十三話 祈之十五歳の頃 Ⅴ
この正月もその輝く美貌に少し翳りを見せ、勢いの薄れを感じさせ始めた亜子が、巻き返しを図るように何時もよりは一段と華やかに、スタッフ仲間を集めてドンちゃん騒ぎを三日三晩繰り広げた。
そのカリスマ的な美貌で君臨し続ける亜子を支え続けるチームスタッフ達は、亜子が年を取る事を許さない。傾ぐ頭を引き摺り上げても踊らせる人間達である。田中亜子と言う女優の存在で何百人の人間が養われてると言われ、集まった仲間は、亜子が健在である事を願って止まない。
しかし力失せた途端さっさと寝返っていくのも、この連中である事を亜子は知っていた。正夫は、馬鹿馬鹿しい程の狂乱と騒々しさの中、居間の隅に佇む祈之を何度か見かけた。
その様は暗く絶望的な眼差しで、祈之と始めて会った三歳の頃を思い出させた。
三が日を終え大方の客が帰り、亜子を囲む数人のスタッフが残っていた。
正夫の新年早々の仕事は大勢の客達に踏み荒らされた玄関口の掃除だった。
植木の傷みを屈んで手入れしている背中に[正夫…」と突然呼び掛けられた。その声の方向を見上げると亜子が揶揄する様な眼差しで自分の部屋の窓から手を出し、ちょっとお出でと微かな合図をした。正夫はちょっと頭を下げると気付かぬ様に再び屈み込んだ。
「正夫、ちょっといらっしゃい!」今度ははっきりと声が掛かり、ぴしゃりと窓の閉まる音がした。
正夫はその視線にうんざりと閉口する様な表情を浮かべ、泥のついた軍手を外しながら俯き加減に裏口へ向かった。亜子の構うような誑かしに、どんな風に拒絶して良いのかその対応すら判らない正夫はまだ十八の少年だった。亜子はソファーに腰を下ろし足を組んで座っていた。
「戸を閉めて…足を少し揉んでくれる…」亜子は指図する様に正夫を自分の元に呼び寄せた。正夫はひざまづくと足の裏から踵を揉み出した。
「ふくらはぎの方も…」亜子は足を前に突き出し、正夫を見つめるその眼差しは、楽しんでいる様な、焦れている様な妖しい表情で見つめ続ける。正夫は伏目がちに黙々と揉み続ける。
「正夫の手は大きくて、暖かくて…気持ち良いわ…もっと上…」正夫の手が内腿まで揉み上げてくると、スカートをすっと上げ
「もっと…上…」妖しく瞳をきらりと光らせた。正夫は俯き黙ったまま手を止めた。
「どうしたの?…もっと上よ…正夫…」亜子は正夫の手を取ると胸に引き寄せた…正夫は態勢を崩し、亜子に覆い被さるようにソファーに手を着いた。亜子はTシャツの上から正夫の胸の筋肉をなぞらえる様に撫で上げ
「悪い様にはしないわよ…必ず私に感謝する様になるわよ…」と囁き、その胸に顔を寄せた…。
困惑する正夫を覗き込む様にその頭を抱き込むと、唇を押し付け、正夫の舌に舌を絡ませてきた。正夫は堪えていた力が爆発する様に亜子を突き放した。亜子はソファーに仰向けに倒れ、正夫は床に転がった。
「それが…それがあんたの母親を十年面倒を見た…私への返事?」一瞬柳眉を逆立て気色ばんだが、すぐに演技する様な魅惑的な表情を浮かべて、這うように圧し掛かってきた。
「可愛くて堪らないの…よ…」正夫は暫くその抱擁を眼を瞑り堪えていた…。母の面倒を見てくれた人、それは正夫が生涯背負うものだと思っていた…が、正夫はその絡みつく手から口から…堪えられず逃れると立ち上がり
「…すみません…」と項垂れ、入り口のドアーに向かった。
逃げるように出て行く正夫を亜子は冷静に見つめ、指を口元に当て、そして意地の悪そうにその視線を細めた。
その後、亜子は正月をともに過ごした残留スタッフを連れて西麻布のマンションへ戻って行った。
