第2話

「あの、すみません」

「!」


 ハッと我に返る。

周りの様子を横目に窺っていた所に、まさか。まさかだ。



(ああ、何て愛らしい赤色のチューリップ…)



 彼女が僕の目の前にいる。


「この、ワゴンの本…お借りする事は出来ますか?」

「ぇ? ……ぁ、ええ、はい。構いませんよ、どの本をご希望でしょうか?」


 書架に戻しきる前の本の山。

彼女が細い指で指すのは、フランツ・カフカの作品。


(【審判】……そう言えば、以前には【変身】を読んでいたな)


「コチラですね?」

「はい。お手数かけます」


 積まれた本をどかし、1冊を手渡すと、彼女は小さく頭を垂れ、窓辺にある いつもの席に腰かける。


(不覚にも緊張させられた……)


 僕は彼女の言葉が好きです。


(審判……サラッと読んだ程度だが、カフカの死後に公刊された物だ。

1人の男が処刑されるまでの虚しいストーリーは所々断片的で、未完成とも言われている。

読み物としては難解な作品だ)


 彼女が手に取る本にはバラつきがある。

カフカのような繊細な作家の作品であったり、哲学書や古代文明・考古学の文献であったり、時には遺伝子や脳科学と生物学的な物であったり。


 そんな本達が多岐に渡って彼女に働きかけた所為か、僕には彼女の言葉が奥深く聞こえます。

僕が知り、関わって来た女性達と比べてに留まりますが、彼女は多くを口にしない。

実に、一言二言。

その簡略された言葉の全てが的を射ているから、意味が深まるのだと思います。


(お手数かけます、か)


 ソレっぽっちの事です。

けれど、ソレっぽっちの一言がすんなり口付く彼女の神経を敬愛してしまうんです。

何故って、僕は仕事をしているだけですよ?

一言があろうが無かろうが、業務内容に変更はありません。

あるとすれば、気持ちでしょうか。

些細な労力が認められた……そんな ささやかな満足感。

彼女は、そんな感情を僕に齎してくれるのです。


(あの本を読んで彼女は何を思うのか……許される事なら感想を聞いてみたいものだ)



 許されませんから。



 さて、冴えない1人ツッコミもしましたし、業務を続行するとしましょう。

書架に戻さなくてはならない本は、このワゴン1つきりでは無いのですから。

閉館までに戻しきらないと、お局様に纏わりつかれる理由を与えてしまいます。


「アラぁ快晴クーン、返本へんぽんだけで随分時間がかかったわねぇ、珍しい」

「乱れ直しも済ませて着ましたよ、倉田サン」

「やっぱり快晴クンは気が回るわねぇ、快晴クンみたいに出来た若い子は中々いないわよぉ?

そぉだぁ、終わったらゴハンでも食べに行きましょうよ、ね?」


 当館のお局・倉田サンからのお誘い。


(うわぁ。やっぱり来たか……)


 倉田サンはココには長く勤めている司書で、主任すらも一目置かずにはいられない女性です。

平たく言えば気が強い。…と言えば、まだ聞こえが良いかも知れませんね。

どちらかと言うと、自信過剰の粘着質で上から目線。

その辺が、他司書からの反感を買っている現状です。

残念な事に、僕は下の名前で呼ばれる程この方に気に入られているようで、何かに付けてアフターに誘われます。


(困ったな……)


 厄介なのは、歴が長いだけあって倉田サンは仕事が出来る。

まだまだ半人前な僕からすれば、今後もアレコレ教えて貰わなければならない。

邪険にして関係を損ねるのは如何なものか……

そうこう考えている間に、倉田サンはアフターに利用するレストランを検索し始めました。

返答に困っている僕の反応を、是と判断したようです。


(急遽、冠婚葬祭でも入らなければ断れそうにないなぁ)


 同僚を見れば僕に黙祷を捧げている。

この様子では助け舟にも期待できませんね。


(仕方ない。今日は雨居サンと会えたし、上々の1日だった。

等価交換のつもりで倉田サンに付き合うとしよう)


 僕が覚悟を決めた所で、閉館30分前を知らせるアナウンスが流れる。

ボチボチ閉館準備をしなくては。

僕は倉田サンから一時避難する勢いで踵を返し、ゴミ箱のゴミを纏める。

利用客の皆様には退室までを充分に過ごして頂きたいので、静かに静かに。

そして、差し障りのない辺りの窓からカーテンを閉める。

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