十話    祈之十五歳の頃 Ⅱ

 その夜正夫は訳の解らない嘔吐を覚え、浅い眠りの中、菩薩のような母の顔が現れ慈愛に満ちた顔で「正夫…」と手を差し伸べた…手に掴ろうとすると母は消え、一人残されたそこは、何も見えない深海であった。


 翌朝、学校に行く支度を終えた祈之が、後を気にしながら裏山を駆け上がってくるのが見えた。正夫は思わず物陰に身を隠した。

「まーちゃん」息を切らし、周りを気にしながら声を潜めて呼び続ける。その様子は徐々に不安の色を浮かべ憔悴したように肩を落とし、時間を気にするように裏山を下りていった。

 暫くするとしょんぼりと門を出て行く祈之の弱々しい小さな肩が見え、曲がり角で振り返り正夫の姿を捜しているのが見えた。花びえて寒々しく祈之の華奢な体が震えている様であった。裏庭に深々く根を張る桜の老木が吹く風に枝を揺らし、むせ返るように花びらを舞い上がらせていた。

 次の公演までの静養に当てて鎌倉でのんびりと過す亜子は祈之を殆ど軟禁状態に置き、正夫との接点は絶たれていた。

 まして、祈之の登校時間の過ぎるまで正夫は祈之の想像も及ばない場所に仕事を選んでは祈之を避け続けたし、学校から帰って来ると完全に亜子の手の中に捕らえられていた。

 何日かの夜が過ぎ、明け方微かに戸を叩く音で目が覚めた…それが祈之だと直ぐに判った。正夫はジーッと息を潜め枕元にある時計を見た。まだ朝が明けるまでに間があり外は青みがかった闇だった。

 深夜を待つように正夫のベットに潜り込み二人で顔を寄せ合って寝ていたのはついこの間の事だった。祈之のシルエットが窺えるほど闇が緩みだすと祈之は消えていた…。

 朝方の白濁色の淡い闇の中で仰向いて、追うように求め続ける祈之をじっと思った。

 出会った時からつい数日前まで二人だけで生きてきた。社会の風圧から守る事、それが与えられた使命だと思ってきたが、正夫にとってそれが生きる意味の全てにもなっていた。でも今は祈之を広い世界へ送り出さねば為らない…背中を前へ押してやら無ければ為らない。二人だけの閉鎖された世界から、祈之は輝ける未来へと飛び立たせなくては為らない。

 十五歳の少年にしては華奢で何処か儚く、その未熟さゆえに倒錯的な性の香りを漂わせて、見つめる一途な眼差しを思った。

「祈、さよなら。幸せになるんだよ…」正夫は声に出して…守り続けた祈之に別れを告げた。それは哀しい我が身を削り落とすような無力な自分に対する諦めであった。

 祈之が去ってから1時間ほど経っていた、戸口を開けると祈之がいるんじゃないかと窺い、立ち去ったのを確かめると、目覚めの悪い茫やりとした頭で、何時もよりはだいぶ早く水道口で顔を洗った。

 東の空いっぱいに生まれたばかりの光が、その清浄なる激しさを秘め帯状に明暗の縞模様を拡げていた。冷たい水に顔を浸し、何かを振り切るようにパパンと顔を叩いてタオルを首に巻くと、勝手口に出されたゴミ袋を数個手にぶら下げに裏山向かった。つい数日前まで七時頃、そのゴミを燃やすために裏山へ向かった。そして大きく掘り返された穴の中にゴミを投げ入れ、火が丁度燻りだす頃、さっきベッドから抜け出していった祈之が学校の支度をして遣って来る。寝起きの腫れぼったい顔が正夫を見つけると、表情は無垢な輝きを放ち、雑木の中を駆け上ってきた。

 山の上から何度も振り返る祈之を見送り、一日の仕事が始まった。

 しかし今はそれよりだいぶ早い時間に裏山に上り、七時にはゴミを燃やし終わり、仕事場所を変え、祈之の出掛けて行くのを待たねば為らない。 自分の危うい心にも冷徹な杭を打ち込まねば為らない…今どうしても祈之に会っては為らなかった。

 裏山へ上ってくると正夫はゴミを穴の中に投げ入れた。と、妙な気配を背後に感じ振り向くと、枯れ草の上に裸足で蹲る祈之が「こんなに早く来るんだ…」と、明らかに正夫が自分を避けている事を知り愕然と見つめた。

 母屋に戻ったと思った祈之は、明るくなるにつれ誰かに見つかるのを恐れ、必ず正夫が遣って来るこの場所に身を潜めていたらしく、だいぶ彷徨ったのか足は土で汚れていた。

 正夫は無言のまま顔を戻すと持ってきたバーナーで火を放った。

「何で…何で?」

 掠れた祈之の声が信じてた正夫の裏切りを責め立てる様に呻いた。

 正夫は黙ったままブスブスと燻る様に燃える火を見つめた。祈之は自分を無視する正夫に「まーちゃん!ママなんかに負けないで…」と悲痛な声を上げて背後からしがみ付いた。

 正夫は振り向きながら祈之を離そうとするが、祈之はなお一層しがみ付き目茶目茶に揺すった。勢いで踏ん張る祈之の足が穴の中に滑り込み、正夫が瞬間抱き上げた。その重みを瞬間抱きしめ「危ないじゃないか!」しがみ付く祈之の背中に手を当てた。華奢な体が痛ましく、この一週間の得も言われぬ焦燥が、なお一層祈之を儚く変えていた。細い首が正夫の決心を挫きそうに為ったが、祈之の背中を二、三度叩くと祈之を離した。祈之は手が赤く充血するほど正夫のシャツを離さず、正夫は首に巻いたタオルで祈之の足を拭くと自分の脱いだスニーカーを履かせ、祈之を強引に引っ張って山を下りた。

 引き摺られるように裏山を下りながら、祈之は「ママのいつもの手段だろ…負けないでよ…まーちゃんと祈…何か変った?…」狼狽えて絶対離れようとしない祈之に曖昧な態度で口を閉ざし「早く…早く支度しないと、学校に遅れますよ…」と、背中を押した。

 祈之は自分に無表情に敬語を使う正夫を驚いて見つめた…。


 その夜、まだ亜子達の宴席が続いている時、戸が鳴った。祈之であることは直ぐにわかった。

「まーちゃん…開けて、聞きたいことがある…」事態の変化が飲み込めず、必死に祈之は遣って来たのだ。戸口を揺らすその声は震えるように掠れた。

 部屋の明かりは点いていたし、祈之から正夫のシルエットが窺えていただろう。

 戸の揺れ方が激しくなった…正夫は動かずに宙を睨んでいたが、亜子に気付かれるんではないかと立ち上がり戸口に歩き掛けると、叱咤する様な声が聞こえ、枯草を踏み荒らす幾つかの足音が聞こえ、暴れる祈之を連れ去る音と叫ぶ声が聞こえた。 


 その日以来、祈之が正夫を追い求める事は無くなった。敷地内で出会いそうに為っても正夫は意識的に無視し続けたし、祈之もその絶望の中顔を上げることは無かった。正夫は朝6時頃から日暮れまで、黙々と仕事に打ち込み、その毎日は変る事無く過ぎていった。 

 両親との縁も薄く何時も一人だった自分を思い、何故この世に生まれてきたんだろう…何故ここに存在するんだろうと自問を重ね、その虚しさは一層無口になり、その虚無感は壮絶なほどの孤独を漂わせる様になっていた。

              

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