その夜亜子への義理と誘惑に悩まされなかなか眠れず、もうこの家を出て行こうかと何度か思ったが、祈之への気がかりが決心を挫いた。
正月が開けて又、外泊の始まった。
一彦が面倒を見てるとも思えなかった。
じゃあ何してるんだろう、皆目見当のつかなくなった祈之を案じた。
その電話は静かな眠りの中、突然襲い掛かるように様に鳴り響いた。
たまたま便所にたった亜子のマネージャーが、昨晩亜子シンパの雑誌記者等と飲み明かし、まだ酔いの抜けきらない頼り無い足運びでその寒さに武者震いをしながら薄暗い階段へと足を向けた時、その電話は鳴った。
「えーっと、六本木警察ですが、田中祈之君の保護者の方お願い出来ますか」
東北訛りのある野太い声が飛び込んできた。
「…警察?…」
腕の時計は朝方の四時を指し示してる、何か事故にでも巻き込まれたかと、声を詰まらせるように慌てて尋ねた。
「何か…ありましたか!」
「保護者の方ですか?」
「母親は…ちょっと…あの今ここに…あの仕事で…今日ここに居ないんですが、何か事故でも…」
「そうですか、保護者不在ね…」
「何ですか…どうしたんですか?」
「失礼ですが…貴方は、どなたですか?」
東北訛りの警官は、ちょっと思案する様に尋ねた。
「身内…です。祈之君何かありましたか」
「お身内ですよね?」再び確かめると
「今日ディスコで麻薬捜索が行われたんですがぁ…その検挙者の中に未成年の祈之君が含まれていたんですわ…ふらついてるとこを保護しましたので、覚醒剤使用の疑いもありますので、保護者の方に来て頂きたいんです。麻薬と為りますと、事は少し重大になるんですよぉ…。したがってですねぇ、保護者の方にも少し話を伺いたいのでいらして頂きたい、お母さんに何とか連絡取れませんかね?…」
東北訛りの警官は言葉は穏やかであったが威圧的に言った。
マネージャーは酔いはすっかり覚め“まさか…”年齢よりもまだ幼さを残した祈之を思った。
「麻薬?…」マネージャーは呟くように問い返した…。
「…あんな子供が?…中学生ですよ…まだ」何かの間違いでは無いかと暫し呆然とした。
徐々に事の重大さを認識し始め、田中亜子の女優生命を思った。
亜子は正月恒例の仲間たちを呼んで、三が日ぶっ通しのパーティーを鎌倉の家で開き、佳境に入った舞台稽古の為、昨晩事務所を兼ねた西麻布のマンションに戻ったばかりだった。
マネージャーは二階に酔いつぶれて寝ている雑誌記者等に気付かれぬ様に玄関先から台所に移動すると、台所の内線電話から廊下の様子を窺いながら亜子に連絡を取った。付き人から受話器を受けた眠そうな亜子の声が、眠りを妨げられた不機嫌な声で
「…一彦さんに連絡してよ、あの人に祈之の事は任せてあるんだから…まったく…高い お金を払って…教育係として雇っているのよ、祈之が何かしたらあの人の責任よ…」無責任な事を言い
「…保護者って…私?」亜子は面倒臭そうな声を出した。
「亜子と連絡とれないって…あなた行って来てよ…引き取るのに印鑑要るの?」事態を余り把握してない亜子は、郵便局に荷物でも引き取りに行くかの様に事の顛末を押し付けると早々に電話を切ってしまった。
まだ酒のたっぷりと残ったその息を自分の手で覆って嗅いで見たが、自動車の運転は無理に思った。タクシーを呼んでるうちに二階の客たちに気付かれそうで、それも躊躇された。
浅い眠りから引き戻されるように、微かな気配で目が覚めた…。
その気配は現実の音となって、トン…トントントン…と微かに繰り返し戸を叩く音がした。
「正夫君…」囁くような聞き覚えのある声がした。
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