十一話   祈之十五歳の頃 Ⅲ

 十八歳になると正夫は亜子に言い付けられて自動車と小型船舶の免許を取った。

 それは、これから亜子の仕事での使い走りや、仲間との舟遊び等の亜子の都合上での事であったが、これからの正夫の雇用を保障された様なもので、祈之の生涯を守れる権利の証のようなものとして新たな面持ちで取得に励んだ筈だった。

 しかし、祈之との縁の絶たれた今、深海に取り残された様な深い孤独感と、自分の存在の意義さえ見失い、この家を出ようかと、漠々と考える様になった。

 しかし祈之と口を聞くなとは言われたが、やめろとは言われず、母の事、免許取得に掛かった費用を思うと、亜子の恩義を推し量り軽く職を辞してこの家を出る事も憚られた。


 その日正夫は庭師の手伝いで、木の植え替えを手伝っていた。

 夏の太陽は容赦なく降り注ぎ、昼下がりの照り付ける陽射しに吹き出る汗も、ものともせず上半身裸になり肩にキルティングされた布のパットを当てて、重そうな枝を何往復も運んでいた。

「少し休むか…」庭師は日陰を選んで腰を下ろした。

 正夫は首に巻いたタオルで汗を拭き、力仕事で逞しく息づく筋肉を惜しげもなく陽に晒し、無駄な脂肪の無い美しい褐色の肌はてかてかと健康な汗に輝いていた。


「美味しそう…あの子…」思わず女優仲間の一人が呟いた。

 リビングからその植え替えの作業を見つめていた亜子達は、詰めていた息が漏れる様に忍び笑いに変った。

「祈之の子守りをしていた子でしょ?…随分セクシーに為ったわね…男優でもあの色気はなかなか出ないわよ…あの子幾つ?」

「十八…」迷う事無く亜子が答えた。

「あら…自分の息子の年を知らない人が、あの子の年は知ってるの?」揶揄する様に亜子を見つめた。

「…馬鹿ね…この間、車と船の免許取ったばかりなのよ…いっぱいお金払わされたから覚えているのよ…」亜子は一笑に付した。

「あの子…童貞かしら?」

「当たり前でしょ、女の子に現を抜かす暇もお金も無いわよ」

「…堪らないわね…私にあの子頂戴よ」

「駄目よ…あの子にはまだ働いて貰わなくては…十年あの子の母親の面倒見たのよ、免許のお金だって馬鹿にならないわよ…それより彼はどうしたのよ」その女優が小遣いを与えている若手の男優に話を移した。皆の会話が共演したアイドルや若手俳優の下半身スキャンダルに及び、もっと際どい噂話に皆の関心が集まると、亜子はその会話から外れ、又作業を始めた正夫を見つめた。            


 午前中祈之の出かけていく足音を聞いた。

 表玄関の大層な硝子張りのエントランスは、毎日婆やが磨きを掛け、正面に掲げられた日本画も美術骨董の値段が付けられないと言う代物で、幼い頃から祈之も正夫も玄関ホールにあまり近付く事が無かった。裏木戸から裏玄関を利用する事が殆どで、来客も馴れた者は表門を空けさせる面倒を嫌い、比較的簡単に鍵の開く裏木戸を利用する者が多かった。正夫の小屋からその足音は良く聞こえ、大体誰かは見当がついた。特に祈之の足音はどんなに微かであっても直ぐに判った。少し引きずる様なその足音は、正夫が昼飯に小屋に戻った十二時ごろ裏木戸を出て行った。亜子はこの夏休みの間祈之をほぼ一彦に預けていた。


