第2話 残像
鮮やかな音色を奏でながら淡々と降り続く白雨を、街の掃き溜めと呼ばれているこの辺鄙な場所に佇み、1人座り込んでいた僕はただ、茫然とその光景を眺めていた。
襟垢にまみれた開襟シャツが雨水を吸い込みきれず水滴が、首からゆっくりと腰元を伝って流れ落ちてゆく。
僕の邪な感情さえも一緒に流れ落ちてゆけばいいのに────と叶わぬ願いを呟いてみるが、その弱々しく小さな声は降り続ける雨の音が有耶無耶にかき消していった。
その後僕は、ただその場に座り込んだまま一昼夜雨に打たれ続けていた。
妙に虚ろな意識を支えながら、俯いたままで全てが終わるその時を、じっと待ち続けた。
断続的に覚醒する頭の中に、捕獲された意地汚い野良犬のような狂おしい叫び声が鳴り響いてくる。
全くもって狂気じみているではないか。
この世界はまったく狂気じみている。
気遣わしげな瞳を薄らと開けて遠くの方へ目を見やると、対面方向から煩雑とした商店街をすり抜けて来るひとつの人影が目視できた。
その人影は、一拍一拍を積み重ねる度に僕の元へと近ずいてくる。
瞬きの一瞬でさえ、「それ」にとっては数分間の事柄の如くグッとこちらへと近ずいてくる。
鬱蒼と繁る人並みの中にいても、まるで「それ」だけ直感的に判別してしまうかのようにヌメリと浮かび上がって見えた。
近ずいてくる「それ」から吸い寄せられているかのように僕は視線を外すことが出来ないでいた。
「それ」は左手に破れた赤い傘を持ち、寸詰まりの黒いツナギを着込んでいる。
足に受けた古傷でも痛むのか、ほんの気持ちばかりびっこを引いて歩いているが、端然とした様子でキビキビと歩いてくる。
ふと、「それ」が僕の前まで来た時に足を止めて、じぃっと僕の顔を正面から見下ろしてきた。
「それ」の僅かに開いたままおかれている口元からは、鼻につく独特な煙草の残り香と道端に吐き捨てられていた嘔吐物のような匂いがした。
近くで見ると「それ」は、空虚な偶像のように一片の光も纏っておらず精巧な作り物か街頭の隅に佇む影をまとめあげたかのような印象を受けた。
「それ」は僕に1度頷いてからニタリと笑い、斜向かいに立つ客引きの男を指差して示して言った。
『烙印を背負った者だ』
僕には何を言っているのか皆目検討もつかなかったが、ただ何となく「それ」の言うことに同調するように頷いた。
その言葉の意味を理解し得る次の言葉があるのではないかと、僅かに期待して「それ」を見上げてみるがそれ以上の言葉が発せられることは無かった。
僕はふと考えを巡らせてみたが、常識的に考えてみても烙印という言葉に馴染みが薄すぎる。
次に、示された男の行動や身なりを詳細に観察してみる。
男は、何事かを必死に懇願するように訴えているのだが、酷く滑舌が悪いうえに鼻声で、ひとつの言葉の意味も成さなかった。
振り返り、「それ」に視線を戻そうとすると「それ」は既に態勢を変えてこの場から離れていっており、目で動きを追っていくうちにやがて人の波間へとまるで霧か霞のように消失していった。
先程投げかけられた言葉が鮮明に耳の奥へと残り続けている。
骨の髄液にまで侵入してくるような断絶的な声だった。
もしかしたら何かが、新しく生まれ変わろうとしている兆しなのかもしれない。
僕は偽りの高揚感を抱き、緑青色に深まった世界を見つめ続ける。
もしかしたら「それ」は、神託を伝えにやってきた怨霊なのかもしれない。
どんな因果なのかは知らないが、迫害され続けてきた僕に舞い降りた邂逅なのかもしれない。
しばらく僕は、碌に瞬きもしないままその場に座り続けていた。
それとも「それ」は、僕だけに見ることの出来る残像だったのかもしれない。
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