、駐車場へと滑り込ませた。駐車場から出てくると、マネージャーに腕を取られて家に向かう祈之が見えた。

 それは肩を窄め押し潰されそうな祈之の姿だった。

 正夫は佇み暫く見つめていたが、遅くなってしまった仕事に掛かる為、裏山へと歩いて行った。


 居間では昨日深酔いした記者達が、頭を叩きながら遅い朝食を取っている最中で、姿を現したマネージャーに

「東京に行ったんじゃ無いの。何か臭うね…亜子さんの彼氏の情報でも少し流してよ、今週頭に来るモノが無いのよ」女性雑誌の男性記者が女言葉で大した期待もせず声を掛けた。

「今俺、三角関係で揉めてるの、俺じゃ駄目?」

「誰が買うのよ。あんたの親戚だけじゃ駄目よ」皆吹き出す様に笑うと

「あっそう、駄目ね。駄目か…」マネージャーの惚けた笑い声が居間中に響き渡った。


 空は切ないほどに晴れ渡り、空っ風が吹き、正夫はふっと深い雪に埋もれた故郷を思った。

 祈之と行ったあの滝も、今頃は凍り付いているか。祈大好き、まーちゃん大好き…と書いた切り株を思い出していた。あの頃の祈之はよく笑い、その笑顔輝かせていた。

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