 正夫は、先週末関東地方を襲った豪雨の余波で唸ねりを上げて猛り狂った樹木の手入れと落ち葉の始末に追われた。

 ビニールの袋に枯れ葉を詰める手を休め、遠くを見上げるように、青々と無限に抜けた空を風に吹かれ流れ行く雲を見つめた。

 それは孤独で、しかし自由で柵も執着も無く、相手任せに形を変えて気侭な一人旅の様で、妙に羨ましく茫んやりと眺めていた。

「まさちゃん…電話だよ!…」と木立の向こうから、通りの悪い、精一杯大きな声で婆やの呼ぶ声が聞こえた。

「電話?…」

 正夫に電話の掛かる事は滅多に無かったが、用事を作ってはかけてくる楽器店の店員を思った

 台所に回された受話器を取ると

「もしもし…」と耳にあてた。

 相手は臆したように無言であった。

「…もしもし」もう一度呼びかけた。

 背後の音は聞こえた…正夫は視線を上げると一点を凝視した。

 奇妙な間が空き、暫くして「もしもし…」と再び呼びかけた。

 正夫は固まった様に受話器を耳から離す事が出来なかった。

 突然、「まーちゃん…」と祈之の声が漏れた。

「マリーナ…にいるの…」

「……」

 正夫は胸に刺さるようにその声を聞いた。

「船…乗せて」

「……」

「一回りだけで良いから…」

「……」

 それは正夫を求めて止まない祈之の数ヶ月思い悩んだ末、やっとの思いで掛けてきた電話のように思われた。

 

「…まーちゃん…」

「…船?…」正夫はやっと口を開いた

「…うん…」

「そこで待ってて下さい」 と電話を切った。

 それぐらい良いじゃないかと魔が射した。

 自分は使用人で彼は主人なのだ、使用人として主人の使いをするのだ、良いじゃないか。上着を掴むとその足で出掛けた。

 電車に乗ると入り口に立ち、ポケットの中のキーホルダーを握り締めた。

 亜子の気侭な性格で言いつけられた時、直ぐに用を足せる様に、船も車も合鍵は持っていた。

 “行ってどうなる…何のために今まで…” 

正夫の理性が呼び戻す…しかし、足はマリーナに向かっていた。

 小坪の停留所でバスを降りると勢い付いていた足が速度を緩め、迷いだした。

 そして暫く佇み、じっと考え、やがて足は方向を変え、亜子が船で釣りをして遊ぶ時、いろいろな面倒を見てくれる釣り舟屋に行った。

 中を覗くと、そこの息子の大きな背中が見えた。

 急に用事が出来たと事情を説明をして「一回りだけしてやって欲しい」と頼むと、人の良さそうなその巨体を揺すり快く引き受けてくれた。

 船の鍵を渡しながら、鍵は預かって置いて欲しいと言い添えて家に戻った。

 祈之がどれ程の想いで電話を掛けて来たかと思うと胸が痛んだ。

 あの海原に出て風に吹かれれば何か吹っ切れて、結構清々と帰って来るかも知れないとも思った。

 しかしその夜、祈之は帰って来なかった…。

 正夫は台所に夕飯の盆を片し、汚れた皿を洗いながら窓硝子に映る居間の様子を垣間見た。

 それは庭に面した一枚硝子が映し出す華やいだ光景で、黄色い暖かな光が満ち溢れ、大勢の仲間達と酒宴を囲む燥いだ亜子の姿が見えたが、その横に祈之の姿は無かった。

 釣り船屋の息子に祈之を頼んで半日が経とうとしていた。

 まだ船に乗っているとも思えず、 正夫は浮かない気持ちで小屋に戻った。

 かさっと枯れ葉の舞う音にも耳をそばだてたが、十二時を回ってもあの引きずる様な足音は聞こえず、思い迷って釣り舟やに電話を入れに外に出た。

 少し酒の入った息子が電話口で

「行ったけど、坊ちゃんやはり今日はいいって乗らないで帰ったよ」と返事が返ってきた。

 亜子は大勢の仲間に囲まれて機嫌よく寝てしまい、人知れず、正夫はその夜、浅い眠りから何度も目が覚めた…。 

 祈之が家を空けたのはその日が始めての事だった。

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